ユーライア・ヒープなんてことばは記憶から完全に消去されてしまっていたところでなんの不思議も不都合もなかったのだが、それが朝方の寒い夢の中で預言者のつぶやきのように立ち現れたのはどういうことなのか。
目が覚めるにつれ、寒い夢は朝霧のように少しずつ消えていった。でも、ユーライア・ヒープということばだけはそのまま残された。そしてユーライア・ヒープということばの持つ違和感を抱いたまま目覚ましを手に取った。すでに十時を過ぎていた。それなのにとても寒かった。しかしいい加減お腹が空いていたので気合いを入れてベッドを飛び出し、カーテンを開け、ファンヒーターのスイッチを入れた。空は冷たく晴れ渡り、ファンヒーターの表示は４℃を示していた。
トイレに行くと、驚くほどたくさんのおしっこが出た。
ティーバッグで紅茶を入れ、菓子パンをかじってブランチにする。そして、紅茶を入れたマグで両手を暖めながら、ユーライア・ヒープということばについて考えた。たしか古いロックバンドの名前であったような気がしたのだが、不思議なほど記憶があやふやだった。なんというか、そのことば自身の輪郭ははっきりしているのに、それが何を意味しているのかとか、どんな文脈で使われていたのか、というようなことになると、頭の中に霧がかかったようになるのだった。
そんなことを考えたり新聞を読んだりしているうちにあっというまにお昼になってしまい、ニュースのトップでは日本海側の広い範囲で大雪が降っている、ということを伝えていた。
しかしここ東京では空気がこれ以上ないほど乾燥し、よく晴れていた。天気予報では北西の風が強いでしょうと報じていたにも関らず、窓から見える木の枝はそよぎもしないのだった。
午後になってもユーライア・ヒープということばは頭の中から消え去ろうとはしなかった。なんだか気になって気になって仕方がないのだった。でも、そろそろ太陽がその高度を下げはじめた頃になって、頭の中の霧が少しずつ晴れてきて、夢の中ではそれが「ユーライア湖」という湖の名前になっていたことや、たしかにユーライア・ヒープというバンドがあったことや、そして不正確ながらアルバムのジャケットまでも思い出してしまったのだった。それはつまりその頃になってようやく目が覚めてきたということなのかもしれない。
ジャケット上端の両隅には、たしか目が描かれたはずだ。
でも、ユーライア・ヒープというバンドそのものについてはまるで何も知らない、ということもわかってきたのだった。プログレバンドみたいな名前だけど、そうではないのかもしれない。まあ、パンクではないとは思うけど。
そしてまた、ユーライア・ヒープが何語であるかとか、どういう綴りであるのかなどということも、どうもはっきりしないのだった。たぶん最初から知らなかったのだろう。たぶん英語だとは思うのだけど。ほんとうに「ユーライア」と「ヒープ」で切れるのかどうかもよくわからない。もしかしたら You Lie Aheap なんて綴るのかもしれない。
そろそろ太陽が沈む頃になって、電車に乗って行きつけのＣＤショップへ。電車は意外にも空いていた。向かいの窓からビルの間を縫って差し込んできた夕日が眩しくて目眩いがした。
行きつけのＣＤショップではアーティスト名がアルファベット順になっていて、ユーライア・ヒープがどんなスペリングか分からない身としては、ちょっと辛い。
で、いくつかの仮説を。まずはＵから始まる説。たとえば U Lie 〜みたいに。次はＹから始まる説。You Lie 〜みたいに。次はＥから始まる説。Eureka みたいに。
結局第一の仮説が正しくて、すぐに見つかってしまったのだった。正解は Uriah Heep。記憶にあった目の描いてあるジャケットもすぐに見つかった。『対自核』という妙な邦題。原題はなんてことはない Look at yourself。ピンクフロイドの『原子心母』──Atom Heart Mother の真似か？
驚いたことに、なんていったらファンの人に怒られるかもしれないけど、ずいぶんたくさんのアルバムが出ているのだった。なんとなく、一枚だけすごいアルバムを出してその後は鳴かず飛ばずのうちに消えちゃったバンド、なんて勝手な思い込みをしていたのだけど、なんと最近まで、あるいは今でも活動しているバンドなのであった。
というわけで、『対自核』一枚だけを購入。外に出ると風はなくて、人が多くて、太陽が消えていた。ビルの谷間はすっかり暮れなずんでいて、ぐっと冷え込んできている感じだった。マフラーを首にぐるぐる巻きつけて両手をポケットに突っ込んで、帰宅。
家の中はめちゃくちゃ寒くてコートを脱ぐ気もマフラーを取る気にもなれなかった。ファンヒーターのスイッチを入れると室温４℃。朝とおんなじ。寒いわけだ。
ファンヒーターの温度表示が１４℃になるまでその前にうずくまって暖を取り、それからようやくコートを脱いで、お湯を沸かし始めた。紅茶はもちろんダージリン。ブリティッシュ・ロックにはダージリンだから、やっぱり。
なんと、なんて驚くほどのことではないけど、ユーライア・ヒープはブリティッシュ・ハードロック・バンドだったのだ。
というわけで、じっくり入れたダージリンをよく暖めたお気に入りのマグカップに注ぎ、ＣＤの封を開けてラジオの壊れたＣＤラジカセにセット。で、プレイボタンを押す。いちばんどきどきする瞬間。
・・・ライナーノートを読むと、名盤ということらしい。確かにその通りだと思う。ただ、夢の中でユーライア・ヒープということばの持っていた冷たさとはちょっと異質だなと思った。その意味ではがっかりしたけど、それはこっちの期待がもともと無茶だったんだから、仕方ない。
バンドの名誉のためにきちんといっておくけど、『対自核』は素晴らしい出来のアルバムだ。
さて、ひととおり聴き終わったところでユーライア・ヒープということばを愛用の『リーダーズ英和辞典』で引いてみた。なんと、ディケンズの『デビッド・カッパーフィールド』の登場人物の名前なのだそうだ。それも悪役の。バンドのネーミングとしてはかなりダサいと思う、悪いけど。
そう、それに気付かなかったってことは、『デビッド・カッパーフィールド』を読んだことがなかったってことですね。まいっか。