（２）

次に、向かいに座っていた人が話し始めました。

その晩、私は酔っぱらっていました。浪費される夜には酔っぱらっているものなのでしょうか、あなたや私の場合のように、あるいは今晩のように。

あるオフ会に参加していて、今夜のように終電を逃してしまい、タクシーで帰ることになったのです。

そう、ちょうど今夜と同じように、確信犯的に終電を逃したのです。楽しくて、途中で帰るなんてできなかったのです。

外に出ると、来る頃に降り始めていた雪がまだ降っていて、というよりもますます強くなっていて、あたり一面銀世界でした。きれいだと思いましたが、こんな雪では帰れないんじゃないかと思いました。でもまあそのときはそのときで、翌日の朝までやっているはずの、そんなに離れていないところにあるファミリーレストランにでも行けばいいやくらいにしか思っていなかったので、ほんとうに困ったりはしませんでした。翌日が休みなら、そんなものでしょう？

雪は、雪合戦ができるほど、あるいは雪だるまを作れるほど、積もっていました。それを試すみたいに、店を出た私たちは少しの間雪合戦をしました。適当に酔っぱらっていたけど、でも寒いし、夜中だし、子供ではなかったので、二、三発雪の玉をぶつけ合う程度でしたけど。

雪に足を取られながら大通りに出ると、意外にも車はチェーンの音をさせてはいましたが普通に走っていました。道路の大部分は雪解けの水で黒く光っていて、車線と車線の間に辛うじて雪が積もっている、という程度でした。

少し拍子抜けしましたが、タクシーを拾うのに苦労することもなく、その場で解散、ということになりました。

私は同じ方面の人と相乗りしてタクシーに乗り込みました。

タクシーが走り出すと、その晩のことがもうずっと前のことのように感じられました。それから気持ちが緩やかに沈んでいきました。とても楽しいオフ会だったのに。初めてオフ会に参加した頃にはそういうことがよくありました。楽しすぎて、そのあとリバウンドが来るのです。ひどく気持ちが沈んだり、オンラインで攻撃的になったり。

しばらくそういうことはなかったので、妙な気持ちがしました。でもその晩気持ちが沈んでいった原因の多くはリバウンドよりも失恋にありました、おそらく。

みんなそうなのだろうと思いますけど、失恋は何度経験しても慣れることがありません。何度経験しても辛いし、悲しいし、自分が嫌になるし、落ち込むのです。

その晩の失恋は、とても儚いものでした。東京に降る粉雪みたいなものです。人に言えば笑われるような恋です。ずいぶん長い間親しくしていた友人に恋人と呼べる人が現われて、その瞬間に芽生えると同時に死を宣告された恋なんです……そして、私にはそういう恋を殺さずに育てることができないんです、どうしても。

やっぱり笑われてしまいましたね。ああ、わかっています、少しも怒ってなんていません。それに、あなたがどんな気持ちで笑ったかもわかっている積もりです。優しい人ですね、あなたは……どうもありがとう。

ここ、笑うとこなんです、って自分から言えるようになりたいですね、とても。

で、タクシーに乗り込んだら気持ちが沈んで、でも同時にとても感傷的な気分になって、窓から見る景色が恐ろしいほどきれいに見えて。

そういうこの世で見られるいちばん美しい景色の中で、人々は奇妙な行為に熱中しているように見えました。雪の降る深夜、必要もないのにどうして外に出たいなんて思うんでしょう。私のように失恋でもした人たちなんでしょうか、それとも、雪に何かを狂わされた人たちなんでしょうか。

歩道のオレンジ色の明かりに照らされて、一人で大きな雪玉をこしらえている人。雪玉の直径は、一メートルくらいあったでしょうか。それを、両手に長靴を履いて、逆立ちするみたいに両脚で押して転がしているのです。フンコロガシそっくりでした。近くには、それよりももう少し大きな雪の玉がありました。雪だるまを作ろうとしているんだ、と思いましたが確かなところはわかりません。もしそうだとしたら、あんなに大きな頭をあの胴体の上にどうやって載せるのだろうと思いましたが、信号が青になったのでその後のことはわからずじまいです。

同じようにオレンジ色の明かりに照らし出されて、一人雪合戦をしていた人。空中高く雪玉を放り上げ、それを顔面で受けるのです。ちょうど道路が少し混んでいたので、それを三回くらい見ることができました。

そういう人たちは私を感傷から引きずり出しました。そういう唖然とするような光景を目の当たりにすれば、感傷だって醒めてしまうというものです。同時に、失恋ということが何かわけのわからない見たことも聞いたこともない観念のような気がして、ばかばかしいとさえ思えなくなるのです。

タクシーの同乗者は騒いだ後の倦怠感のせいか、あるいは眠かったせいか、必要以上にしゃべろうとはしませんでした。運転手さんもそうでした。

その人が車を降りてしまうと、車内はほんとうにしんとしてしまいました。気温まで下がったように思えましたが、人が一人いなくなれば、そういうことはあるかもしれません。

だからといって気持ちまで冷え冷えとするということもなく、それまでと同じように感傷に浸り、ときどき窓の外で起きている人々の不思議な行動にそれを醒まされ、ということを繰り返していました。

でも突然、運転手さんが話し掛けてきたのです。

新年会ですか？新年会にしてはちょっと時期はずれですね。会社のお友達ですか？それとも会社の同僚ですか？いえね、お友達にしてはちょっと会話が少ない気がしましてね。それとも上司と部下？恋人？不倫？あ、冗談ですってば。

私が何も言わないうちからこれだけのことを言われて、返す言葉がすぐに見つかりませんでした。

それを考えるのに少し時間が必要でした。そういうときの沈黙は気まずくないんです、私の場合。運転手さんがどう感じるのかはわかりませんけど。もしかしたら一分くらい黙っていたかもしれません。

どんな関係に見えますか？と私は答えました。知り合って日の浅い友達、という答えが正解ですが、そもそもオフ会なんて呪われた言葉を答えることにはかなり抵抗があったのです。

オンラインの付き合をしたことがない人にオフラインの付き合いを説明するのはめんどくさいというよりも気恥ずかしいとは思いませんか？私にはそれができません。それに、どうして見ず知らずの人にそんなことまで説明しなくてはならないのでしょうか。

それ以前に、どうして見ず知らずの運転手さんに、おそらくは冗談交じりに私と先ほどまでの同乗者との関係を詮索されなくてはならないのでしょうか。

でも、それに対する、どんな関係に見えますか？という答えは、必ずしもそういう気持ちに沿ったものではなかったように思います。なんていうのは今思うことで、そのときはただ気の利いた言葉を一生懸命探していたのです。結果的には気が利いていたとは言えないにしても。そのあと、こんなやり取りが続きました。

飲んでいるうちに知り合った人。

いいえ。

タクシーを探しているうちに同じ方面に帰ることがわかった人。

いいえ。

習い事か何かの知り合い。

いいえ。

習い事の発表会の打ち上げとかじゃないんですか？昨日そういうお客さんを乗せたんですが。

いいえ、違います。

取引先の方。

違います。

どんなお仕事されてるんですか？

内緒です。

会社勤めですか？

そんなふうに見えますか？

見えませんね。

きっとそれは当たっています。

会社じゃないけど同じ職場の同僚ってことですか？

いいえ。

よくわかんないけど仕事の関わりで知り合った人。

いいえ。

お友達は多い方ですか？

いいえ。

あの方はお友達ですか？

そうだと答えてもそうでないと答えても違うような気がします。友達、の定義によりますね。

その人と二人だけでも気まずくなければ友達、というのはどうでしょう？

だとすればあの人は友達ではないことになりますが、それを聞いたらきっと嫌な顔をするでしょう。

なんだかよくわかりませんね……

私にもよくわかりません……

そんな会話をしているうちに車は私の家に少しずつ近付きつつあったのですが、だんだん進み方が遅くなりつつもあったのです。なぜだか道路が渋滞しつつありました。路面もいつの間にか黒から白に変わっていました。都心から離れるにしたがって気温が下がり、ある程度頻繁に車が通る道路でも雪が積もりつつあったのかもしれません。それとも、雪がどんどん強くなってきていたのかもしれません。

程なく車はほとんど動かなくなってしまいました。きっとこの先の信号が原因で車が進まなくなっているのだというようなことを運転手さんは言いました。私は車を運転しないというか免許を持っていなくて運転できないので交差点を左折するとか右折するとかでどういうことが起きるのかよくわからないのですが、そういうことが原因だと言うのでした。よくわからないので頷いていると、わたしはこのあたりが地元なんです、と運転手さんがいいました。だから、細かい道路事情に精通しています、とも。

あと何十メートルか進んだら細い脇道に折れてしまうのはどうか、というのです。私は引っ越してきたばかりだしそうでなくたってそんな細かい道路事情なんてわかるはずもありません。どうせもう料金メーターはかなりの額を表示していましたし、それにこのまま進まないよりも脇道を行く方が楽しそうに思えたので、そうしてください、と言いました。

細い道路に入ると車は急にスピードを上げました。たとえ雪が降っていなくても、そんな狭い道では無茶だと思えるくらい。チェーンのせいかものすごい音というか振動が伝わってきました。思わず、運転手さん！と叫びましたが、忘れた頃にようやく、大丈夫です、このあたりはわたしの地元なんですから、という答えが返ってきました。どうして地元だと雪道をとんでもないスピードで走っても大丈夫なのかよくわかりませんでしたが、きっとそれが運転手さんの論理なんでしょう。あるいは倫理かもしれませんが。

幸いにして狭い裏道を夜中に歩いている人はほとんどいませんでしたが、一度だけ道の真ん中を歩いている人に出会いました。車はかなりの速度で走っていたので、ああ、これはきっと駄目なんじゃないか、と思いました。歩いている人も同じことを思ったのかもしれません。道の真ん中でこちらを向いてまま動かなくなってしまったのです。私は思わず両手で顔を覆いました。その直後、横向きのすごい力が掛かってシートの上に倒れてしまったのですが、車は止まりませんでした。大丈夫ですか？という運転手さんの声でシートの上に起きあがって後ろを見ると、さっきの人が顔をこちらに向けて呆然と道の真ん中に立っているのでした。いったい何が起こったのか、いまだにわかりません。だって道幅とその人の立っていた位置から考えて、どう考えても避けることができたはずなんてないんです。

しかしそのことをいつまでも考え続ける暇はありませんでした。車は急に直角に曲がるとマンションの下の駐車場をものすごいスピードで突進していきました。駐車場には雪など積もっていませんから、チェーンがものすごい音を立てます。目の前に壁が見えましたが、車はものすごいスピードのまま右に曲がり、もう一度左に曲がると入ってきたのとは別な道路に出ました。今度の道路は二車線で、マンションの駐車場を出た直後右手から大型トラックが走ってくるのが見えました。大きくクラクションが鳴らされるのを聞きました。しかしその鼻先をかすめるように対向車線に入ると、トラックとは逆方向に猛スピードで走り始めたのです。

思い出して、状況がわかるように説明しながら話しているとどうということもない感じですけど、実際にはそのときまでに何度も心臓が口から飛び出そうになっていました。

二車線の道路には信号がありましたので、信号が赤になっていれば車は停車しましたが、スキーで滑っていて止まるときみたいに横向きに滑り込みをしてみたり、発車するときもタイヤをものすごい音を立ててスリップさせながらだったりで、暴走行為に近いものでした。というか暴走行為以外の何物でもありませんでした。二車線の道路は間もなく緩やかな上り坂、それに続いてやや急な下り坂が続くのですが、その区間を走っているときもずっと生きた心地はしませんでした。

上り坂のところどころには雪で動けなくなった車が乗り捨ててあるのですが、その隙間をタイヤを空転させたり横滑りしたりときどきはスリップして坂道を滑り落ちたりしながらも全体としてはものすごいスピードで進んでいくのです。止まっている車やガードレールに何度衝突しそうになったでしょうか。でも一度も衝突しませんでしたし接触事故さえ起こさなかったのです。

坂を上りきり、下り坂に差し掛かると、その先には一台の車も見えず、轍の跡さえないのです。どうやらほかの車はみな坂道を登りきったところにある信号で右折または左折してしまったようなのです。そのやや急で長い下り坂を見て恐れをなして、図らずも交差点を折れてしまうのかもしれません。

でももちろんその運転手さんはそんなことはしませんでした。暗くて白い路面を、雪が積もっているせいでいくぶん静かではありましたがやっぱりものすごいスピードで走り降りるのです。いえ、走り降りるというよりも滑り降りるという感じでしたが。というのも緩やかなカーブを曲がるのに車体が進行方向に対して斜めになりながら進んでいましたから。

その坂道を下ってしばらく行くと家の割と近くだということがわかったので、そこでタクシーを降りました。そこからアパートまで道案内をするのが面倒だったのと、運転手さんに家の前まで来て欲しくなかったというのもありました。

タクシーを降りると足元がふらつきました。お酒の酔いはすっかり醒めてしまっていました。でも足元がふらついたのは車酔いというよりもほっとしたからのようでした。ずっと雪道を歩いてきたみたいに疲れていました。

全身に汗をかいていて、皮膚に触れている衣類がじっとりと濡れていました。アパートに付くまでにその汗が冷えて、くしゃみが出ました。

部屋に入るとすぐに暖房を付け、震えながら着ているものを全部脱ぎ捨て、一瞬お風呂に入ろうかとも思いましたけどその気力が無くてバスタオルで汗を拭くに留め、あとはナイトウェアを着るとベッドに潜り込みました。でもなかなか寝付けなくて、たぶん明け方くらいまで何も考えることさえできないまま、ただ目を覚ましていました。