（４）

私たちの住んでいた家は平屋の木造住宅で、まわりには同じような家がいくつか並んでいた。作りは簡素で、その頃すでにかなり老朽化していたのではないかと思われる。

その頃のことはほとんど覚えていない、ということにしていた。それに父はその頃のことを話題にしたがらなかったし。

しかし今年の夏、突然その場所を見たくなり、父宛の古い年賀状で住所を調べ、訪ねてみた。

母親のマンションの最寄り駅を過ぎてさらに二十分ほど電車に乗り、駅前からバスで終点まで十五分。そこからさらに歩いて十分の不便な場所。

その日はよく晴れて暑くて、真っ青な空に入道雲が浮かんでて、バス停の隣の雑木林で蝉がうるさいほど鳴いていた。家とか畑とか、学校とか資材置き場とか、そういうものが不規則に並んでいるような郊外。

そこには十棟くらいの同じ規格の平屋の木造住宅が並んでいて、瓦がずれてたり、雑草が生い茂ったり、つる草がからまったり、アンテナが倒れたり、家そのものがひしゃげてたりした。どの家にも人の気配はなかった。小さなゴースト・タウン。

わたしたちの住んでいた家は道路の突き当たりにあった。住居表示が幸いまだ残っていて、それと確認することができた。ポストにはかなり昔に投函されたと思われるすっかり色あせたチラシがいくつか入っていた。門扉には蔓草が絡まっていて、そのままでは開きそうになかった。かといって蔓草を取り去るのは大変そうだった。わたしは持ち合わせていない運動神経を総動員して門扉によじ上った。すると門扉が壊れますとでもいうような悲しそうな音を出し、びっくりした拍子に門の内側に転落した。

門の内側には腰くらいの高さの夏草が生い茂っていて、所々その上に蔓草が被さっていた。ずっと奥のほうにはすっかり枯れたアジサイの花の残骸が見えた。

門灯は壊されていた。酔っぱらいかクソガキが石でも投げつけたのかもしれない。玄関の戸は案の定開かなかった。でもどこか入るところはないかと家の横を草をかき分けて進んでいくと小さな庭に出た。

庭の向こうには蔓草に覆われた塀があり、その向こう側は雑木林だった。右側はすっかり錆びたトタン板で仕切られていた。たぶん倉庫か何か。その反対側は背の低い塀で、向こう側は隣の住宅だった。

その小さな庭は、世間のあらゆるものから仕切られた別天地だった。草をかき分け、蚊に刺されるのも構わずに濡れ縁に腰かけ空を見上げた。信じられないほど懐かしい気持ち。

背後のガラス戸を動かしてみると、簡単に開いた。

室内は埃っぽくて畳はぶよぶよで、冒涜するようで嫌だったけど靴のまま家の中を歩き回った。からっぽで、なんにもない。ところどころ植物に侵略されて、よく見ると壁はひびが入っていたりはがれ落ちてたり、柱も見てわかるほど傾いていた。倒壊する、いや、崩壊するのも時間の問題だろう。でも我が家はすでに崩壊している。

そしてわたしと悠くんはいま、『虹の彼方に』やってきた。乗ってきたのは最終バス。五分後に折り返して今日のバスはおしまい。帰るのはなかなか困難かもしれない。

「どうしてここが『虹の彼方に』なんですか？」

「たぶん、あの女がわたしに『虹の彼方に』を歌って聞かせた場所だからだと思う」

「ここにいないっていうことはないでしょうか」

「ここにいなかったら、もうどこも探しようがないよ。そのときは手遅れかもしれないけど警察に捜索願いでも出すしかないだろうね」

「いらっしゃるといいですね」

「悠くん的にはね。でもわたしはあの女にそんなに会いたいわけじゃない」

わたしたちは約十分の道のりを歩いて小さなゴーストタウンにたどり着いた。この前来たときは昼間だったから気付かなかったけど、ここには街灯さえないのだった。というか、街灯はあるのだけど、灯っていないのだった。満月に近い月が出ていたおかげで困ることはなかったが。

家の前に着くと、こないだとは様子が違っていた。門扉に絡まっていた蔓草がむしり取られ、扉が少し開いていた。

「悠くん、あの女は中にいるね。間違いない」

月明かりの中、わたしたちは門扉を押して中に入った。玄関の戸は、がたがたいいながらもどうにか開いた。

「お待ちかねみたいだね」

廊下の突き当たりに明かりが見えた。果たして部屋の中には母親がいた。懐中電灯を付けて、畳の上にあぐらをかいてワインの瓶を抱えていた。

「ああ舞ちゃん、来てくれたのね」

「人騒がせな人ですね、あなたも」

「それは事実だから否定しない。だってそういうことでもしないと、もう誰も私のことなんか構ってくれない」

母親は吐き捨てるようにそう言ってワインを飲んだ。

「最初から死ぬ気なんてなかったんでしょう？」

「そうでもないわよ。最初に死のうと思ったのはひと月ほど前。お風呂の中で手首に剃刀当てたんだけど、血管までは切れなかった。怖かったのかも」

「そんなの自殺未遂の未遂にすぎません」

「あらうまいこと言うわねえ。その次が先週の木曜日。電車に乗ろうとしていたとき、あの車輪とレールの間に挟まりたいって思って。あれは絶対にうまくいくはずだったんだけどね」

「でも結局何もしなかったんでしょう？」

「そうでもないわよ。確かに飛び込んだのだから。気が付いたら暗いところにいて、ああやっと死ねたのかなって思ったらレールとレールの間に落っこちて、私の上に電車が止まってるだけのことだった。そのあと助けられて担架で救急車に連れこまれる直前に走って逃げたの。だってかっこ悪いし、電車止めるとたくさんお金を請求されるっていうじゃない」

「・・・そのうち身元を割り出されて請求されるでしょうね」

「そのときはそのときのこと。それでまあ、二度あることは三度あるというか三度目の正直というか、とにかくもう一回やってみることにしたの。それでも死ねなかったらやめようかと思って」

「そこまでできるなら最初からしなけりゃよかったんです」

「あら、その子誰？すごくきれいな顔してる」

「わたしと、それからあなたの命の恩人です」

「どういうこと？」

「わたしがホームから転落しそうになったとき助けてくれたんです。それから、あなたに電話するように言ったのも、あなたの家に行こうって言ってくれたのも、この子──悠くんなんです」

「・・・舞ちゃんもホームから転落したの！？」

「落ちそうになっただけです。悠くんが助けてくれたんです」

「そうだったんだ・・・どうもありがとう。とりあえず今はこれしかいえないけど・・・。ところでそれはいつのこと？」

「あなたと同じ木曜日です」

「下手したら親子で同じ日に電車に轢かれておしまいだったのか・・・そんなことにならなくてよかった。にしてもなんという偶然」

母親はそう言うとまたワインを飲んだ。

「偶然じゃないかもしれませんね。今思ったんですが、時計はお母様のことを察知して舞さんになんとか知らせようとしたんじゃないかって。それにしてはずいぶんまずいやりかたですが」

悠くんはそうわたしに耳打ちした。わたしはポケットの中の時計を握りしめて「バカヤロ」と呟いた。時計が僅かに振動した。

「ところでどうして死のうなんて思ったんですか？わたしも悠くんも、それからあなたを駅で助けた人たちも、みんなずいぶん振りまわされたわけですから。それとも今までの話しは全部つくり話ですか？」

すると母親は懐中電灯でわたしのすぐ横を照らした。長押から下がったロープ。先が輪になってる。

「天井から吊るすのは構造上難しそうだったから。壁に穴を開けて長押にロープを掛けてみました。でもぶら下がるのには低すぎて。酒買ってきててよかった。泥酔してればきっとうまくいくだろうから」

「まだ死ぬ気があるんですか？」

「場合によってはね。ただ気がかりなのは、ためしにロープを引っ張ったら家がぎしぎし鳴るのよね。私くらいの体重を支えられないようじゃ建物として失格だと思うな」

「だいたい、どうして死にたいなんて思ったんですか？」

「んーとね、つまり生き続けるのがあんまり辛いなって。

最近、研究うまく行かなくて。クソみたいな論文しか書けなくて。ショックだったのは、私よりもだいぶ年下の某大学のアホな助教授がいるんだけど、そいつに論文の審査で落とされたこと。しかもそいつのコメントが、的を射てるんだよ。それで冗談じゃなくて死にたくなって。

でも気合で論文を書きなおしているとき、あいつ──知ってるよね？──と別れた。っていうか棄てられた。みっともねー。ほんとは誰にも言いたくなかったけど、なにしろおんなじ大学の中だから、噂はあっという間に広まっちゃってね。籍入ってたわけじゃないし同居してたわけでもないんだけど、夫婦みたいなものだったから。いや、そう思ってたのは私のほうだけかもしれないな。んでさ、あいつ、若い女作っちゃって。それが私の指導してた大学院生っていうんだから笑っちゃうよね。

恥をかくのは耐え難いことだったけど、それ以上に耐え難かったのは、ひとりぼっちになっちゃったってこと。信じられないかもしれないけど、友達っていないんだよ、ひとりも。そりゃ同僚と飲んだりはするけど、でもそれだけの関係。

それまではなにかやり切れなくなったときにはあいつに電話してた。あいつはいつでも優しかった。夜明けまで電話に付きあってくれたこともあった。

信じてくれないかもしれないけど、あいつとはキスして体を寄せ合うくらいのことしかしたことがないんだ。どんなに寂しいときでもあいつの体温を感じていれば、それだけで十分だった。でもあいつは違ったみたい。それだけじゃ満たされなかったのかもしれない。

それが原因で体調崩して少しの間医者にかかってたんだけど、その病院でガン検診をしてたんだ。これでガンにかかってたら笑うぜとか思って検診受けたらガンの疑いがあるって。数日入院して組織を摘出して調べたらやっぱりガンだって。がーん、って思ったぜ、正直。両親もガンで死んだし。医者に『がーん、ショックです』って言ったら信じられないヤツって目で見られたけど。

それで手首切りそこなって。でももう一度思い直して、一縷の望みを託してあなたに電話したらあなたにも振られちゃって。

それから電車に飛び込んだり。食べるのもめんどくさくて、酒飲んで空腹を満たしてるって感じ。で、昨日からは大学も無断欠勤。そんなことしたのははじめてだったから、ちょっとだけわくわくした。で、酔っ払ってるうちに思い付いたのがこの家で死ぬこと。

まあ、これらすべては私が家族を棄てた罰なのかなって。ところで孝信さんから離婚の原因聞いたことある？」

「いいえ」

「じゃあ話してあげる。私が死のうと死ぬまいと今が話どきだと思う、たぶん。

つまんないことなのよ。今考えると、どうしてあんなにつまんないことで家族を棄てちゃったのかなって。

あれは最後の結婚記念日のこと。それまでは毎年外で食事をすることにしていたのだけど、たまにはカジュアルな結婚記念日がいい、という私の提案で、家で祝うことにしたの。例年通りあなたを孝信さんの両親のところに預けて、私たちはふたりで料理やテーブルの準備をした。なんか新婚みたいでとても楽しかった。あなたに言うようなことじゃないけど。

午後七時には食べ切れないほどの料理と、それから毎年飲むことにしていたお気に入りの白ワイン──これね、今飲んでるやつ。それから新婚旅行で買ったペアのワイングラスがこの部屋のテーブルの上に並んだ。

孝信さんがワインを開けて、乾杯、とグラスを触れ合わせたとき電話のベルが鳴った。不吉、と私は思った。

電話は孝信さん宛で、孝信さんのクラスのある女の子が、何か問題を起こしたとかいうようなことだったと思う。具体的には知らないけど。問題といっても警察の厄介になるようなことじゃなくて、たまたま学校にいた副担任の先生でじゅうぶん対応できるようなことだったらしい。でも念のためお知らせしておきます、というのがその電話だった。

私がバカだったのは、心にも無いことを言ってしまったこと。学校行ってきたほうがいいんじゃないの？なんて、いかにも夫の仕事に理解ありますよーん、みたいなバカバカなことを孝信さんにすすめてしまったのだった。孝信さんは結婚記念日のほうが大事だ、と言ったのだけど、その子の顔を見て来たほうがいいんじゃないの？その方が安心できるでしょ？私は大丈夫。結婚記念日はまだ五時間もあるし、九時に戻ってきてくれればじゅうぶんお祝いできるじゃない？だいじょうぶ、私は待ってる。少し酔っ払ってるかもしれないけど、待ってる、なんてことを言ってしまったのだ。

というか、そこまで言っても孝信さんは出掛けていかないと思っていたんだと思う。でも孝信さんは真面目な人だし、それにその子が心配だったみたいで、必ず九時までに戻る、と言って出掛けてっちゃったの。

孝信さんが出掛けて行ったあとで、私はちょっと悲しい気持ちに浸りながらワインを飲み始めた。ポーズとして飲まなきゃやってらんないよ、って。一瞬あなたに電話しようかとも思ったけど、孝信さんの両親やあなたに結婚記念日の惨劇を悟られたくなかったから、やめた。

飲んでるうちに気持ちが晴れてくるかなって思ったんだけど、その日はなぜかそうならなくて、どうして私の両親は孝信さんの両親よりも早く死んじゃったの？とか、孝信のバカは私よりも何とか言う女の子──問題を起こした生徒ね──のほうが可愛いんだとか、舞ちゃんだって私よりも孝信さんの両親のほうが好きなんだとか、それから孝信さんの日頃の行いのひとつひとつを分析して、孝信さんは私のことをいちばんには考えてくれていない、ということを自分に言い聞かせようとしていた。

もちろんそういったことはどうしようもない、バカげた、根も葉もないことなんだけどね。

それで、とうとうワイン一本空けちゃってね。料理もだいぶ食べ散らかしちゃったし。めちゃくちゃ酔っ払ってたんだけど、いろいろ覚えてるってことは、頭のどこかは醒めてたのかもしれない。

孝信さんは約束通り九時には帰ってきた。でもそのときはそのことがすごく腹立たしくてね。それまでの妄想を全部ぶっつけちゃったんだよね。もう、罵倒しまくり。孝信さんが出掛ける前に自分が言ってたことと、ぜんぜん違っちゃってたの。孝信さんは約束守ってくれたのにね。ほんと、目茶苦茶なのは私のほうなんだけどね。

それで揚げ句の果てに、新婚旅行で買ってきたペアのワイングラスの、私の飲んでたほうのやつを壁に叩きつけて壊してしまった。

しまったって思った。

孝信さんは悲しそうな目で私を見つめた。それから黙ってワイングラスのかけらをひとつひとつ素手で拾い始めた。そのうち指を切ったのか、畳に血が垂れた。それでも孝信さんは拾うのをやめない。血の付いた人差し指をときどき舐めながら、ガラスの破片を拾い続けた。

私は何か罵声を浴びせて、つっかけを履いて外へ飛び出した。カジュアルな結婚記念日、ということだったので、ジーンズにＴシャツという格好だったんだけど、偶然ジーンズのポケットに百円玉が六枚入っていて。それで人生変わっちゃったっていえるかもしれない。二百円払ってバスに乗って、二百七十円──どうして二百七十円なのかはわからないけど、そういう切符を買ったことはよく覚えてる──の切符を買ってホームに立ったんだけど、行くあてなんてどこにもなかった。友達と言えるような人はひとりもいなかったし、両親はすでにいなかったし、付き合いのある親戚もなかった。そのとき思い浮かんだのは比較的仲良しの同僚──十歳年下の青年、つまりあいつなんだけど──のことだった。以前古い電子レンジを持って行ってあげたことがあって、アパートの場所は知っていた。その駅までは距離にして二百七十円分も離れてなかったけど、そんなことはもちろんどうでもよくて、駅を降りると電話も掛けずにアパートまで走っていって今晩泊めてお願いどこにも行くとこないのって頼んだ。

そのあと私はゲロ吐いて寝ちゃったんだけど、同僚は家に電話してくれたらしい。でもその同僚が男だったので、話は非常にややこしいことになっちゃったってわけ。つまり前々から何かあったのではないか、というような。孝信さんはそういうことは一切言わなかったけどね。でもなんだかそういうことになっちゃった。

で、結局こじれて別れちゃったってわけ。まあ、今話したことはそのきっかけに過ぎないんだけど」

その話を聞いて、わたしは母親をぶん殴ってやりたくなった。理由はともかく、ぶん殴って蹴飛ばして罵倒してやりたかった。それを思いとどまったのは悠くんがわたしの握り締めた拳を両手でそっと包んでくれたからだった。