（２）

世界地図で北米大陸北部、つまりカナダのあたりを眺めると、ハドソン湾のまわりには低い土地が広がっていて、そこには大小むすうの湖が点々としている。

まりこは少しのためらいもなく地図の一点を指さすと、「ここにユーライア湖があるんだ」といった。

「このへんは一万年くらい前には分厚い氷に押し潰されてた場所なんだ」

閑散としたプラットホームで高校の授業のときに使ってた地図帳を広げるわたしたちのまわりには誰もいなかった。そればかりか、見渡す限り人っ子ひとりいないのだった。

わたしたちがいるのはセント・パンクラス駅のはずで、だとすれば北イングランドに向かう列車はそこから出るはずだった。でも目的地はユーライア湖で、ぜんぜん行き先が違うんじゃないのって思ったんだけど、そんなことを口にしてもしょうがないっていうか埒が開かないっていうか、とにかくするべきことや考えるべきことはほかにたくさんあるはずで、だからなにも言わなかった。でもそれ以上に気になってたのは、まりこの「まり」が「鞠」だったか「麻里」だったか「毬」だったかぜんぜん思い出せないってことだった。

まりこは茶色いベレー帽を被って、わくわくしてるようなクールなような素振りをみせていた。そんなところがすごくまりこらしいといえばいえなくもなかった。

「ねえ、湖って普通 lake だよね。どうしてユーライア湖は heep って綴るんだろう？」

わたしは突然思い付いた疑問をまりこにぶっつけてみた。

「ふふん。スコットランドでは湖のことを loch っていうでしょ？ハドソン湾沿いのそのあたりでは湖のことを heep っていうんだ」

「ふうん」

まりこは物知りで、なんでも知ってる。いつものことだけど、感心する。やっぱりまりこってすごい。

「じゃあ、そろそろ乗ろうか？」

でもその列車のドアには取っ手がなくて、開けることができない。かといって自動ドアでもないようだ。するとまりこが「こうするのよ」って説明してくれた。まずドアの窓を引き降ろし、内側の取っ手を下に押し下げるというのだ。でもまりこは一連の動作をプラットホームに立ったままできるほど背が高くないので、わたしが抱きかかえてようやく目的を達成することができたのだった。

車内にもやっぱり誰もいなくって、でも暖房ががんがんきいていたから寒くないどころか暑いくらいだった。コートを脱いで並んで腰掛けると、すべるように列車が走り出した。まもなく低い太陽が雲の間から顔を出し、わたしたちを照らした。

手日差しで窓の外を眺めると、灰色の世界に黄金の福音が降り注いでいる──なんというひどい言い回しだ。でもそんな感じだった。

それからしばらく、列車は灰色の世界を走り続け、やがて日が落ちると外はだんだんに暗くなっていった。最初は薄青いベールがかかったように見えた景色も、だんだん海の底みたいになっていって、最後には真っ黒くなって何も見えなくなった。窓に顔をくっつけて、両手で目の回りを覆って光が入らないようにしても、なんにも見えなかった。

まりこは黙って本を読んでいた。

「何読んでるの？」

「サムエル記。ウリヤってかわいそう。ダビデに奥さんを取られた上に、謀って殺されちゃうの」

「ふーん」

「ユーライア湖ってねえ、ウリヤが天に召されてから全てを悟って、そのときに流した涙でできたっていう言い伝えがあるんだ」

「・・・場所がぜんぜん違うじゃん」

「細かいことは気にしないの」

「ウリヤって人、怒らないで泣いたんだね」

「悔し涙かもね」

「うーむ」

「あとね、異説なんだけど、ウリヤのおしっこでできたっていう話もあるんだ」

「・・・あんまり考えたくないな」

「これには事情があるのよ。この地方では男性が精液ということばを口にすることが憚られていたのね」

「電車の中で大声で口にするのも憚られていいことばだって気がしなくもないね」

「いいじゃん、ほかに誰もいなし、だいたい日本語なんて誰にもわかりゃしないよ。精液精液精液精液精液精液・・・」

「・・・勝手に言ってろよ」

「・・・ごめん。でね、精液という──また言っちゃった」

「いいよ」

「精液ということばを口にするかわりに、おしっこって言ってたんだって」

「なんでやねん」

「出る場所が一緒だからじゃない？」

「・・・」

「とにかく、そう言われてたんだからしょうがないんだよ」

「でもそれじゃあどっちの話をしてるんだか区別がつかないんじゃないのかなあ」

「それは、文脈から判断するんでしょう？『道端でおしっこした』とか『恋人の中におしっこした』とか」

「・・・女はシビンか？」

「うーむ・・・文例が悪いのかも」

「というよりも、男の体の構造が下品だってことなんだろうね」

「・・・それは言い過ぎというものだろう？」

「すまん・・・でさあ、どうしておしっこってことばで代用されてたわけ？」

「はっきりしたことはわからないけど、精液、っていうことばを口にすると生殖能力が減退もしくは消滅すると考えていたらしいね」

「ふうん」

「でも、なんとなく創世記のオナンの話を思い出させるよね」

「あの、あれの語源になったって人？」

「そう、オナニーの語源になったって人。オナンは地面に精液を垂らしたっていうんだけど、どうもその話とこんがらがっているんじゃないかって気がするんだよね」

「うーむ」

「だから、ウリヤのおしっこっていうのは、ウリヤの精液なんじゃないかって思うんだ」

「なるほど」

「まあ、涙にしてもおしっこにしても精液にしても、体から出るのに変わりはないけどね」

まりこは物知りで、なんでも知っている。

車内は少しずつ冷えてきていた。暖房はきいていたのだけど、外からやってくる寒さが暖房に打ち勝っていたみたいだった。

わたしはコートにくるまって目を閉じた。列車の心地好い揺れの中で、眠りに落ちるのはあっという間だった。

そして夢を見た。