ひと月ぶりに電車に乗った。正確には何日だかわからない。曜日の感覚を失うのに、たぶん一週間も掛からなかったと思う。あとは、区別を付けられない毎日が続いていくだけ。退屈ではない。退屈などしている暇はない。そういった点では、土日の区別なく働いていた頃と似ているかもしれない。
でもまだこの生活パターンに完全に馴染んだというところまではいかない。何しろお金はまだあるから。ちょっとしたワンルームマンションの二ヶ月分を支払えるくらい。でもあとどのくらい持つだろうか。
生活保護という手もあるのかもしれないけど、頼れる家族がいるとだめだという話を聞いた。でもそんなことはできない。そんなことをするくらいなら死んだ方がマシかもしれない。でも死にたくはない。死にたくないから、こうやって生きているのだ。
昨日のことだ。公園のベンチで居眠りしていた。眠るなら昼間の方が安全なのだ。この生活を始めて数日でそのことに気付いた。もっとも昼間なら絶対に安全ということでもない。比べれば、夜よりは昼の方が安全だというだけのこと。それに、完全に眠ってはいけない。少なくとも気配を察知できるくらいには起きていなくてはならない。だから居眠り、というわけ。
まるで野生動物のようだけど、住む家がない、ということは野生に置かれるのとあんまり変わらないような気がする。少なくともぼくの体験からすれば。
そう、ベンチで居眠りしていた、昨日の昼間。うららかな午後の公園。たぶん何かの気配を感じたということはなかった。でもふと目が覚めた。足元に、電車のプリペイドカードが、拾ってくださいというように落ちていた。
手に取るとそれは五千円のカードで、残額は五百二十円だった。
乗車履歴はとても奇妙なものだった。同じ駅のあいだを往復した形跡がないのだ。同じ路線でも、必ずＡ駅→Ｂ駅、Ｂ駅→Ｃ駅、Ｃ駅→Ｄ駅のようになっていた。そして、同じ駅は二度と利用されていない。しかもそれがすべて違う日付なのだ。日にちが空いていることもあれば、そうでないこともある。落とし主は、友達の家を転々としてでもいたのだろうか。
必要もないのに、いまだに持ち歩いている手帳と照らし合わせてみると、移動日と休日・平日との関係はないように見えた。
落とし主がどんな人間なのか、推理してみようとした。でも納得が行くような答えは見つからなかった。何らかの事情で友達の家を転々としている誰か、という程度の答え。
それだと、転がり込む先があまりに多いような気がする。乗車した日と日のあいだにどこかに泊まったのだとするなら、少なくとも止めてくれるだけの二十三人の友達、知り合い、親戚がいることになる。それとも、ぼくのように、どこかの公園にでも泊まっていたとのだろうか。気持ちよく野宿できる場所を探すためにあちこち歩き回ったとか？
ぼくの少ない経験からすれば、それは賢明なこととは思えなかった。そんなことをしていては余計なお金は使うし、お腹は減るし、疲れるし、トイレや水飲み場の場所なんかも毎回一から探さなくてはならないし。それともプロの野営者はそういうものを瞬間的に見つけ出すことができるのだろうか。
しかしそれよりも、五千円のプリペイドカードを買うことがいちばん納得がいかない。五千円もあれば、ほかにどれだけのことができるだろう。
ひととおりのことを考えると、ぼくはそのカードを落ちていた地面に戻した。落とした人が拾いやすいように。しかし、結局その午後いっぱい日が落ちるまで、誰もそのカードを拾いに来なかった。そこでぼくはそのカードを自分の物にすることにした。厳密には犯罪だろうけど、たぶん誰もそんなことを気にしないだろうと思ったので。
しかし、それを使う決心をするためには結局翌日まで掛かってしまった。ネコババみたいなことを、それまで生きてきて一度もしたことがなかったのだ。気が咎めたのだ。小心なのかもしれない。
行き先は、カードの残額五百二十円で往復できるいちばん遠い駅。急ぐわけでもないので各駅停車に乗ったらガラガラに空いていた。久しぶりに座る、軟らかい座席のなんと心地よいこと。涙が出るほどに。
電車が走り始めると、開いた窓から気持ちのよい秋の風が入ってくる。よく晴れた秋の空の下を景色が流れていく。涙が出るほど美しかった。いままでどうして気付かなかったのだろう、と思うほどに。実際、涙が流れ落ちてきたので、それをシャツの袖口でぬぐった。袖口はひどい状態だ。涙やよだれやときには鼻水までそっとぬぐってきたのだから、仕方ないかもしれない。もちろん顔の汚れも同時に。
そこまでは何もかもが順調だった。
二駅ほどで少し大きな駅に到着したのだが、そこで大勢の乗客が乗り込んできた。スーツに身を固めたような人はいなくて、休日を満喫しようとしている人たちばかり。ついこないだまで、たぶんぼくもその一員だったのだ。
座席はあっという間に埋まってしまい、立つ人もたくさんいた。ぼくの両脇にも人が座ったし、ぼくの前にも人が立った。
しかし、次の駅に着くとぼくの両脇の人は席を立ち、ぼくの前に立った人もそこを立ち去った。間もなく、ぼくの周囲だけぽっかりと空間ができた。少なくとも半径一．五メートル以内には誰もいなくなった。
顔に触ると髭がかなり伸びていた。お風呂にはたぶん十日くらい入っていない。お風呂に行くお金が無かったわけではないのだけど、公園のベンチから銭湯に通うというのがためらわれたのだ。それに、水浴びをするには今頃の気候は少し寒すぎた。そんなこんなで自分で思っている以上に臭気が漂っているのかもしれなかったし、薄汚い風体に近寄りにくさというか身の危険を感じたのかもしれなかった。
そういうのを自分で認めるのが辛かったので、ここしばらく鏡を見ることもしなかった。公園の池の水さえ覗かなかった。じぶんの体のにおいを嗅ごうとも思わなかったし、口臭だって気にしなかった。
誰もぼくにひどい言葉を浴びせたり、暴力的な行為に及んだわけではなかったけど、もしかしたらそうされる以上に苦しめられ、傷付けられたような気がした。でもそこで逆ギレするわけにもいかなかった。というのも、たぶんぼくは今まわりの人たちがぼくにしているのと同じことを、今のぼくと同じような立場の人にたいしてしてきたと思うから。たまたま空いている座席に座ったら隣の人が異臭を発していたということがあって、ぼくは即座に次の駅で降りて、別の車両に移ったのだった。
そんなことを考えたからといってその状況を克服できるわけではなかった。あまりのいたたまれなさに、ぼくは次の駅で降りることに決めた。帰りは慎重に、空いている電車を乗り継ぐことにして。
そのとき、ぼくを囲む半円の円周上に立っていた背の高い老人が突然呻き声を上げ、その場にしゃがみ込んだ。隣に立っていたなんとも地味な感じの女の人が、お父さん、どうしたの、しっかりして、としゃがみ込んで老人の背中に手を回した。周囲の人たちが声を掛けようかどうしようかと様子を見ているらしい数秒のあいだに、老人は蹲った姿のまましぼんでいった。車内が水を打ったように静かになった。そしてたぶん二十秒もしないうちに老人は亀になっていた。たぶんウミガメだ。甲羅が平べったいし、脚が鰭のようになっているし、大きさからしても。
女の人はウミガメに縋って「お父さん、お父さん」と叫んでいた。ウミガメのまわりからも潮が引くように人垣が後退していった。後退できるくらいには空いていたのだ。女の人は嫌がるだろうと思ったけど、「大丈夫ですか？」と声を掛けた。何が大丈夫なのかよくわからなかったけど、ほかに言葉が浮かばなかったのだ。
「お医者さんを呼んでください」と女の人はぼくに懇願するように言った。化粧はしているけど、何ともいえない地味な顔つき、年の頃は四十前後？と瞬間的に判断してしまう自分にうんざりしながら、次の駅でお父様を電車から降ろしましょうとぼくは答えた。
駅に到着すると、ぼくは電車のいちばん後ろの車掌室に向かって走った。車掌はぼくが向かっていくのを見て車掌室に逃げ込もうとしたが、急病人です、救急車を呼んでください、と叫ぶと、ほんとうですか？ と言った。本当だというと、運転士と駅に連絡するから待ってくれと車掌室に入っていった。間もなく担架を持った駅員たちが現われた。「急病人はどこですか」
その電車の中です、とぼくが言うと一瞬怪訝そうな顔をしてから担架をホームに置いて電車の中に入っていった。それから、何か押し問答をするような声が聞こえてから、困った顔をして電車の外に出てきた。
「あんたは見たんですか」
なんとなく横柄な聞き方をされたので内心むっとしたがそれどころではないので、見ましたと答えた。
「ほかのお客さんにも聞いたんだけど、よく見えなかったとか、最初からカメを連れているところを見たという人もいるのだよね」
子供もいたのだから、子供に聞いてみたらと言うと、子供の言うことは当てにならないと言われた。
結局、「父親」がウミガメになったと主張する「娘さん」の主張を容れて、ウミガメを担架に乗せて電車から運び出すことで決着した。ぼくは「娘さん」に証人として一緒に来てくれるようにと頼まれた。もちろん承知した。
とりあえずウミガメは救護室（そんなのが駅にあるなんて知らなかった）に運び込まれ、救急車の到着を待つことになった。間もなく救急車はやってきたが、ウミガメを見るなり搬送を拒否して帰っていった。
「娘さん」は途方に暮れた。もう帰ってもいいかとは切り出せない雰囲気だった。まあ、帰る場所などないのだからどうでもいいのだけど、ずっとそこにいるのが耐え難かったのだ。あの電車の中以上に。
間もなく医者がやってきた。ウミガメをあちこち観察して、これはアオウミガメですねと言った。医者といっても獣医だった。
アオウミガメを診たことはないのであまりはっきりとしたことは申し上げられませんが、知り合いの水族館の学芸員を紹介いたしましょう」と自分と学芸員の名刺を置いて帰っていった。
窓の外は日が傾き掛けていた。あと一時間もすれば日が暮れそうだ。駅員が来て、もしよろしければそろそろお引き取り願えませんかと言った。なんなら車の手配もすると言った。
「娘さん」はずっと涙を流し続けていたのだけど、そろそろ涙も枯れ果てたようだった。父親のなれの果てであるアオウミガメをじっと見詰めていた。アオウミガメも「娘」をじっと見詰めて、こちらはまだ涙を流していた。何か言いたそうに口を動かすのだけど、言葉にはならない。
「とりあえず、お家へ帰るのはどうでしょうか」とぼくは言った。「このままここにいても埒が明かないと思うのです」
女の人はぎょっとしたようにぼくのことを見た。ぼくの存在を忘れていたのかもしれない。少し考えるようすを見せてから、「そうですね、そうするしかありませんものね」と言った。でもそれきりまた黙ってしまった。
沈黙に耐えられなくて、「あの、ぼく、そろそろ」と言いかけると、「お願いです。わたしたちを置いていかないでください。わたしたちを見捨てないでください。どうか、もうしばらくいっしょにいてください」と女の人が言った。
あなたさえそれでよろしいなら、とぼくは答えた。この人たちを見捨てていけないというよりも、こんななりをしているぼくを当てにしてくれることが嬉しくて。
ぼくとウミガメを見るとタクシーの運転手は嫌そうな顔をしたが、乗車拒否はしなかった。事情を知っていたのだろう、少なくともウミガメに関しては。ウミガメは駅で貰った古いシーツを濡らしたものにくるまれていた。乾燥するとよくないだろうということで。それでもウミガメはときどき苦しそうなようすを見せた。
女の人の住まいはあんまり広くはない木造アパートの一階だった。奥の六畳の部屋に女の人が布団を敷き始めたので、布団を敷いても仕方がないのではないかと言った。
「じゃあ、どうすればいいんですか！」と女の人は叫んだ。「わたし、ウミガメなんて飼ったことありません！」
「お風呂に水を張って、そこに居てもらうというのはいかがでしょうか」ぼくはお風呂のあるらしい方を見ながら言った。
「それよりも、あなたのほうがお風呂に入った方がいいと思います。どういう事情があったのかわかりませんが、お風呂に入って、身体をきれいにした方がいいと思います。その間に、さっき獣医さんに教えて頂いた水族館の方に連絡を取ってみます。着替えは、取りあえずお父様のものを使ってください。」
女の人は箪笥からひととおりのものを出すと、ぼくに渡した。
「それから、髭も剃った方がいいと思います。お父様のものが洗面所にあるので、それを使ってください」
そういうと、有無をいわさずぼくを脱衣場に押し込んだ。
体を洗うのはとても気持ちがよかった。一度だけではきれいにならなくて、二、三度洗い直した。でも髪の毛はなんだかばさばさになってしまった。ひげはこのくらい伸びるとなかなか剃れなかった。結局小一時間もかかってしまった。
しかし、見ず知らずの親子の住む部屋でお風呂を使わせて貰っているぼくは、いったいなんなんだろう。ひと月前にはとても考えられなかったことだ。
脱衣場の外はすぐにキッチンと玄関になっていて、バスマットの横の棚の上にタオルと着替えが乗せてあった。居間との襖は閉じていた。当然だけど。
あの老人の服は、ぼくには大きすぎた。何しろぼくの身長は二年前に測ったときで１６３センチしかなくて、あの老人はたぶんそれよりも二十センチくらい身長が高かったような気がする。立っている姿を見たのはほんの一瞬だから詳しくは分からないけど。
シャツとズボンの袖を思い切りまくって、入ってもいいですか？ どうぞ、という声がしたので襖を開けると、女の人がぼくを見上げた。
「あら、大きすぎたみたいね……それよりも、あなたいくつ？」ぼくは二十七歳だと答えた。もちろん嘘ではない。嘘を付いてどうなるものでもないし。
「高校生くらいにしか見えないわね。わたしが歳を取っちゃったから若い男の人はみんなそのくらいに見えてしまうのだけど」
女の人は立ち上がるとぼくの真っ正面にやってきた。
「あら、ちょうど同じくらいね、身長。じゃあ、わたしの服の方が合うかもしれないわね」
女の人はタンスからブラウスとパンツを持ってきて、これに着替えてみない？と言った。ぼくはちらとウミガメを見た。ウミガメはピクニックなんかのときに使うストライプのビニールシートの上に湿ったシーツにくるまって目をつぶっていた。眠っているのだろうか？
女の人は有無を言わせずブラウスとパンツをぼくに押しつけるとまた脱衣場に押し込んだ。
「着替えたら教えてね」
そのまま出ていってしまうことも考えたけど、それによって事態が好転するとも思えなかったし、このまま女の人の言いなりになっていれば夕食くらいはご馳走してくれるかもしれないといういじましい気持ちもあった。
というわけで、女の人の出してくれた服を着た。
襖を開けると、女の人は嬉しそうな顔をした。
「まあ、似合うじゃないの！お父様の服よりも断然いいわ。しばらくそれを着てらっしゃいよ」
しばらく、というのはいつまでだろうかと考えたけど、やめた。いられるまでここにいようとぼくは決めた。十分間だろうと十年間だろうと。
朝日で目が覚めた。カーテンの隙間から初夏の日差しが私の顔を照らしている。ベッドから跳びおきてカーテンを急いで開けた。コバルトブルーの空ときらきらの太陽だ。うっとうしい梅雨も今日はお休みね。うれしくなってパジャマのまま洗面所に行き、冷たい水を思いっきり顔に浴びる。ああ、そろそろ夏なんだね。鏡の中の自分に向かって「おはよう」と声をかける。なんだかわけもなくうきうきしてしまう。よし、今朝は新しい紅茶の缶を開けよう。やかんに水を入れ、火にかける。すぐに楽しそうな音を立て始める。「また夏が来てうれしい？」「うん」それほど夏が好きではない私だけれども、二週間も雨が続いた後の快晴はとってもうれしい。今日は何を着ていこうかな。紅茶を入れながら考える。なんて良い香りなんでしょう！やっぱり開けたばかりの紅茶は違うね。昨日フランスパンを買っておいてよかった。友達からもらった北海道産のバターを手で割ったフランスパンにたっぷりつけて食べる。ついでにこの前買っておいたブルーチーズも切って食べる。これも美味だわ。朝から何を食べてもおいしいなんて……太りそう……。
お弁当も作ってしまおう。薄切りフランスパンで冷蔵庫の中身をサンドイッチ！ 学校にもピクニック気分で行ってしまおう。しばらくぶりに自転車で、風を切って全力疾走で！ 花柄ブラウスフレアースカートでリゾート気分。出発だ。バスケットに教科書もお弁当も詰め込んで。先生、こんな私を許してね。梅雨の晴れ間に免じて。
朝日がとってもまぶしい。こんなの何日ぶりかしら？ 早く誰かに会いたいな。今日一番に会った人と今日の過ごしかたを相談しましょう午後はきっと休講ね。再び、先生、ごめんなさい。だってこんな一日は一年に何度も、いいえ、一生に何度もないはずだから。さあ、全力疾走で学校に向かって一直線。神様、こんな素敵な朝を本当にありがとう。
ずっと昔、ドラえもんの話は実は植物人間になってしまったのび太の見ている夢だという話を聞いたとき、同じようなことを考える人はいるのだなと思ったことがあった。わたしがまったく同じことを考えていたというわけではない。わたしの考えていたのはピーターパンの話だ。ピーターパンの話は瀕死のウエンディが紡ぎ出した、でも誰にも語られることの無かった夢だと。現実に起こったのは、両親が家を空けた隙に誰かが家の中に侵入し、子供たちが惨殺されるという出来事だった。しかしウエンディだけは数時間後に息を引き取った。両親に看取られたかもしれない。その間一度も意識を取り戻すことはなかったが、ウエンディは耐え難い体験を楽しくも美しい物語に作り替えてあの世へ持ち去ってしまったのだ。