窓の外は一面の銀世界で、ところどころに葉を落とした寂しい林が見える。低い太陽が雪原を照らしていて、影の部分は薄青い色、光の当たっているところは薄い黄色に染まっていた。
空には雲ひとつなかった。
そんな景色を眺めながら、わたしはまりこの「まり」が「鞠」だったか「麻里」だったか「毬」だったかぜんぜん思い出せないことに少しいらついていた。
まもなく列車はスピードを緩めて、そして完全に停車した。まりこは「さあ降りるよ」と事も無げに言ったのだけど、わたしはその瞬間を恐れていた。
だって！ものすごく寒そうなんだよ！
実際デッキに立ってみると冷気は想像以上だった。それでも気合いを入れて雪の降り積もったホームと思しき場所に鞄ごと飛び降りたら、腰まで雪の中にもぐってしまったのだった。そこはたんなる吹き溜りで、ホームではなかったのだ。
でもまりこは「あら、ずいぶん積もってるじゃない」なんて涼しい声で言ってのけるとわたしの隣に飛び降りた。
「さあ行こう」
まりこはわたしの手を取ると雪の中を駅舎に向かって漕ぎ出したのだった。
待合室のまんなかには石炭ストーブが焚かれていた。でも、寒かった。ストーブのすぐ側のベンチで体を暖めていると、白髪のおじいさんが石炭の入ったバケツを下げてこちらへやってきた。そしてわたしの理解できないことばでわたしたちに向かって何か言った。
「なんていったの？」
わたしは小声でまりこに聞いた。
「寒いねえって」
「何語？」
「ノルウェー語」
「・・・ここはどこだ？」
「ユーライア駅」
「どこの国？」
「カナダじゃないの？」
「・・・頭痛くなってきた」
「風邪？」
「そうかも」
わたしはバッグの中から葛根湯を出して飲もうとしたのだけど、封を開けたところで水がないことに気付いた。
「ねえ、水が欲しいんだけど」
「雪ならたくさんあるよ」
「そうじゃなくて、クスリを飲むのに水が欲しいんだけど」
するとまりこは石炭をストーブにくべているおじいさんに、わたしには理解できないことばで何か言った。おじいさんはにっこり笑って扉の向こうに消えると、間もなくマグを持って現れた。まりこはお礼らしいことばを述べてマグを受け取った。
「はい、水」
マグの中には雪の影のような薄青い水が入っていた。口に含むと、ビー玉のような涼しい味がした。
葛根湯を口の中に振り入れ、その水でいっきに流し込んだ。水はとても冷たかった。
まりこはお礼を言ってマグをおじいさんに返すと、「さあ、行こうか」とわたしを促した。
「どこへ？」
「今夜の宿に決まってるじゃん。それとも野宿して凍死してみる？」
まりこはときどき意地悪だ。
駅の待合室を出ると、そこは町のメインストリートで、十数戸の建物があった。ひっそりとしていて、まるでゴーストタウンだ。
まりこは駅を出てまっすぐ太陽と反対の方へ向かって歩き出した。そしていちばん町外れの建物の前で立ち止まった。
「ウリヤの涙亭──ここだね」
まりこが言った。
「これってホテル？」
「というよりも宿屋だね」
「どう違うの？」
「まあ、ホテルほど高級じゃないってことかな」
「ふーん」
まりこは躊躇なくドアを開けるとわたしの手を引いて中へ入った。
「いらっしゃい」
それはたしかに日本語だった。わたしはなんだか目眩いがした。雪の上を歩いてきて目が眩んだのかもしれなかった。そのせいか、建物の中は暗くて何も見えなかった。まりこは用意周到にもサングラスをしていたので、そんなこともなかったのかもしれなかった。
「ウリヤ、お久しぶり」
「やあまりこ、待ってたよ。そちらが噂の・・・」
「そう、可愛がってやってね」
わたしはちっとも事情が飲み込めなかったので、取って付けたようなおじぎをするので精一杯だった。
まりこはウリヤと呼ばれた男の人の肩に馴れ馴れしく手を掛けて、わたしに紹介してくれた。
「こいつが高校の頃からの友達のウリヤ。ほんとはウリタニ──瓜谷っていうんだけどさ、上司に奥さん取られてから、名前の読み方をウリヤに変えちゃったのさ。で、今はこの地で宿屋のおやじをやってるってわけ。変なやつだろ？」
「相変わらずだね、きみは」
そういうと、ウリヤさんはまりこの頬にキスをした。
「でも勘違いしちゃいけないよ。本物のウリヤが自分の奥さんを取られちゃったのは相手がダビデじゃあしょーがないってなもんだけど、あんたの場合、あんた自身の責任も大きいんだからね」
「わかってるよ」
「いいや、ちっともわかってないよ」
なんて会話が続いたのだけど、二人とも怒ったりも悲しんだりもせずに、笑って話していたのだった。
話がひと段落してから、まりこがウリヤさんにいった。
「これからユーライア湖を見に行くの。あんたも一緒に行く？」
「いいや。でもきみも物好きというか。冬になると e が a になっちゃうことは知ってるんだろ？」
「もちろん。だから来たのよ」
「日が暮れるまでに戻ってきなよ」
「わかってるって」
ウリヤさんはわたしたちの荷物をもって部屋に案内してくれた。狭くてぎしぎし鳴る階段を上って、南向きの少し広い部屋へ。
「同じ部屋でいいかい？」
「ＯＫよ。ダブルベッドだったらちょっと嫌かもしれないけど」
ベッドは部屋のあっちとこっちの壁に沿って置かれていた。
「他にお客さんはいるの？」
「残念ながらきみたちだけさ」
「ふうん。じゃあ、貸し切りだね」
「だからといって、あんまりはめを外さないでくれよ」
「わかってるって」
カーテンを開けると、一面の銀世界と青空が眩しかった。
「運がいいね。昨日まで三日間吹雪だったんだよ」
そのせいで、なにもかもが雪に覆われてしまっているのだった。
わたしたちは軽く昼食を取ってからユーライア湖へ向けて宿を出た。夏なら自転車で片道二十分の道のりらしいけど、冬はそうはいかない。それに雪が降ったばかりなので、歩いていくのは無理だと言われた。仕方なくわたしたちはスキーを借りた。どっかでスキーをしようとスキーウェアを持参してきていたのは幸いだった。
雪原はあまりに眩しかったので、わたしもまりこにならってサングラスをかけた。
何もかもが雪に覆われていたので、道も畑もなかった。わたしたちが避けなければならなかったのは、素っ裸のみすぼらしい林だけだった。
途中はほとんど平坦なので、クロスカントリーという感じでストックを使って進むのだけど、慣れないことはなかなかうまくいかないもので、ユーライア湖に着く頃にはわたしもまりこもへとへとに疲れてしまっていた。
わたしたちは構わず雪のうえにからだを放り出し、しばらく空を見上げていた。それから二人並んで眺めの良さそうな場所に座り、魔法瓶の中のお茶を飲みながら、チョコレートを食べた。そして人心地ついたところで辺りを見まわすのだけど、湖なんてどこにも見当たらないのだ。
「ねえ、ユーライア湖ってどこ？」
「ここ」
「え？」
「だから、ここ」
「でも、これって丘でしょ？」
そのあたりは周囲よりも十数メートル高くなっていて、丘というのにはちょっとおおげさだけど、でも辺りがほんとに低平なので、けっこう見晴らしがきくのだった。ずっと向こうに駅と町が見えた。
「でも、ここなの」
まりこが言った。
「どういうこと？」
「ユーライア湖は、冬になるとこうなっちゃうのよ。つまり、まずは表面が分厚い氷に覆われて、次に、どういうわけかその氷の上に吹き溜りができちゃうわけ。で、この辺は永久凍土だから、凍らなかった湖の水は完全に氷によって密封されちゃうわけ。その密封された水の圧力で、この雪の丘が支えられているってわけ」
「ユーライア湖って、小さいの？」
「うん。まあ、日本語で湖っていっちゃうとなんか変なんだけど、この辺りでは川と海以外の水のたまっているところは全部 heep だから」
「さっきいってた e が a になっちゃうってどういうこと？」
「つまり、heep が heap になっちゃうってこと。heap っていうのは a heap of でひと山って意味で、つまり、湖が山になっちゃうってこと。季節によって e と a がすり変わっちゃうってのは、そういうこと」
「なるほどね。でもなんか嘘くさいっていうか日本語的発想っていうか」
「おだまり！」
で、時計を見るとウリヤさんのいってた日没まであとちょうど一時間。わたしたちは heap の斜面を登った数十分の一の時間で滑り降り、heap を一望できるところまで離れてから写真を撮った。
写真を撮り終えると、それまで薄黄色だった heap がさっと薄青色に変化した。振り返ると、まるでビデオの早回しみたいにものすごい早さで灰色の雲がこちらへ押し寄せてくるところだった。太陽はすでに雲に隠れていた。わたしは体の震えるのを抑えることができなかった。
「さあ、早く帰ろう」
まりこは顔色ひとつ変えずにそういった。
間もなく雪が降りはじめ、あたりは急激に暗くなりはじめた。風もだんだんに強くなっていった。
そしてわたしたちはいつの間にか吹雪の真っ只中をさまよっていたのだった。
まりこは私の前を黙々と滑っていき、わたしはそれに付いていくのが精一杯だった。
吹雪は衰える気配もなく、かえってひどくなっていくようだった。そして、まりこの背中さえ時折見えなくなるほど暗くなりはじめていた。
まりこは突然ターンしてわたしの隣にやってきた。
「この状況でこのまま進むのは危ないよ。この辺りで雪洞を掘ってビバークしよう」
「ビバークって何？」
「野宿ってこと」
「これ以上進むのは無理？」
「やめたほうがいいと思う」
「わたしたち、これで終わりなのかな？」
「・・・かもね。ただ、より確率の高いほうに賭けようっていうわけ」
「わかった。で、雪洞って何？」
「・・・カマクラみたいなもんだよ」
命にかかわる状況だと頭では分かっていても、カマクラを作るっていうのはなんとも心はずむ作業だった。だって、東京生まれ東京育ちのわたしは、カマクラなんて作ったことがなかったから。スコップもなんにもなかったので、まるでモグラみたいに両手で雪を掘った。手袋をしてはいたけど、作業が終わる頃には両手の感覚はほとんどなくなっていた。
出来上がったのはカマクラっていうよりも地下の秘密基地って感じだった。それはわたしたち二人が巣篭りしたらそれで終わりという狭さ。
「ときどき入り口を開けて空気を入れ替えないとね」
「うん」
「絶対に、眠っちゃダメだよ」
「うん」
「絶対に、だよ」
「うん」
「おい、眠るなよ！」
ぱんぱんぱーんとまりこがわたしの頬を数度引っぱたいた。それでなんとか目が覚めたのだけど、夕べの睡眠時間が足りなかったのとユーライア湖を見に行ったのと雪洞を掘るのとですっかり疲れてしまっていて、一度眠ってしまったら２０時間くらい目を覚まさないんじゃないかっていうくらい眠かった。でも、ほんとうに一度眠ってしまったら、２０時間ではすまないのかもしれなかった。
懐中電灯を消したら、真っ暗になった。信じられないほど静かで、外の音はまったく聞こえない。まりことわたしのスキーウェアの擦れる音と、息遣いが聞こえるだけだ。
「ねえ」
まりこが言った。
「なに？」
「なにかおしゃべりしよう」
「・・・」
「おい、眠るなよ！」
「寝てないよ。ただ、改まっておしゃべりしようと思っても、なんにも思い付かなくて」
「そういえばそうだね」
まりこはそれきり黙ってしまったけど、ときどき聞こえるため息から、眠ってしまっているんじゃないってことだけはわかった。
「ねえ」
まりこが言った。
「なに？」
「ごめん」
「なにが？」
「こんなことになっちゃって」
「まりこのせいじゃないでしょ？」
「でも、ユーライア湖を見に行こうなんていわなければこんなことにはならなかった」
「そのかわりわたしたちを乗せてローマへ向かう飛行機が墜落してたかもしれない」
「どうしてローマなの？」
「さあね」
まりこはわたしの肩を抱き寄せると、「愛してるよ」って言った。わたしは「ありがとう」って言った。
それからしばらくのあいだ、わたしたちは沈黙していた。でもしばらくとはいっても、実際どのくらいの時間が経っていたのかはよくわからなかった。でもそれを知るためには懐中電灯を付けて時計を見ればいいだけのことだった。まりこも同じことを考えていたのか、懐中電灯を付けて腕時計を見た。
懐中電灯に照らされたまりこの顔は、とてもきれいに見えた。
わたしがじっと見ているのに気付いたのか、まりこは「何？」と言った。でもわたしの口を突いて出たのは、まりこの美しさを誉め称えることばでも時刻を尋ねることばでもなく、「おしっこしたい」だった。
実は、だいぶまえからおしっこをしたくてたまらなかったのだ。でもどうしたらいいのかわからなくて、困ってしまっていたのだった。
「それは困ったねえ」
まりこは懐中電灯を持ったまま腕組みをした。わたしの告白はまりこのことも困らせてしまったようだった。
「もしかしたらそろそろ吹雪が止んでるかも」
まりこは換気をかねて外の様子を見てみようといって、雪で塞いだ入り口に穴を開けた。すると、信じられないほど冷たい空気が粉雪をともなってわたしたちの巣の中へ吹き込んできた。外からは恐ろしげな風の音が聞こえてきた。まりこは上半身を穴から出して、懐中電灯で外の様子をうかがった。そして再び穴の中にしゃがみこんだ。まりこはすっかり雪まみれになっていた。
「だめだ、こりゃ」
まりこは首を横に振った。髪に付いていた雪が穴の中に飛び散った。
「ここから出て行くのも、外で用を足すのも、どちらもやめたほうがいいと思う」
「じゃあ、どうしたらいいっていうの！」
わたしはそろそろ我慢の限界だったので、つい悲鳴のような声を出してしまった。
「そこでしなよ」
まりこは冷酷無比にそう言い放った。
「・・・そんなことできないよ」
「するしかないよ」
「できないよ、そんなこと！」
「・・・じゃあ、一緒にするっていうのは？連れションってやつだね」
まりこの同情だかなんだかわからないけど、それなら少しはましかも知れないと思った。とにかく、もう我慢の限界だった。
「スキーウェアを脱いだら、懐中電灯を消すから、そうしたら一緒にしよう」
わたしたちは狭い穴の中でほとんど無茶な格好になりながら、ワンピースのスキーウェアを脱いだ。それがどんなに長い時間に感じられたことか！姿勢を変える度に漏れそうになった。いったい何度「もうダメ」と思ったことか・・・。
穴の中は、壁に触ると信じられないほど冷たかったけど、出口に蓋をして数分もするとほんのり暖かくなってきていたので、短い時間ならそんな格好でいることも不可能ではなかった。
「じゃあ、懐中電灯を消すからね」
それからわたしたちは一緒におしっこをした。おしっこが雪の上に落ちる音がたまらなく恥ずかしかったけど、でもその音は確かに二人分で、それで救われたという気もするのだった。でもでもまりこには申し訳ないことをしたのかもしれなかった。というのも、まりこのほうはすぐにその音が止んでしまったからだった。
わたしは膀胱がしぼんでいくのを感じながらほっとしていた。それから、おしっこをすることがそんなに気持ちいいと感じたことがそれまでになかったということに気付いたのだった。
わたしのほうが終わってから少しして、まりこが「じゃあ、懐中電灯付けるからね」といった。
明るくなるとわたしたちの足元に雪の溶けた部分があって、まだ少し湯気が立っていた。
「おしっこって、暖かいんだね」
まりこが感慨深げに言った。
「だって、人のからだの暖かさだから」
「そうか、そうだよね」
穴の中にはおしっこの匂いが立ちこめていたのだけど、それがなんだか懐かしげで、いつまでもその匂いに浸っていたい気さえしたのだった。
わたしたちはおしっこで溶けた雪のうえに壁から削り取った雪を敷き、踏み固めた。そしてスキーウェアを着込む前に、鳥肌の立ったお互いの体を温め合った。
「おしっこの暖かさだね」とまりこがいった。
それからわたしたちは穴の中でチョコレートを食べた。おしっこをしたくなるのでお茶はやめた。
まりこはわたしのことをずっと抱きしめてくれていた。わたしはなんとか眠らないように努めていたのだけど、ふっと意識が途切れる瞬間が続いた後、とうとう深い眠りへと落ちてしまったのだった。
そして、夢を見た。