風呂に入ろうとしていた木村悦子さん（３０歳）は、全裸で胸から血を流してよろよろ階段を降りてきた吉村いずみさん（２５歳）と廊下で鉢合わせした。
「あらたいへん」と木村悦子さん（３０歳）はいかにも現状を把握しているかのように言ったがいかにも他人事っぽかったので、吉村いずみさん（２５歳）は一瞬激痛を忘れるくらいむっとした。そして「救急車を呼んでちょうだい」と言った。
「でも」
木村悦子さん（３０歳）は小首を傾げて言った。「服を着てからのほうがいいんじゃないの？」
それから木村悦子さん（３０歳）は吉村いずみさん（２５歳）に尋ねた。
「さっきの男にヤられたんでしょ？」
「嬉しかったのよ」
吉村いずみさん（２５歳）はそう答えた。
「私のことを食べてしまいたかったって。そして、一部分だけど、食べてくれたの。でも、痛くて我慢できない」
木村悦子さん（３０歳）は吉村いずみさん（２５歳）を救急車に乗せて送り出してしまうと当初の予定通り風呂に入った。ゆったりと湯船に浸かりながら昼間の中村哲郎くん（１２歳）のペニスの味を反芻した。まあまあかな。それから、いつも男の子のペニスを食べた後でそうするように、十八年前のことを反芻するのだった。
「わたしをレイプしたのはパパじゃない。ヤツラだ。どうしようもなく馬鹿で無神経で鈍感なあいつらは、パパとママの死体と、パパの心臓とペニスを料理して食べていた血まみれの十二歳の少女を同時に発見して、馬鹿で無神経で鈍感なヤツラにふさわしい作り話をでっち上げたんだ。つまり、十二歳の少女が父親にレイプされて、それに傷ついた少女が父親を殺して、止めに入った母親も一緒に殺してしまったって。それから頭がおかしくなって猟奇的な行動を起こしたんだって。
わたしは警察官にも精神科医にも、それから心理学者とか新聞や雑誌の記者に何度も繰り返して言った。『わたしはパパとセックスしたかったの』って。でも馬鹿で無神経で鈍感なヤツラにはそれがわからないんだ。
パパとセックスしたのはあの日が最初で最後だった。でも、セックスをしたのは初めてじゃなかった。最初の相手は担任の先生。ちょっと誘ってみたらすぐに応じてくれた。お金を貰ったりはしなかった。売春って言葉は知らなかったけど、そういうのはヤだっていうか、違うって思ってたから。でも、お金くれようとしたんだよね、あいつ。だから殺した。それから同級生の男の子と。あの子とは結構ヤッたなあ。楽しかったなあ。でも、なんか違うって。だから殺した。わたしがセックスしたかったのは、パパだったんだ。それで週末パパとここで過ごすことにして、パパに『わたしを抱いて』って言ったら、パパは最初驚いたような顔をしたけどすぐにいつもの優しい表情になって、お風呂に入ってきなさいって言った。シャワーを浴びてバスタオルを体に巻きつけてベッドの上でパパを待った。少ししてからパパがやってきて、わたしのことを優しく優しく優しく優しく抱いてくれた。それからパパはわたしを優しく抱きしめながら小さかったときのことなんかを話してくれたり。
そこへ突然現れたのがママ。わたしたちは二人とも裸でベッドの上に横たわっていて、なにが行われていたかは一目瞭然だったはず。でもママは顔をこわばらせて『そんな格好でいると風邪を引くわよ』なんて。でも次の瞬間わたしの足首を掴んでベッドから引きずり降ろすとハイヒールでわたしのことをさんざん蹴飛ばした。そのくらいのことをされても仕方ないって思ってたから、わたしは丸まって痛みに堪えていた。まもなくママのヒステリーはとりあえずおさまったけど、わたしは痛みでしばらく声をあげることもできなかった。
ママは今度はパパのことをなじり始めた。聞いてらんなかった。自分の娘とこんなことするなんてケダモノだ、いえ、ケダモノ以下よ、みたいなことを言ってた。なんかその声はどこか別な場所から響いてくるみたいな感じで、でも、すごくこころに突き刺さった。パパを見ると、ベッドの上に裸で正座して、すごく情けなかった。でもそうさせたこの女──ママなんだけど──が、何もかも悪いのだという気になって、わたしはそっと部屋から出て行き、キッチンへ肉切り包丁を取りに行った。やっぱり人の肉を切るんだから、菜切じゃないよねとか思いながら。
戻ってくると部屋は歪んでいてオレンジ色だった。パパがパパだったけどその女がだれだかぜんぜんわからなかった。確かにどこかで会ったことがある、いや、よく知っている女だってことはわかるんだけど。女はゴムがほどけるみたいに動いていた。動いてるけど生きてないって感じ。ただ、ゴムがほどける力で動いているだけ。そしてやたらにうるさい。その女を黙らせないといけないって思ったら、その女はこっちを向いた。わたしが声をかけたりしたのかもしれないけど、よくわからない。女の顔は見たこともないような奇妙な感じ。でもとてもきれいで、それが許せなかった。切り付けると女は包丁をかわした。でもよろめいて仰向けに倒れた。わたしは馬乗りになって何度も何度も刺した。
真っ赤なスーツに真っ赤な血が吹き出して、エクスタシーに達したのかわたしの下で痙攣していた。
わたしはパパにだいじょうぶ？って聞いた。パパのことはわたしが守ってあげるって。でもパパはすごく恐がってた。わたしのことを恐がってた。ベッドの上で腰を抜かしてた。ペニスもしぼんで。わたしのパパ、大好きなパパ、わたしのことを恐がらないで。そう言ったつもりだったけど、うまく言葉にならなかったかもしれない。いずれにしても、パパがついさっきしてくれたみたいにわたしのことを優しく抱いてくれることは二度とないってことははっきりし過ぎるくらいはっきりとわかった。わたしは絶望した。絶望したのはあれ以前にもあれ以後にもなくて、わたしの人生におけるただ一度の絶望。
気がついたらパパは死んでた。ペニスはふにゃふにゃで、でもわたしのヴァギナはぐちょぐちょに濡れてた。パパのペニスを両手で撫でたり口に含んでみたりしたけど、ふにゃふにゃのままだった。わたしはまだ暖かい血まみれのパパのからだにぴったりと身を寄せてオナニーした。パパとの最後のセックスのつもりで。
それからパパのペニスと心臓の一部──ほんとに心臓だったのかな？──を持って台所に行って、その日の夕食のポトフの残りに入れて煮た。そしてそれを食べているときに誰かが玄関のチャイムを鳴らしたんだ。警官だった。でもわたしを見るなりその場に固まってしまった。あとで気づいたのだけど、そのときわたしは素っ裸で、全身血まみれだった。
わたしは一部始終を警察の人や医者に何度も何度も何度も何度も何度もくり返して話した。でも、誰もわたしの言うことをそのまま信じてはくれなかった。
ヤツラはわたしが愚にもつかない作り話をしているのだと考えていた。そうしてわたしは精神病院に入れられ、自分の記憶を書き換えることを強制された。
つまり、そうやってレイプされた。警察官や精神科医やそれから心理学者とかジャーナリストとかいうヤツラに──」
木村悦子さん（３０歳）はそこまで思いを巡らせたところでほとんど無意識のうちにバスタブから出て、濡れた体も拭かないまま、タオルさえ身に纏わずに浴室を出て行った。
中村弘志さん（３９歳）が家に帰ったのは十二時前だった。中村陽子さん（４０歳）はいつになく不機嫌な顔をして出迎えた。
「二人とも、もう寝ちゃったわよ」
中村陽子さん（４０歳）はちょっと不満そうにそう言った。ずいぶん早く寝ちゃったんだな、と中村弘志さん（３９歳）は思った。きっと、誕生日のパーティーも湿ったものになってしまったのだろうな。
中村弘志さん（３９歳）は服を脱いでシャワーを浴びた。シャワーを浴びながら、声を出さずに泣いた。それから、吉村いずみさん（２５歳）の乳首の歯ごたえと味を思い出して、「これでよかったんだ」と呟いた。
浴室から出て髪を乾かし、パジャマを着てキッチンに来てみると、食卓の上に一切れのケーキと紅茶一式が載っていた。
「何かあったの？だって、お酒飲んできたわけじゃないみたいだし、ずぶ濡れだったし。駅前のコンビニで傘を買ってもよかったのに」
中村陽子さん（４０歳）の問いかけに、中村弘志さん（３９歳）は「だって、もったいないじゃないか」としか答えなかった。そしてケーキを自分のほうに引き寄せて、食べた。
「ねえ、何があったの？」
中村陽子さん（４０歳）はもう一度たずねた。
「いや、何も。どうしても抜けられない仕事が突然入っちゃっただけさ。電話も掛けないでごめん」
中村弘志さん（３９歳）は今度はそう答えた。中村陽子さん（４０歳）の作ったケーキを食べながら、「ぼくは中村陽子さん（４０歳）の作ったケーキを食べるのは好きだけど、中村陽子さん（４０歳）のことを食べるのは、どうも気が進まないな。それじゃあ、ぼくは中村陽子さん（４０歳）とセックスしたいんだろうか？そういえばずいぶんしてないような気がする。それに、中村陽子さん（４０歳）とセックスする、ということを考えても、ちっとも勃起してこない。ケーキを食べているせいだろうか？」などと考えていた。寝室へ行ってから、もう一度そのことについて考えてみたのだが、とうとう中村弘志さん（３９歳）のペニスは勃起しなかった。それに、中村陽子さん（４０歳）も、少なくともその晩はセックスをしたいようにはみえなかったし、実際中村陽子さん（４０歳）は少しもそんなことを考えてはいなかった。ただ、せっかく作った料理を中村弘志さん（３９歳）に食べてもらえなかったのがとても、というほどでないにしても、多少は悲しかった。