わたしは父とふたりで暮らしている。父は地方公務員──高校の物理の教師をしている。母親はわたしが五歳のときに一度姿を消した。
そして六年前、母親は再び私の前に姿を現わした。四十代半ばには見えないくらい、若々しくて美しかった。父とは対照的。母親は自分より十何歳か若い恋人を連れていた。恋人だとは言わなかったが、わたしにはわかった。
そのときどんなことを話したのかはほとんど覚えていない。でもわたしのほうからはあまり話さなかったような気がする。「この人と話をしてはいけない」と思っていたような記憶もある。
でも、次のようなやり取りをしたことはよく覚えている。母親のその質問を予期して、答えをあらかじめ考えていたからかもしれない。
「ねえ舞ちゃん、お母さんと一緒に暮らさない？」
「嫌」
そして母親はひどく落胆した表情を見せた。
母親は大学で言語学というのを教えている。でもそれがどんなものであるのかわたしはよく知らない。
母親は美しくて頭が良い。若い頃は異性からとても人気があったという話だし、今でも人気があるらしい。そのうえ四十そこそこで国立大学の教授になってしまったりするくらいだから、世の中は不公平である。
母親に会ったことのある友人のひとりは、あんな人がおかあさんでうらやましい、と言った。でもその母親の娘であるわたしからすると、それはそんなによいものでもない。
それはわたしがそこそこの頭脳しか持っていなくて人並み以下の容姿しか持っていないということとも関係あるかもしれない。顔形は父親によく似ていると思うし、人からもよくそう言われる。
でも父親のことは大好きだ。
母親のことは好きだといえば嘘になるし、そうかといって嫌いだと言い切るのも難しい。
でも意地悪でない会話をするのはかなり難しい。
たとえば。
「あ、舞？」
「はい」
「元気にしてる？」
「ええまあ」
「最近すっかり秋めいてきたよね」
「そうかもしれませんね」
「ねえ今度一緒にお昼でも食べに行かない？」
「申し訳ありませんが、土日は予定が詰まっていますので。もちろん平日は学校があるので無理です」
「そう・・・残念ね。そうだ、秋物の服を買ってあげようか？学校の帰りにでもどこかで待ち合わせしない？」
「申し訳ありませんが、学校のある日はとても疲れていますし、それに夕食の準備をしなくてはなりませんし」
「・・・そう。それじゃまた電話するね」
こんな具合だ。わたしには、そういうやりとりが母親をとても傷つけることを知っている。なにしろ母親はわたしのことが好きで、一緒に暮らしたいと思っているほどだ。でもわたしはそんなのはごめんだ。母親と一緒に暮らすくらいなら死んだほうがましだと思わなくもないくらいだ。
かといって死ぬほど憎んでいるわけでもない。
ところで『虹の彼方に』という曲に歌詞があることを知ったのは小学校低学年のときのことだった。それが「オズの魔法使い」という映画の主題歌だということを知ったのは中学に入学した頃のことだった。
でも物心付く前からわたしはそのメロディを知っていて、何の曲であるかも知らずにハミングしていた。
先週母親から電話があった。お昼を食べようとも買い物に行こうとも言い出さなかった。そのかわりに電話の向こうで『虹の彼方に』を突然歌いだした。
歌い終わったところでわたしは聞いた。
「あなたもその歌が好きなんですか？」
「大好きよ。よく子守唄に歌ってあげたんだけど、憶えてないわよね・・・」
わたしにはその記憶がなかった。しかしそのためにこのメロディが死ぬほど好きである可能性はとても高かった。
わたしはなんともいえない腹立たしさを感じていた。母親のいちばん傷つきそうなことを言わなければならないと思った。
「わたしはあなたのことが大嫌いです。心から嫌いです。この世でいちばん嫌いです二度と電話を掛けて来ないでください早く死んでくださいさようなら」
言い終わるとすぐ、わたしは電話を切った。
その電話が掛かってきたとき、わたしは懐中時計を磨いていた。歯磨き粉を柔らかい布に付けて磨くと傷が付かなくてよい、というのをたまたまテレビで見て実践しているところだった。
だからその場には時計もいた。
そのとき以来『虹の彼方に』を聞くと腹立たしいような気持ちになる。
だからといって『虹の彼方に』が嫌いになったわけではない。
悠くんは辛そうな顔をしてわたしの話を聞いていた。誰だってこんな話は聞きたくないだろう。
わたしは悠くんの家族のことを聞いてみようかと思ったけど、やめた。話してくれないような気がしたし、聞いてはいけないような気もした。
「時計はわたしと無理心中でもしようとしたんじゃないのかな。もとの持ち主のあの女のことを傷つけるようなことを言ったから」
悠くんには言う気になれなかったけど、わたしが母親のことを「あの女」というたびに時計はわずかに震えていた。
悠くんはデイパックからさっきのヘッドホンステレオみたいな機械を出すと、「時計を貸してください」と言ってその中に入れた。
「あなたは舞さんと無理心中を図ろうとしたんですか？
──『ＮＯ』
違うようですね」
そのとき時計は再び『虹の彼方に』を奏で始めた。
「ねえ舞さん、これは何かのメッセージではないでしょうか？『虹の彼方に』は舞さんにとっても舞さんのお母さんにとってもかけがえのない何かなのだと思うのですが──反論は少し待ってください──時計はさっきから尋問に対して不可解な答えをばかりしているし、そのあとでこのメロディを奏でています。推測ですが、時計はこちらの質問に業を煮やして、自らメッセージを発しているのではないのでしょうか？
──『ＹＥＳ』
おや、ボタンをリリースしてませんでした。でも推測は当たっていたようですね」
悠くんは少し考えて、それから言った。
「舞さんのお母さんに連絡を取ってみるのはどうでしょうか。そうすればあるいは時計の譲渡に関連して何かわかるかもしれません」
「あの女にこっちから電話掛けるなんてヤだ」
「でも、時計の発しているメッセージを知るにはそれがいちばんいい方法だと思うのです」
──『ＹＥＳ』
「それでもヤだって言ったら？」
「僕が掛けます」
「・・・わかった、電話してみるよ」
緊張の中で呼び出し音が鳴る。そして五回目のコールで留守電につながった。母親の声じゃなくて、最初から電話機に登録されている声。
念のためにメッセージを入れておく。
「いないみたいだね。こんな時間だから、まだ帰ってないんじゃないの？」
「携帯電話は？」
「持ってるかもしれないけど番号知らない」
「勤め先の電話はわかりますか？」
「たぶん・・・ああ、あった。わかったよ、掛けてみるよ」
すると、意外な答えが返ってきた。母親は昨日から連絡がとれず、研究室でも心配しているのだという。携帯に掛けても出ないのだそうだ。逆に何かわかったら知らせて欲しいと言われる始末だった。そのかわり携帯電話の番号を教えてもらって電話してみる。留守電サービスに繋がるばかり。圏外にいるか、電源を切っているか。
「あの女の両親は結婚する以前に亡くなってるし、きょうだいもいないはずだし、あと連絡するとしたら恋人だけなんだけど、連絡先なんて知らないし」
「お母さんの家に行ってみましょう」
「いいけど・・・それよりも悠くん、顔色悪いよ、あとはわたしがやるから、もう帰りなよ」
「まだ時計に刑の執行をしてませんから」
「そんなのいつでもいいじゃない。時計が逃げ出せるわけじゃないし。それにどうやらわたしを殺そうとしているわけじゃなさそうだし」
「だとしたら時計を『憑依消去』しなければなりません。今のところ時計は協力者だけど、いつどうなるかわかりませんし。それに時計とコミュニケートするには僕がいなくちゃだめじゃないですか。この機械が必要ですから」
悠くんはどうあっても帰ろうとはしなかった。仕方なくわたしのほうが折れた。
「わかった。じゃあ一緒に行こう」
駅前に着く頃にはすっかり暗くなっていて、お腹も空いてきていた。お腹が空いたまま行動してもろくな結果にはならない、というのは父の口癖だ。
というわけで悠くんを誘ってファーストフードに入る。店内は混み合っていて、フロアの真中にある丸いテーブルにどうにかふたり分の座席が空いているだけだった。悠くんに座席を確保しておいてもらって、わたしはチーズバーガーと照り焼チキンバーガー、フライドポテトとコーラをそれぞれふたり分注文した。
「わたしが悠くんにできるお礼はこのくらい。わたしの命とはくらべものにならないけど」
「どうもありがとう。うまく言えないけど、すごく嬉しいです」
わたしはそれらをあっという間に食べ終えてしまった。でも悠くんは食欲がないみたいで、チーズバーガーをどうにかコーラで流し込むという感じだった。
「残しちゃってごめんなさい」
「気にしなくていいよ。持ってけばいいんだし」
自分でも信じられないほどのずうずうしさで、悠くんが食べられなかった分を店員に紙袋に入れてもらう。となりに並んでいた女の子が私のことを軽蔑したような目で見た。
笑いたければ笑え。軽蔑したければ軽蔑せよ。わたしはそんなことぜんぜん気にしない。
でもそれは普段のわたしのノリとはえらい違いなのだ。
乗り換えの都合からひとまず都心に出て、それから別の私鉄に乗り換えた。母親のマンションはそこから電車で十分、駅から徒歩５分のところにある。
母親のマンションは２ＬＤＫの間取りで、わたしの知る限りではモデルルームみたいにきれいだった。というか、生活感があまりなかった。
二部屋のうちひと部屋は書斎として、もうひと部屋は寝室として使われていた。
家中の至るところに書架があり、どの書架にも本が頻繁に出し入れされた形跡があった。たとえば本の上に本が横積みされていたり、おそらくは目印のために横に差してあったり、全集のうち何巻かが抜けていたりした。
実際にその部屋を訪れたのは二回だけで、最後の訪問は二年前のことだった。二年ぶりにドアの前に立つ気分は状況が状況だけに奇妙なものだった。
震える指先でチャイムを鳴らしたが、インターホンは何も答えなかった。何度鳴らしても同じことだった。しかし何気なくノブを回すと、あっけなくドアが開いた。チェーンキーも二重ロックも掛かっていなかった。中は電気が灯っていた。わたしはわざと床を踏み鳴らしながらＬＤＫに入って行ったが、誰もいなかった。
ＬＤＫは二年前とはまるで違っていた。床には新聞が積み上げられ崩れ散乱し、応接セットのテーブルの上には学会誌とノートパソコンとウイスキーの瓶と封を切っていないタバコがいくつか、印刷しかけた紙と丸めたティッシュペーパーなどが載っていた。
ソファには所々染みがあり、床はなんだかざらざらしていた。ソファの上の新聞や雑誌を降ろし、悠くんをそこに座らせて浴室、トイレ、書斎、寝室、クローゼットを探したが、もちろん母親はどこにもいなかったし、どの場所も惨澹たるありさまだった。
きっと家の中の様子が母親の精神状態そのままなんだろう。そんな気がする。わかりやすい女。
「どこにもいない」
悠くんの隣に身を投げ出して座ると、悠くんがわたしに凭れかかってきた。
「どうしたの？」
悠くんははっとして身を起こした。
「ごめんなさい・・・ちょっと眠ってたみたいです」
悠くんの顔はさっきまでと違い、妙に赤みが差していた。額に手をやると、熱っぽかった。
「悠くん、送ってくから帰りなさい。あの女は必ず見つける。約束するから」
「だめです、帰るわけにはいきません。仕事ですから」
「だめだよ。熱があるんだから」
「慣れてるから大丈夫です」
「・・・そういうことに慣れちゃだめだよ」
「でも慣れてるんです。それに、このくらいならまだ動き回っても大丈夫だってこともわかるんです」
「なんてやつだ」
わたしは風邪薬を探し出してきて悠くんに飲ませた。ほかにちょうどよさそうな薬がなかったのだ。
「少し眠りなよ。寝室のベッドで眠るといい」
「絶対に、黙って行ったりしないでくださいね。ここに取り残されても困りますから」
「わかったよ。だからちょっと眠りなよ」
悠くんを寝かせてから、わたしはさてどうしたものかと悠くんの食べ残した照り焼チキンバーガーとフライドポテトを食べながら考えた。食べたばかりだというのにまたお腹が空いていたのだ。やれやれ。
わたしには危機的状況に追い込まれた母親を想像することができなかった。妙に几帳面な割に楽天的で自己中心的な女。そんな女が追い込まれる危機的状況とは？はっきりいって見当も付かなかった。だいたい電気を付けたまま鍵も掛けずにどこへ行ったというのだろう？普通に考えたら近所のコンビニまで、というところだろうが、だとしたらもうずっと前に帰ってきていなければならなかった。コンビニはマンションのすじ向かいにあるのだから。
食べ終えてから家に電話をした。「所用で外出します」というメモは置いてきたが、それだけでは心配だろうと思ったのだ。
しかし電話に出たのは父でなく、「ただいま留守にしています。ピーという発信音の後にメッセージをお願いします」というおぞましいわたしの声だった。「いま母の家にいます。またあとで電話します」というわたしの声のメッセージを入れ電話を切ったその瞬間、そうだ、留守電だ、と思った。ついさっきメッセージを入れたばかりだというのにすっかり忘れていた。
最初のメッセージは研究室からのもの。次も同じ。その次も同じ。その次はわたしから。それで終りかと思ったら、もうひとつメッセージが入っていた。
「舞ちゃん、電話ありがとう。すごく嬉しかった。実は部屋にいたの。でも電話に出るのが怖くて。拒絶されるのが怖いの。覚悟はできてるんだけど。
最後の賭けです。私がまだこの世にいるうちにあなたはこのメッセージを聞くでしょうか？もしそんな奇跡みたいなことがあったら、もうひとつだけ奇跡を下さい。
私は今『虹の彼方に』います。下手な謎掛けだけど。たぶん十二時までに」
そこでメッセージは切れていた。留守電の容量がいっぱいになってしまったようだった。
わたしは自分でも恐ろしいほどクールだった。事実はともかくそう感じられた。『虹の彼方に』とは母親のいう通り、ずいぶんヘタクソな謎掛けだった。
しかしそれ以上にこういうメッセージを残して死んだら娘がどんな気持ちになるかまるで考えてねーじゃねーか的自己中全開だったのですげームカついたのも確かだった。母親はそういう女なんだ、やっぱり。
悠くんのことは置いていこうとも思ったが、約束は約束だし、それにここまで来れたのも悠くんのおかげなのだ。悠くんがいなければ、わたしは急行電車の下敷きになって生を終えていたか、母親に呪いのメッセージを残して死なれるか、いずれにしても歓迎すべきではない事態を迎えていたのは確かだった。
負ぶってでも悠くんを連れていって、あの女から感謝の言葉と金一封でももぎ取ってやらねばならないのだ。
ぐちゃぐちゃで空気のこもった寝室で、悠くんは苦しそうな顔で眠っていた。でも「おはよう」と声を掛けるとすぐに目を覚ました。おでこに触ると熱はなんとか下がっていた。薬がうまく効いてくれたのかもしれない。でも顔色が悪いのは相変わらずだった。
「『虹の彼方に』行くよ」
「はあ？」
「昔わたしたちが住んでた家。家族が三人で住んでた家」
「場所はわかるんですか？」
「大丈夫、今年の夏休みに行ったばかりだから」
そして私たちは『虹の彼方に』向けて出発した。