ｗ）

翌日の朝の９時頃エレベーターでエントランスまで降りると、真弓がいた。ちょっとだけびっくりした。

「おはよう」

「……」

「もう体調はだいじょうぶ？」

「……」

「こんなところにいないで上がってくればいいのに」

「……」

「どうかしたの？」

「……」

真弓は顔を伏せ、サンダルのつま先で床に何か描いていた。でも軌跡が残るわけでもなし、何か意味のあるものが描かれていたとしても解りようがなかった。

「どうしたの？」

真弓はやっぱり何も答えなかった。

「これからあの老人のところに行くけど、一緒に来る？　嫌なら部屋で待っててくれてもいいよ。お昼までには帰るつもりだから、そしたら一緒に何か食べよう」

でも真弓は何も答えなかった。鍵を渡そうとすると首を左右に振った。付いてくる？　と聞いても、ここで待ってる？　と聞いても首を左右に振るばかりだった。首を左右に振るたびに帽子に付いた小さなガラスの風鈴がちりちりと鳴った。

どうしたらいいのかわからなくて、じゃあ、ぼくは行くから、と外へ出ると、真弓は後から付いてくるのだった。でもぼくに並ぶでもなく、五メートルくらい後ろを顔を伏せてとぼとぼと。

例の坂道の途中で立ち止まると、真弓も立ち止まった。何かあったの？と聞いても相変わらず何も言ってくれない。あたりではうるさいほど蝉が鳴いていた。やっと夏らしくなったような気がする。でも真弓はひと言も、何も、言わない。

近付くと、後ずさりした。でも歩き出すと付いてくる。一計を案じて振り返ると同時に駆け寄ると、真弓は驚いた顔をしてその場にしりもちをついた。

「ごめん、驚かせるつもりじゃなかったんだ、ただ、いったいどうしたのかわけを聞きたくて」

それでも真弓は何も言わずに顔を伏せたままだ。真弓を抱き起こそうとしたそのとき「どうかしたの？」という声が頭上からした。自転車を押した女の人がぼくたちを心配そうに見下ろしていた。

「気分でも悪いのかしら？」と女の人が言った。真弓は首を横に振った。「じゃあ、躓いたのかしら？」真弓はやはり首を横に振った。

「あの……」とぼくが状況を説明しようとしたとき、真弓が口を開いた。

「この男がわたしのことを突然押し倒して、のし掛かってきたの！！」

あまりの言い草に、ぼくは一瞬言葉を失った。いったいどうして真弓がそんなことを言わなければならないんだ？

確かに、倒れた真弓を抱き起こそうとしていたぼくの姿は、真弓を突き倒してのし掛かろうとしていたように見えないこともなかったかもしれないけど、真夏の午前中の早い時間にそんなことをしようとする男なんているもんか。それ以前に、ぼくが真弓にそんなことをするはずがない、というか、そんなことをするようなやつに見えるはずがない、と思ったりしていたのだけど、自転車の女の人は、ぼくと同じようには考えてくれなかったらしい。急な坂の途中にむりやり自転車を置くと、ぼくたちのところまでやってきてぼくのことを睨み付けた。ぼくは思わず後ずさりした。

女の人は真弓を抱き起こすと、大丈夫？　と声を掛けた。すると真弓は泣き出した。

いったい何が起きようとしているんだ？

「誤解です、その子はぼくの友達なんです」

「友達だったらなおさらよ！いったいなんてことするの！」

自転車の女の人はすごい剣幕で怒鳴った。

「いえ、だから、ぼくが驚かすようなことをしてしまったから」

「押し倒したのね！」

「そうじゃなくて、驚かすようなことをしたら驚いて倒れちゃったんです。さっきからずっとひと言も口を聞いてくれないし、近付こうとすれば逃げるし。どうしても話をしたくて振り返ると同時に駆け寄ったら、彼女がひとりで倒れちゃったんです。それを抱き起こそうとしているところへあなたが通り掛かったんです」

「本当？」と自転車の女の人が真弓に聞いた。真弓は首を横に振った。

「この男の言うことは全部うそ。すごい嘘つきなの」

それだけ言うと、真弓は再び泣き出した。事実を語っているようにしかみえなかった。迫真の演技。でも「本当に」泣いているみたいだった。泣く理由なんてあるんだろうか。ぼくにはいくらでもあるけど。

その場に留まってもろくなことになりそうもなかった。自転車の女の人が真弓を慰めている隙に少しずつ間合いを広めていき、すぐには追い付けなさそうな距離を取ったところで坂道を駆け下り始めた。後ろから鋭いホイッスルの音が聞こえてきた。あの女の人は婦人警官か何かだろうか？

坂道の終わる当たりに女の人が二人立っていて、たんなる通行人くらいにしか思わなかったのだけど、そうでもないらしかった。というのもその人たちはぼくのことをまっすぐ見据えていたからだ。でもぼくが近付くとさっと左右に分かれ、やっぱりただの通りすがりの人かと思ったとき、両肩を思い切り掴まれ、かなりの勢いで走っていたこともあって、バランスを崩して転んでしまった。そのときすぐ目の前を大型トラックが横切った。

「もうちょっとで命を落とすところだったわね。無事で何より」

二人のうちのひとりがぼくの手を取って起こしてくれた。

「どうもありがとう、でも急いでいるのでこれで失礼します」と言ってその手をふりほどこうとすると、「あら、でも私たちはあなたに用があるのよ」とぼくの右手をねじ上げた。

「まだこの手を離すわけにはいかないの。悪く思わないでね」

もうひとりはぼくの前にまわり微笑んで見せたが、どう見てもぼくの行く手を阻んでいるのだった。

「ごくろうさま」

さっきの自転車の女の人だった。そばにはすっかり泣きはらしたように見える真弓が立っていた。並んで立つと、真弓の方がかなり背が高かった。まあそうだろう。そして二人の後ろからは別の二人の女の人が並んで坂を降りてきた。もし坂を駆け上がった逃げようとしたら、その二人に捕まったのかもしれない。

「手荒なまねはしたくないのだけど、あなたが逃げたのだから仕方ありません。でもどうして逃げたりしたんですか？もしあなたのいうことが正しいなら、逃げる必要なんてないじゃありませんか。違いますか？」

「おっしゃるとおりです。でもあのままだとぼくが彼女にひどいことをしたのがまるで事実になってしまいそうで、怖かったんです」

「でも、逃げたりしたらかえって怪しまれるとは思いませんでしたか？」

「そこまでは考えませんでした」

「残念ながら、あなたが逃げたりしたので、私たちはあなたのことをじゅうぶんに信用することができなくなりました。申し訳ないけど、このままあなたのことを帰すわけには行きません」

「あなたは警察の方ですか？」

「いいえ、警察ではありません。でも警察と連携して活動しています」

自転車の女の人はスーツのポケットから運転免許証くらいのカードを取り出し、ぼくの方に向けた。顔写真と、「Ｒ．Ｔ．Ｍ．Ｗ．Ｒ．Ｗ．　巡察官主任　春山夏子」というのが読みとれた。

「『Ｒ．Ｔ．Ｍ．Ｗ．Ｒ．Ｗ．』ってなんですか？」

「女性の人権を守るＮＧＯよ。聞いたことない？」

「ありませんね」

「そう、それは残念。悪いけど、私たちと一緒に支部に来てもらいます」

「嫌だといったら？」

「私たちを困らせないでほしいんだけどなあ」

「警察だって、逮捕状がない限り誰かを拘引するなんてできないはずです」

「もちろん、私たちは任意同行をお願いしているんです」

理由は分からないけど、真弓はぼくを窮地に立たせようとしているらしかった。楽しんでいるのか、それとも憎んでいるのか、ちっともわからないけど。

「嫌です。どうしてあなたたちにそんなことを言わなければならないんですか？警察へ行って、何もかもはっきりさせましょう」

「警察へ行っても構いませんけど、結局私たちに引き渡されることになりますよ。警察でもいろいろいきさつを聞かれて、愉快ではない思いをすることになりますよ？」

「構いません」

「そう。それなら携帯を貸してあげるから警察に電話してごらんなさい」

「結構です、自分のがありますから」

どこへ掛けたらいいのかよくわからないので、１１０番をダイヤルして、ある集団に拉致されて掛けているのだと訴えた。警察に電話できる状況なのですか？　と聞かれたので、その集団の人から警察に電話したければするように言われたと説明した。すると、その集団の名前がわかるなら教えて欲しいといわれたので、「Ｒ．Ｔ．Ｍ．Ｗ．Ｒ．Ｗ．」というＮＧＯだそうですと答えた。すると、電話を代わるので少々お待ちくださいと携帯の向こうから暢気なメロディが流れてきた。はいお電話代わりました。Ｒ．Ｔ．Ｍ．Ｗ．Ｒ．Ｗ．の方に代わっていただけますか？　と言われた。もちろん言われたとおりにした。他に選択肢はなかったから。

ぼくは春山夏子という「主任」に携帯を渡した。「主任」は二、三言葉を交わすと、ぼくに携帯を返した。ちらっと真弓の方を見ると、下を向いてサンダルのつま先で地面に何か書いていた。

警察の人は、その人たちの指示に従うように、と言って電話を切った。

「気が済んだ？」

「……」

「さあ、私たちと一緒に来てもらいます。車の中で二、三聞かせてもらいます。黙秘しても構わないけど、それで不利になることがあっても有利になることは何もありません。それから申し訳ないけど、目隠しをさせてもらうわよ。暴れたり抵抗したりすれば、こちらとしても対抗措置をとらなくてはならなくなるから、そんなことはしないで貰いたいわね」

「……」

「あの女の子にはいくつか必要なことを聞いてから、帰ってもらうことになります。念のため、私たちのうちの二人付き添います」

「よろしくお願いします」我ながら矛盾しているというか間抜けな答えだ。ぼくが真弓に乱暴しようとしたと疑われているというのに！

「それじゃあ、目隠しを目隠しをさせてもらうわよ。車を見られるわけにはいかないのよ」

「なぜですか？」

「私たちは女性を心ない男性か守る組織で、知られては業務に差し支えがあることもあるからです。」

微妙に釈然としなかったけど、ここでどうしたって事態が改善するとは思えなかったので、言われるとおりにした。それに、警察のお墨付き、あるいは黙認の集団なのだから、いわれのない暴力を受けるというようなことは多分なさそうだった。

車で移動中に名前と住所、電話番号、本籍、出身地、両親の連絡先などを聞き出された。でまかせを言おうかとも思ったけど、真弓が正しい情報を全部知っているのだから、素直に本当のことを答えた。

車に乗せられていたのはたぶん三十分くらい。車を降ろされどこかのビルに入り、靴を脱ぎ、廊下を歩いていった先で椅子に座らされ、そこでようやく目隠しを取ることが許された。

白い壁紙と白い天井、床はフローリング。窓には分厚いカーテンが掛けられ、窓の上ではエアコンが低く唸っていた。その下には病院にありそうなベッドがひとつ。壁際に事務机がひとつ、その前の椅子に、白衣を着た女の人が座っていて、ぼくはその人と向かい合うように座らせられていた。両脇にはスーツを着た女の人が二人密着するように立っていた。不測の事態に備えているのだろう。

「あなた、中原くんなのね」と白衣の女の人は驚いたような顔をして言った。あんまり馴れ馴れしい感じだったので戸惑ってしまい、「ええ、はい」としか答えられなかった。

「わたくし、真弓梓の母親です。はじめまして」

「真弓のお母さんですか？」

「はい、梓の母親のマユミ・マユミです」

「マユミ・マユミさんですか？」

「ええ。名字も名前も同じ字を書きます」

マユミ・マユミと名乗った真弓の母親らしい人は、名刺を差し出した。名刺には、

「Ｒ．Ｔ．Ｍ．Ｗ．Ｒ．Ｗ．日本支部　主任カウンセラー　真弓　真弓」と書かれていた。

「ええと、梓さんのお母さん……」

「マユマユと呼んで」

「マユマユ……？」

「なあに？」

「いえ、お名前を呼んだわけじゃなくて……」

「あらそう。でも驚いたわぁ。梓の彼氏がここへ連れてこられるなんて。しかも告発したのは梓だって。別な人に回してくれればよかったのに」

「でも今日はマユマユ主任の当番ですからね」とぼくの右側に立っていた人が言った。

「まあね。でも梓が仕組んだとしか思えないわね。梓からの調書はもう読んだから、今度はあなたの言い分を聞かせて頂戴」

「あの、その前に、この組織が何なのか教えて頂けませんか？　それに、梓さんとは恋人というわけじゃないんですが……」

「あら、Ｒ．Ｔ．Ｍ．Ｗ．Ｒ．Ｗ．を知らないの？結構有名だと思ってたんだけど。あなた新聞読んでる？テレビ見てる？」

「新聞は取ってません。テレビはうちにありません」

「あらあら」

「ニュースならインターネットで事足りると思ってたんですが」

「あまり公平な意見ではないかもしれないけど、インターネットを通して入ってくるニュースは、ソースをそれなりに吟味して配分を考えないと、テレビと新聞を通して入ってくるニュースに比べて、偏りが生じやすいような気がするわね。もう少しニュースソースのバランスを考えた方がいいんじゃないかしら」

「はあ」

後半部分――真弓とはただの友達だ、というのは完全に無視されてしまったみたいな……

「Ｒ．Ｔ．Ｍ．Ｗ．Ｒ．Ｗ．っていうのはね、日本ではまだまだだけど、国際的には結構名の通ったＮＧＯなのよ。どんな活動をしているかというと、男性によって人権を侵害されたりされそうになっている女性を守ったりするの。事態が緊迫していると思われる場合は、男性を説得したりもするの。場合によっては一時的に身柄を拘束することもあって、今回はそれに当たるわね」

「それは法律に抵触するんじゃないんですか？」

「建前としては拘束ではなく、お願いして同行してもらうということになっているのだけどね。でもこないだの法案が国会を通過して、警察と連携しながら身柄の拘束をすることが可能になったのよ。実際、Ｒ．Ｔ．Ｍ．Ｗ．Ｒ．Ｗ．には警察出身の人も少なくないのよ。じゅうぶんな武装もしているし」

ぼくの右側に立っていた女の人がスーツのボタンをはずして見せて説明した。防弾チョッキ、拳銃、スタンガン、麻酔用注射器、等々……

「でも、今回のはちょっとひどいんじゃないでしょうか。明らかに誤解です」

「でもそれは、双方の言い分をきちんと聞いてからじゃなくてはわからないのじゃないかしら」

「まあ、そうですが」

「それに、もし私たちが間違って身柄を拘束してしまったことが明らかになった場合、その場ですべてのデータを抹消するし、警察と違って、このことが外部に漏れる心配はまずないでしょう。ここへ来てもらうのにも、ずいぶん気を使っているのよ。それに、そういう場合でもせっかくここへ来てもらったのだかということで一定のプログラムをこなしてもらうことにしているのだけど、そのプログラムをこなしたあとでも私たちの少し強引かもしれないけどそれなりの危険も伴う活動を、ほとんどの人が理解してくれるわ。理解してくれない人は、残念ながらもう一度顔を合わせてしまう場合が多いわね。データを消すと言っても、頭の中のデータまでは消せないのよ」