（６）

わたしがシャワーを浴びて浴室から出て来ると、母親は悠くんに凭れかかってソファーで寝息を立てていた。風邪を引くよ、といっても起きる気配はなかった。わたしは悠くんとふたりで母親をどうにか寝室まで引きずっていき、ベッドの上に引きずりあげ、寝かせた。

それからわたしは悠くんを送りに外へ出た。少し肌寒い。

「今日はほんとうにありがとう」

「仕事ですから」

悠くんは笑った。プロフェッショナルとしての自覚なんだろうか？

「ところで時計の刑の執行はどうするの？」

「それはすでに結論が出ているんじゃないでしょうか？」

「え？」

「僕や舞さんに、時計から『つくもがみ』を追い出すことができますか？」

「・・・できない、絶対に」

「それでいいんじゃないでしょうか」

わたしはポケットの中の時計にそっと触れた。でも時計は眠ってでもいるかのように何の反応も示さなかった。

ちょっと寂しかった。気持ちを紛らわすためにぜんぜん関係ないことを悠くんに聞いてみる。

「ところで悠くんの家は、結局どこなの？」

「・・・電車の中での話、聞いてなかったんですよね？」

「ごめん」

「『世界』は無限にあるんです」

「はあ？」

「たとえば、さっき僕たちが家の中から脱出できなかった世界もあるんです」

悠くんはちょっと意地悪そうに言った。

「つまり、可能性のあるすべての、『世界』があるんです」

「はあ」

「そうであることは論理的に証明されています。ただし、僕の所属する『世界』においてですが」

「はあ」

「いまのところ、僕の所属する『世界』──ＳＳ−０というのですが──からアクセスできる『世界』が二十七見つかっています。舞さんの所属するのがその二十七番目の世界──ＳＳ−２７──です。ＳＳ−０とＳＳ−２７との類似性は驚くべきもので、その発見は奇跡のようなものだと言われています」

「はあ」

「僕の両親は、僕が六歳のとき──六年前ですね──死にました。二人で車に乗っていて、事故に巻き込まれたのです。

ところで僕の母親はその頃大学教授でした。父親は高校の物理の教師でした。そして僕は母親と同じ大学に通っていました。知能の発達が良すぎて、なにか先天的な異常があるのではないかと思われていたのです。つまり研究材料というわけです。そして僕に見いだされたのは、知能の異常と、それから『世界』の境界を越える能力でした。

さっき物体は時空──『世界』の境界だっていう話はしましたね？『世界』の境界を越える能力というのは、つまりその性質をコントロールできるということなんです。

そういう人間はすでに何人か存在していました。しかしその能力が子供の頃から正常な形で発現するのは稀なことでした。というよりも僕以前にはひとりもいませんでした。というのは、子供でその能力が発現した場合、コントロールが難しくて、結果として消滅してしまったり、死んでしまったりしていたのです。つまり僕は知能の異常があったから救われたんです。

それから、さっきは機械を使って『つくもがみ』を探す、というようなことを言いましたが、実は機械なんていらないんです。『つくもがみ』も突き詰めれば『世界』の境界の異常という現象であり、僕の体というか存在そのものがそれに敏感に反応するんです。

機械を使うのは客観的なデータを収集するためなんです。

でも、存在はわかっても、何を言いたいかということになるとわからない。それはきっと『ことば』というものと関ってくるからかもしれませんし、彼らの考え方というものが僕たちから見ると奇妙であるからかもしれません。だから、時計を尋問したような機械は僕にとっても必要なんです。

『つくもがみ』を消去するのも確かに僕の仕事の一環なんですが、それはサブの仕事で、メインは『つくもがみ』についての研究です。時計の裁判のときにお話ししたようなことは、僕と、僕と同じような能力を持つ研究者との共同研究の成果なんです。

それから、家が倒壊しそうになったとき、あながち無関係ではないって言いましたよね？

もしかしたらもうお気付きかもしれませんが、僕の両親と舞さんの両親は二つの『世界』においてちょうど対応しています。いえ、同じ人間である、といったほうが正確でしょう。実は先週の木曜日舞さんにお会いしたのは偶然ではないんです。双方の世界における差異、それが僕と舞さんの存在の仕方なんです。同じ両親から生まれて、それぞれ片方の世界にしか存在しない。中絶や流産という事実は少なくとも僕の世界にはなくて、たぶん舞さんの世界にもないでしょう。つまり舞さんは僕にとって最初から存在しないきょうだいなんです。実はこのような差異はとても珍しいのです。ほとんどない、といったほうがいいかもしれません。性別も年齢も異なるきょうだいが別々に存在する、というのはきわめて稀なケースなんです。

つまり僕はあの日舞さんにこっそり会いに来たんです。でも『つくもがみ』に遭遇したのは偶然です。でももしかしたら、『つくもがみ』に僕が呼び寄せられたのかもしれませんね。

それから、『虹の彼方に』は僕にも思い出の曲なんです。死んだ母親が歌ってくれた、思い出の曲なんです。そして、さっき家が倒壊してしまったあとで甘い匂いがしましたよね？あれは桑の実のジャムを作る匂いなんです。きっと舞さんもご存じでしょうが・・・」

悠くんのほとんど泣きそうな笑顔を見て、わたしは我慢できずに抱きしめる。

「ねえ、約束して。またわたしに会いに来て。今度はお父さんにも会って欲しい」

「でも──」

「でも、じゃない！」

よくわからないけど、理解できないけど、悠くんはわたしのきょうだいなのかもしれないけど。

でも、ほんとうにきょうだいかどうか、ということなんてどうでもいい。

「約束して。また、必ず会いに来るって。約束しなきゃ離さない。絶対に離さない」

「・・・約束します。必ず会いに来るって」

月を見上げるとぼやけて見えた。不覚。悠くんはわたしの腕の中で震えている。また熱が上がってきたのか、それとも──。