奇妙といえば奇妙な会合でした。なにしろ集まった三人が三人とも、お互いの存在をその日まで知らなかったらしいのです。らしい、というのは三人を媒介するＱとの会話の中でその存在が仄めかされた、ということはあったかもしれないということです。Ｑは会話で話題になっている人物を相手が知らないときは、職場の先輩とかネット繋がりの友人、みたいな言い方をしていました。少なくとも私を相手にしていたときはそうでした。ほかの二人にもそのような言い方をしていたらしいことが、彼らとの会話の中で仄めかされました。
私たち三人は、わずかにＱを介して繋がっているだけで、実生活における意外な繋がりみたいなものは結局見つからないままでした。つまり世間は狭いね、というようなことにはならなかったのです。
Ｑはその友人や知人たちの世界を広げてやる、というか出会いをコーディネイトするのが好きというか、私にいわせれば趣味なのでした。実際それまでに何度かＱにそういう機会を作ってもらい、刺激的、あるいは興味深い出会いをしてきたわけですが、その経験に照らせば、Ｑの趣味はおせっかいの領域を遥かに越えて、ほとんど芸術的でさえありました。何が芸術的なのか、芸術的であるとはどんなことかというのはひとまず措くとして。つまり、その出会いのどれもがはずれのない素晴らしいものだった、という点においてそうなのでした。
三人のうちいちばん最後に到着したのが私でした。約束の時間ぎりぎりというところでした。でもめずらしいことにまだＱが来ていませんでした。Ｑはそういうある種の仲介をする人間としての基本的なルールは必ず守る人物でしたから、約束の時刻に遅れたなんていうことは、私の知る限りにおいては一度もありませんでした。ほかの二人もあとでそれに同意してくれました。どうやらとても例外的なことが起こっているようでした。
とりあえず席について自分の名を名乗ったとき、向かいの席の人がポケットから携帯を取り出しました。その人は二言三言交わすと電話を切り、Ｑさんからでした、と言いました。Ｑさんはどうしても来られないそうです。仕事で未曾有のトラブルが起きたそうです。だから申し訳ないけど三人で適当にやっていてくれということだそうです、と言いました。その感じから、その人はＱとはかなり親しいのではないかと感じました。
Ｑが座るはずだった席を見るともなしに見ると、後の二人も同じことをしていました。間もなくお互いにそのことに気が付いて、笑い出しました。
それから私たちは少しずつ打ち解けていきました。ときどき不在のＱを話題というか肴にして。最初のうちはＱのことを話していると少しほっとしたのでですけど、しだいにＱを引き合いに出さなくても私たちだけでじゅうぶん楽しく会話することができるようになっていきました。ほかの二人も同じような感じだったのかもしれません。彼らのほうからも、Ｑは話題に上らなくなっていきましたから。
私たちは十年の知己のように、時間を忘れて会話に花を咲かせました。
結局閉店までそこにいて、そのあと午前三時までやっているというカフェに場所を移しました。もう、終電のことはあきらめていたし、そのまま解散するのはあまりにもったいない感じでした。
翌日は休日だというのにカフェは空いていました。時刻のせいかもしれません。三人とも少し疲れていたのか、しばらく沈黙が続きました。でも決して気まずいものではなく、真夜中の心地よい倦怠というようなものでした。深々としたソファに身を沈めると、眠くはないけれどそのままずっとぐったりしていたいという誘惑に駆られました。
さっきは向かいに座っていた人が今度は隣、隣に座っていた人が向かいに座っていました。隣の人は煙草を吸っていました。私は煙草を吸いませんが、漂ってくる煙もなぜか嫌ではありませんでした。
こんなふうに夜を浪費するのも素敵かもしれない。
その人はそういいました。私も、向かいに座っていた人もそうだねといいました。むしろ、浪費される夜だけが素敵なのではないか。浪費されない夜、決まり切った睡眠や、決まり切ったセックスや、決まり切った夜勤に費やされる夜は、充実していないとはいえないとしても、素敵ではないだろう。じゃあ、浪費される素敵な夜ってどういう夜なんだろう？でもたとえば恋人と一晩中愛し合ったみたいな夜は生産的すぎて浪費じゃないだろう。夜中本を読んだとか、オールナイトで映画を見たとかも。もっと非生産的で、ある意味とても詰まらない夜。リストアップしてみたらどうだろう？なるほど。
そこで私たちは、素敵かどうかはあとで考えるとして、これまでに体験した中で浪費度が高かった夜のことを、一人ずつ順番に話すことにしたのです。
まず、隣に座っていた人が話し始めました。
その晩はいつになく酔っぱらっていました。でもそのことに気付いたのは、もうそろそろ終電だからと店を出てからのことでした。なにしろまっすぐ歩けないのです。これがあの千鳥足というやつなんだろうか、と妙に感心してしまったほどです。
そんなに酔っぱらってしまったのは、お腹の空いたところに美味しいからとワインを立て続けに飲んだせいかもしれませんし、疲れていたせいかもしれませんし、睡眠不足だったせいかもしれません。というより、そのすべてのせいだというのが本当のところなのでしょう。
お腹が空いていたのは、ワインを飲むまでに朝クラッカーを何枚か食べたきりだったからです。お昼も食べ損ねたし、適当な時間にお菓子か何かを食べることもしませんでした。というよりも仕事が忙しくて食べる暇がなかったのです。
疲れていたのは、出社してみると私のセクションでトラブルが発生していて、それを修復するのにひどく手間と時間が掛かってしまったからです。それをなんとか片付けて待ち合わせの場所へ飛んでいったのですが、約束の時刻を五分ほど過ぎていました。
まだしなければならないことも残っていたのですが、いい加減疲れていたので待ち合わせを自分への口実にして逃げ出したのです。そのほとんどがその晩のうちには解決しそうにないことばかりでしたし。
睡眠不足なのは、前の晩友人と午前三時頃までしゃべっていたからです。しかも午前零時をまわった頃からはずっと喧嘩でした。それ自体は珍しいことでもなんでもありませんけど、やっぱり疲れますよね。
こうしてみると、酔っぱらわない方がどうかしていますね。料理をたくさん食べてワインはほどほどにしておけばよかったのでしょう。でもそういうときにこそ判断を誤るのでしょう。
不思議なことに、気持ち悪くなったりはしませんでした。まっすぐ歩くのが難しいくらいでしたのに。心も足も軽く、というよりもむしろ浮ついて駅の方へふらふら歩いていったのです。
そしてふと気が付くと、駅へ折れる道をだいぶ前に通り過ぎていたのです。駅は歩いてきた太い道路には面していなくて、そこから少し奥まったところにありました。初めての人なら、素面でも一度で見つけるのは難しいかもしれません。
でも私は何度もその駅を利用したことがありますし、酔っぱらってそこから電車に乗ったこともありました。まっすぐそこにたどり着けなかったことなんて一度もなかったのです。
私は少しだけ動揺しました。もし酔っぱらっていなかったら大いに動揺したことでしょうけど、酔っぱらっていなかったら、そもそも動揺しなければならないような失敗をするはずなどありませんが。
動揺したのは道を間違えたというためだけではありませんでした。終電の出る時刻から逆算して店を出てきたので、それに間に合わなくなる可能性があったからです。タクシーに乗るくらいのお金は持ち合わせていましたが、電車で帰れるならそれに越したことはありませんから。
私はすぐに駅の方に引き返しました。立ち止まりもせずに突然来た方へ引き返すのは、周囲から見たら奇矯な行動に映るかもしれないと思わないでもありませんでしたが、酔っぱらったりして判断力の低下しているときはシンプルに事を運んだ方が失敗が少ないですから。
シンプルに事を運ぼうという判断は間違っていなかったと思うのですが、駅にたどり着くのに必要な判断力の方がそれよりもずっと麻痺していたようです。どんなに探しても、駅へ向かう道路が見つからないのです。これだと思う道路を歩いていくうちに道が狭まり人通りも絶え、薄暗い住宅地に入り込んでしまい、挙げ句の果てに行き止まりだったりするのです。やむなく引き返して明るい方へと歩いていくと、あの大通りに出てしまうのです。しかもそこはさっき曲がったのとはまた別の場所なのです。
同じようなことを何度繰り返しても、いっこうに駅にたどり着くことができません。しかもそうしているうちに、終電の時刻は刻々と迫りつつありました。
空を見上げて嘆息すると、黒々とした大きな建物がそびえていました。駅のすぐ側のビルのようでした。それに向かって歩いていけば駅にたどり着けるかもしれない。そう思って建物の隙間から空を見上げながら歩いていくのですが、どういうわけかなかなか近付けないのです。気が付くと通り過ぎてしまっていたりするのです。
それでも少しずつ間合いを詰めてその建物にたどり着くことに成功しました。ところがどういうわけか駅が見つからないのです。建物のまわりをひとまわりしたと思うのですが、それでも駅はどこにもないのです。
時間はもうほとんど残っていませんでした。仕方なく、線路にぶつかるまで歩き、それに沿って駅を探すことにしました。
ところが、その線路にさえたどり着けないのでした。
そうこうするうちに大きな通りに出ました。先ほどから何度もぶつかっているあの道路のようでした。ちょうどそこに街路図がありました。しめた、と思いました。地図さえあればどうにかなるだろうと思いましたので。
現在地を確認し、そこから駅に通じる道筋はすぐにわかりました。
ところが、どちらに向かって歩いていったらその道筋をたどることができるのかがさっぱりわからないのです。地図上の位置関係は把握できるのに。そういう経験は初めてだったので、焦ったり困ったりするよりも不思議だと思う気持ちが先に立ちました。
時計を見ると、終電まであと三分でした。適切な行動を取ることができれば間に合ったかもしれませんが、もはや自分一人の力ではどうすることもできませんでした。
おそらくは二、三分は街路図の前に佇んでいたでしょうか。タクシーでもつかまえて帰ろうかとぼんやり考えていると、誰かが私の名前を呼ぶのです。辺りを見回すと、同じ職場の後輩が、トレーニングウェアを着て、自転車を押しているのです。
どうしてこんなところに？というと、近所に住んでるからです、先輩こそ何をしているのですかと返されました。この近くで飲んで、酔っぱらって、駅を見つけることができず、地図を読むこともできなくなり、その結果終電を逃してしまったと話すと、思い切り笑われました。
むっとして、仕方ないでしょう？酔っぱらっているのだからというと、駅を見つけられないほど酔っぱらっているようには見えないと言われました。会話もきちんと成り立っているし、というのです。
これからどうするんですかと聞かれたのでタクシーを拾って帰ると答えました。すると後輩は、どうせ明日は休みだし私に付き合いませんか？というのです。
後輩の言うには、ときどき週末の深夜に夜の街を自転車でゆっくり走るのだというのでした。性欲のはけ口なのかもしれませんね、とも。とてもそんなふうには見えませんでしたが。むしろ悟りきったというか枯れたというか、そういう印象でした。職場でもだいたいそんな感じなのですが。コーヒーよりも番茶、みたいな。
酔っぱらっていたし疲れてもいたはずなのに、後輩と一緒に散歩するのも悪くないと思ってしまったのです。翌日が休みだったからかも、眠くなかったからかもしれません。
酔っぱらって地図は読めないし、そもそもそのあたりの地理に暗いので、一緒に歩くと言うよりもただ後輩に付いていくという感じでした。後輩は私に合わせて自転車に乗らずに押して歩きました。悪いような気もしましたが、誘ったのは後輩の方だしそんなことを言い出しても仕方がないので黙っていました。
歩き始めて、後輩は私がかなり酔っぱらっているらしいことを理解したようでした。やっぱり帰られた方がいいと思うんですが、というのですが、私の方はといえば歩き方に不安がないでもないけど転ぶわけでもないし気持ちが悪いわけでもないし、むしろこの状態でタクシーに乗ったら急転直下気分が悪くならないとも限らないと主張しました。結局酔っぱらいの頑固さというか我が儘で主張を押し通したのです。でもなぜかそのときは後輩に悪いとは思わなかったのです。今は悪かったと思っていますが。
大きな道路を逸れて住宅街に入ると、急にひっそりとしました。それまで気にならなかった自転車のギアの空回りする音や靴音が気になりはじめました。それだけでなく、それまで気にならなかったいろいろなことが急に気になりはじめました。
蒸し暑さ。そよとも風が吹かず空気が澱み、湿度が高くて汗がちっとも乾かない。
におい。公園の木のにおい、天ぷら油のにおい、カビのにおい、汗のにおい、ハーブのにおい、石けんのにおい、ミルクのにおい、トイレのにおい、性交のにおい、そして後輩のにおい。汗のにおい、たぶん私の使っているのと同じボディ・ソープのにおい、シャンプーのにおい、洗濯物のにおい、たぶん自転車の、機械油のにおい、それ以外の、あるいはそれらを合わせたような、ヒトの発するにおい。私自身のにおい、体中から発散されている酒のにおい、汗のにおい。
光。公園の照明、街灯、通り過ぎる車のヘッドライトとテールランプ、それが自転車のペダルやサドルの後ろの反射板を光らせる、辛うじて見える星、深夜なのに明るい窓、交差点にちりばめられたガラスに反射する無数の光。
音。どこからともなく聞こえてくる自動車道路の音、遠くで聞こえるサイレン、叫び声というか笑い声というか、街灯の下の塀にとまって鳴くセミの声、得体の知れないどすん、どすん、という音、エアコンの室外機の音、開いた窓から聞こえる音楽、ときどきすれ違う車の音、そして自転車のギアの音、後輩と私の靴音。
そうこうするうちに、少し開けたところに出ました。川でした。都市部ならではの、コンクリートで固められた水路のような。川の両側は道路になっていて、そこに連なる街灯がずっと向こうまで水面に映って見えました。
ちょうどそこに橋が架かっていて、私たちは橋の欄干というか柵に並んで凭れ、その景色を眺めました。川に沿って吹いてくる夜風が心地く、ほてった身体を冷ましてくれるようでした。
この川を遡ってしばらく行ったところに、生まれた家があるんです。正確には生まれてすぐから生活していた家。
唐突に、後輩はそう言いました。そこにいくの？と聞くと、そうだと答えました。そこに誰か住んでいるの？と聞くと、住んでいる、と答えました。誰が住んでいるの？と聞くと、さあ、と答えました。今現在その家に住んでいるのはまるで知らない人だというのでした。
どうして夜中にそんなところに行くの？と聞くと、夜中にその家の前に佇んでも誰にも見咎められないような気がするから。昼間だったらそうもいかないでしょう？というのでした。それもそうかもしれないなと思いました。
それに、目標があった方が歩きやすいじゃないですか、というのでした。私はそうでもないけど、後輩がそう思うならそれでもいいやと思いました。
川に沿ってずっと歩いていくのですが、周囲の景色は基本的には住宅地なんですけど、ときどき公園だったり車の残骸の放置してある空き地だったり倉庫や工場だったりに姿を変えました。
ある倉庫らしい建物の前で後輩は自転車を街灯のポールにワイヤーキーで縛り付けると、倉庫と倉庫の隙間みたいな細い道路というか路地というかに入っていきました。私もそれに続きました。その頃には少し酔いがさめてきたのか、もう歩くのが不便だったり困難だったりはしませんでした。後輩はその薄暗い路地を、私の方を振り向きもせず、でもゆっくりと歩いていきました。
路地の尽きたところは中庭みたいになっていて、錆びた機械がごろごろしていました。タイヤやシートのないオートバイだったり、車の部品らしいものだったり、他のものもたぶんそんな類のものだったろうと思います。見えなかったのではなくて、それがなんであるかよく知らないものばかりだったのです。
そういう機械類を跨ぎ、今度は路地というんじゃなくて建物と建物の隙間を歩いて行きました。足の下はなんだかじめじめしているようで、靴が汚れそうで嫌でした。でもいまさらどうしようもないので黙って後輩のあとについていきました。
後輩が突然立ち止まったので私はその背中にぶつかりました。少しは間を空けていたのですが、足元に気を取られていて気付かなかったのです。でも後輩はまったく気にするようすもなく、目の前のドアを開けました。勝手に入っていいのかとも思いましたが、鍵が掛かっていないのだから構わないのだろうと思いました。
入ったところはガレージみたいなところでした。コンクリートの床の上には錆びた機械がいくつか転がっていました。機械油のにおいがきついのでした。くさい、というと、後輩は自分の口に人差し指をあてました。
そこは建物のいちばん奥で、入り口は開いていました。近道、と後輩は私に囁きました。私は黙って頷きました。別に納得したわけでもないのですが、それ以外にリアクションを思い付かなかったのです。
ガレージを出て左に進むと急に道幅が狭くなり、軽自動車でも通り抜けるのは難しそうでした。しかもじきに急な上り坂になり、道の真ん中には階段のような段が刻み込まれているのでした。
その坂の途中で後輩は立ち止まりました。ここが私が小さい頃に住んでいた家です、と小さな声で言いました。道路から数段の石段を隔てて、小さな黒っぽい古びたモルタルの家が建っていました。雨戸は閉まっていませんでしたが、カーテンが閉じていて明かりは消えていました。
そのあと自転車のところまで戻り、今度は二人乗りで後輩のアパートまで行き、電車が走り始めるまでそこにいました。