（５）

両親が離婚したとき、わたしは父に引き取られることになった。母親がほかの男の人と付き合っていたらしい、という話をわたしは聞くともなしに聞いてしまっていて、それが何を意味するのかということは五歳の私にはよくわからなかったが、とにかく、母親と二人で暮らすよりは父親と二人で暮らすほうがいいと思って、わたしはほとんど無意識のうちに父親にべったり寄り添うことで意思を表示していたのだった。

たぶんそんなこともあって、家裁の調停員を含む、母親を除くすべての人たちは、私が父親と暮らすほうがよいと判断したのだった。

そういうことがわたしの頭の中をぐるぐるまわっていたのだが、わたしが言ったのはワイングラスに関することだった。

「壊れたワイングラスの残骸、今も家にあります。きれいな箱に入っています。年に一度だけ父は家でお酒を飲むのですが、そのときにそれを出してきて眺めるんです。それ何？って聞くと、『ほろ苦い思い出』と言って笑うんです。いまはじめて、その思い出がどんなものなのか知りました。

その年に一度のお酒を飲む日というのは、父とあなたの結婚記念日なんです」

母親はそれを聞いて「信じられない」と呟いた。そしてのろのろと立ち上がり、わたしの横まで来ると、わたしではなくて輪になったロープに手を伸ばした。

「今でも孝信さんは私のことを憎んでいるんだ」

そう言ってロープを自分の首に掛けた。

わたしは自分の言ったことが予期していたのと全く逆の効果を示したのを見て、すっかり戸惑っていた。

父は今もあなたを愛しています。

わたしはそう言ったつもりだった。だから悠くんが「止めなきゃ」と言わなかったら、母親が首を吊るのを黙って眺めていたかもしれい。

わたしは悠くんと一緒になって母親の首からロープを外そうとしたが、母親は酔っ払ってるせいかすごい力で抵抗した。そのうちどうにかロープを首から外すことはできたが、母親はロープにしがみついて離そうとしなかった。

そしてもみ合っている拍子に三人揃ってバランスを崩し、倒れそうになった三人が三人ともロープを掴んだ。その結果として、ロープを三人分の体重を掛けて引っ張ることになった。すると家全体がぎぎぎぎー、という不吉な音を立てた。わたしたちははっとして動きを止めた。しかし三人とも倒れそうな姿勢だったのですぐにロープを離すことはできなかった。その間にもぎぎぎぎぎー、という不吉な音は続いていた。

どうにか体勢を立て直し、ロープから手を離すとその音は止んだ。しかしほっとしたのも束の間、次の瞬間には家全体が不吉な音を発し始めた。

「逃げましょう」

そう言ったのは悠くんだった。わたしは部屋のガラス戸を開けようとしたが家全体が歪み始めているのかびくともしなかった。それから玄関へ行って戸を開けようとしたが、やはりびくともしなかった。台所の勝手口も同じだった。勝手口はガラス戸ではなかったので体当たりしてみたが、逆に弾き飛ばされただけだった。

「窓もだめです」と悠くんは言った。

「何かでガラスを叩き壊すしかなさそうです」

「これを使いなさい」

母親はワインの瓶を差し出した。悠くんはそれを受け取り「下がっていて下さい」というとガラス戸に叩きつけた。しかし細かい桟で区切られたガラス戸は、その一部が壊れただけだった。同時にワインの瓶も割れてしまい、使い物にならなくなってしまった。

「ちょっと出られそうにないわね」

母親は涼しい顔をしてそう言った。

家はいつのまにか目で見てわかるほど歪んできていて、柱はすべて傾き始めていた。ぱらぱらと壁が剥がれ落ち、ぎぎぎぎー、みしみしみし、という音が響いた。そしてときどきばりっ、ばきっ、というすごい音がした。無理とはわかっていても、渾身の力を込めてガラス戸を動かそうとするのだが、どうにもならなかった。

「だめです、ドアを叩き壊すような道具は見つかりません」

悠くんが私の後ろから言った。

「万事休すだね」

母親が言った。すごく腹が立った。わたしのことははともかく悠くんのことをどう思っているんだろう？わたしは振り返ると悠くんを抱きしめた。

「ごめん、悠くん。つまんないことに付き合わせちゃって。わたしとあの女がここで心中するのは仕方のないことだけど、何の関係もない悠くんを巻き込んでしまって、ほんとうにごめんなさい」

「まだ死ぬと決まったわけじゃありません。一気に倒壊するのでなければ隙間から脱出できるでしょうし、押し潰されなければ怪我をするだけで済むかもしれません。それに僕はまんざら無関係というわけでもないんです」

「・・・どういうこと？」

そのとき、それまでぎぎぎぎ、とか、みしみし、とか、ばりっ、としか聞こえなかった音が、妙な調和を見せ始めた。ポケットの中の時計が振動した。わたしは時計を握り締めた。

家の発するノイズは、ややぎこちなくド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドという音階をたどり、それからまるでオルゴールみたいに『虹の彼方に』を奏で始めた。

「『つくもがみ』だ・・・」

悠くんが呟いた。

『虹の彼方に』は三コーラス繰り返されたが、四コーラス目の途中からノイズに変わってしまった。そのとき時計が少し強く振動し、わたしの後ろでガラス戸のガラスががちゃんがちゃんと割れ始めた。悠くんを庇いながらガラス戸から離れると、それを見届けたかのように、ガラス戸全体がすごい音を立てて粉々に砕け散った。

そしてそこにぽっかりと出口が開いた。

「さあ、速く！」

わたしは悠くんと母親の手を引いて外へ飛び出した。そして草をかき分け塀際までたどり着いたとき、ものすごい音と埃を舞いあげて、わたしたちの家は倒壊した。

この家に住んでいた頃のことは、不自然なほど覚えていない。というか、ずっと心の底に沈めていたのだと思う。その中のひとつを突然思い出した。おそらく、この家でのいちばん楽しかった思い出。

家から少し離れたところに桑畑があって、そこへ家族三人で桑の実を取りに行った。ときどきつまみ食いしながら、ポリエチレンの袋いっぱいに収穫した。帰りは少し眠くて、おんぶした父親の背中があったかくて──そうだ、思い出した。母親がハミングで『虹の彼方に』を歌ってくれたのだった。

家に帰ってからわたしたちは桑の実をホーローの鍋に入れてぐつぐつ煮て、ジャムを作った。むせ返りそうな甘ったるい匂いが家じゅうに広がった。母親はジャムを煮ながら『虹の彼方に』を歌っていた。そしてときどき鍋の中からスプーンでジャムを掬って、口でよく吹いて冷ましてから、「舞ちゃん、味見係りね。はい、お口開けて。あーん」と私の口にスプーンを差し入れた。

「おいしい」

そう言うと、「そう、よかった」と母親はわたしの大好きな笑顔を見せてくれた。

そこへ父が割り込んでくる。

「僕にも味見させてくれよ」

「はい、あーん」

母親は私にしてくれたみたいに父親の口にもスプーンを差し入れた。

「うん、美味しい。手作りのジャムもいいもんだね」

「なにしろ私の手作りだからね」

父は何か言うかわりに母親のおでこにキスをする。母親は「やだ、ジャムが付いちゃうよ」と言いながらも嬉しそうに笑った。

あたりには、建物が倒壊した現場にそぐわない、甘ったるい、でも幸せな匂いが漂っていた。わたしと母親は顔を見合わせた。

「覚えててくれてたんだね、わたしたちの家」

「そうみたいだね」

母親も覚えていてくれたのだった。

「さあ行きましょう。人に見つかると面倒ですから」

悠くんはいつまででもそこに立ち尽くしていそうなわたしと母親の手を引いて、どこだかわからないけど団地の横の小さな公園に連れて行った。母親も悠くんも埃まみれだった。ということはわたしもそうだったんだろう。

体中の埃を払って、手と顔を洗って、わたしと母親は悠くんを間に挟んでベンチに座った。

「あーあ。三回死のうとして、三回とも失敗しちゃった」

母親は笑った。

「一度目はともかく、二度目と三度目はギャグだもんね。三回目なんて、首を括ろうとしたら家が壊れたなんて」

「筒井康隆の小説に、そういうのがあった。売れない作家が何度も何度も自殺しようとするのだけど、死ねなくて、全部ギャグになっちゃうの」

題名は忘れたけど、わたしはそういう小説を読んだことがあったのを思い出した。

「そーかー、ギャグか。まいったねえ」

月がわたしたちを照らしていた。そろそろ真夜中。

「あーもー、やめたやめた。死に神にも見捨てられちゃあねえ。生きるしかないじゃない？きっとガンも私を見捨てるに違いないね」

「ですね。それにはっきりいって、死なれると迷惑です」

「迷惑かあ。なるほどねえ。そうかもねえ。

さっき孝信さんとの離婚のきっかけについて話したよね？あのあとほんとうにいろいろあって、孝信さんや舞ちゃんはもちろん、私もひどく傷ついたんだ。私っていつものーてんきだけど、これで結構傷ついたりしてるんだよ。今日だって、ものすごくかっこ悪いところを舞ちゃんと、それから──悠くんだっけ？──にまで見せちゃったし。ほんとはそれだけで死にたくなるくらいなんだ。

でもそういうことで死にたくなるっていうのはやめたんだ、ずっと前に。同僚のあいつの家に転がり込んでた頃、世間じゃ私のことどう思ってるのかなって考えてたら、それだけで死にたくなっちゃってね。今考えると、よくあれで大学を辞めずに済んだなって。

そんなとき、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアに出会った。知ってる？」

「知ってる。今読んでる。『たったひとつの冴えたやりかた』」

「わたしが最初に読んだのもそれ。あれを読んで、コーティー・キャスのように生きたいって思った」

「ネタバレになるからそれ以上内容に踏み込まないように。まだ全部読んでいないから」

「わかったわかった。ティプトリーの最後は知ってる？」

「ダンナさんを拳銃で撃って自殺したって話でしょ？」

「うまくいえないけど、そのことからアリス──ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの本名──そして『不思議の国のアリス』のアリス、そして、『オズの魔法使い』のドロシー、そしてコーティー・キャスは全部私の中で繋がっちゃってね」

「それって目茶苦茶じゃないですか」

「めちゃくちゃだけどね。共通しているのは『少女』が冒険するってことだけなんだけど。ティプトリーの生涯は、まさに冒険だったしね。そして、それこそめちゃくちゃな話なんだけど、そうか、私は冒険してるんだって、そう思ったのよ。少女どころか中年真っ只中だったんだけど。それで、つまんないことを考えるのはやめて、生きようって」

「なんか安易ですね」

「うん、安易。でもいいの。今回はかなりきつくって、冒険を続ける気力もなくなっちゃったんだけど、死のうとしたことがギャグになっちゃったってことはつまりまだ冒険は終わりじゃないですよってことなのかもしれない。二人のアリスの冒険の終りも、それからコーティーとドロシーの冒険の終りも、悲しかったり切なかったりするけど、ギャグじゃないもんね。ギャグじゃなくなるところまで、私は生きてやる。ガンにだって負けない。たとえまたひとりぼっちになったとしても。でももうそんな心配はないのかもしれない。

ねえ悠くん、もう遅いから家に泊まってけば？なんだか顔色悪いし」

「いえ、僕は帰ります。ちゃんと帰れますのでご心配なく」

「でも、もうバスはないよ」

「駅まで歩いても二キロくらいですから」

「今から駅まで歩いて行っても、終電に間に合うかどうかわからないよ」

「そのときは駅で始発を待ちますから」

「だめだよ、体こわしちゃうよ。泊まってきなよ」

悠くんは困った顔をした。でも母親はそんなことにはおかまいなく、少し先の大通りに出てタクシーを拾ってきてわたしと悠くんを無理矢理押し込んだ。

タクシーが走り出すと、母親は「悠くんに舞ちゃん、今日はほんとうにありがとう。すごく嬉しかった。本当に嬉しかった」と言った。そしてマンションに着くまでずっと窓の外を見ていた。

おかげでわたしがタクシーの運転手に道案内をしなくてはならなかった。

「あ、お父さん？」

「今どこにいるんだ？」

「お母さんのとこ」

「・・・そうか」

「心配かけてごめんなさい」

「いや・・・母さんは元気か？」

「ちょっと落ち込んでる。だから今晩ここに泊まるね。ちょっと喝入れちゃる」

「ははははは。それはいい」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「ごめんなさい」

「どうした？」

「・・・なんでもない。じゃあ明日の午後には帰るね」

「夜までいてあげなさい」

「だって宿題あるもん」

「そうか」

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」

ポケットの中から懐中時計を出してじっと眺めていたとき、母親が言った。

「孝信さん、約束守ってくれたんだね。それはもともと私のおじいさんのもので、十六歳の誕生日に貰ったの。離婚が成立したとき孝信さんに、舞ちゃんが十六歳になったら渡してねって頼んだの」

そっと文字盤の上のガラスに触れると、時計の針が一瞬止まって、そしてすぐに動き出した。