ｓ）〜ｕ）

ｓ）

坂道の上の方から誰かが降りてきた。この狭くてものすごく急な坂で誰かに会うことはまれなので、ついそちらを見てしまう。そして目があった。ものすごく後悔した。というのも死に装束に身を包んだ老人が杖をついて危なっかしげに降りてくるところだったから。

一瞬引き返そうかと思ったけど、やめた。かえって危険な気がしたからだ。

東京に来てから、怪しいというか不思議というか変なというか、そういう人にとてもよく会う。真弓に、東京にはそういう人が多いのかと聞くと、人口が多いから、怪しげな人も当然多いかもしれないけど、地方と比べて割合が多いかどうかはわからない。自分自身ではあんまりそういう人に会ったことがないと答えた。

でもぼくの場合、東京に来てから平均して月に二人か三人くらいのペースでそういう人にお目にかかっていた。うさぎ跳びでやって来る中年女性、野球のユニフォームを着て両手の金属バット振り回す若い男、両手に鉄アレイを握りしめた女子高生、何を言っているのか今ひとつわからないけど大声で謝りながら歩いているスーツを着た男性、などなど。危害を加えられたことは一度もないけど。そういう人たちは誰かに危害を加える存在でないのかもしれないけど、ぼくのしてきた対処がよかった、という可能性もあるかもしれない。それは、目を合わさない、見て見ぬ振りをする、こちらの不安な気持ちをできるだけ外に出さない、ということに注意しつつ、さりげなく別な道に逸れたり、道の反対側によけたり、少しずつ歩みを速めるなどして距離を広げる、というようなことなんだけど、今回はそのどれも難しかった。

なにしろ目が合ってしまった！　軽自動車も通れないくらい道は狭いので、距離を取ってすれ違うのも難しそうだった。しかたなく、目が合わなかったことにしてそのまま坂道を登っていった。

ぼくたちの間の距離がどんどん縮んでいくと、老人がぼくのことをじっと見詰めていることに気付いた。これはやばい、と思った。老人はぼくの前に立ちふさがった。ぼくは仕方なく立ち止まった。

老人はぼくの顔をじっと見詰めた。ぼくも老人の顔を見詰め返した。気味の悪い顔をしていた、とでも言いたいところだけど、特にそんな感じはなかった。目が死んでいるというようなことも、ぎらついているということもなかった。もしそんな格好をしていなければ、普通に通り過ぎるであろう顔。「ズボンのチャックが開いてますよ」とでも警告して立ち去ってくれそうな顔。

老人はぼくの顔をじっと見詰めて、「あなたはこのままでは死ぬことになる」と言った。

「はぁ？」とぼくは聞き返した。

「あなたはこのままでは近いうちに死ぬことになる」と老人は繰り返した。

「見ず知らずのぼくに、なんの根拠があってそんなことを言うんですか？」ぼくは

不安と怒りに駆られて言い返した。

「明日正午にここに来なさい。さもなければ命の保証は致しかねる」

老人はそれだけ言うとぼくの横をすり抜けてさっさと坂道を下っていった。何が何だかさっぱりわからなかった。どうして行きずりの怪しげな老人に、このままでは死ぬことになる、なんて言われなきゃならないのだ。いったいぼくが何をしたというのだ。そもそもあの老人とは初対面だ。それともどこかで会ったことがあるのだろうか。だとしてもぼくには覚えがない。明日正午にここに来なければどうなるというのだろうか。命の保証はできないって、つまり殺されるってこと？　警察に届けた方がいいのだろうか？　でもあんまり雲をつかむような話で、いったい何をどう話したらいいのか見当も付かなかった。実際、殺されてみれば話は簡単だろうけど、それからじゃ遅いだろう。歩き出そうとすると脚ががくがくした。そこから坂がさらに急になっていたせいか、怖かったせいか、それとも怒りに震えていたせいかははわからない。

わけの分からない気持ちをガードレールに二、三発蹴りを入れることで発散した。そのとき坂の下の方にスーパーの袋を下げた中年の女の人が目を丸くして突っ立っているのに気が付いた。ぼくはお辞儀をするようなしないような動作をして、そのまま坂道を駆け上がった。だって恥ずかしかったから。ぼくがアヤシい人になってしまった瞬間だった。

ｔ）

わたしとアミは寄り添いながらそのビデオを見ている。部屋の明かりは落としてある。アミはエアコンも扇風機も嫌いなので、うちわで扇ぎながら。寄り添っているととても暑い。それでもアミの体温が心地よいと思うのはどういうことか。辛うじて熱帯夜ではないのかもしれない。でも窓を開けてもろくに風は入ってこない。ハンディカムをアミの足先に向けるとテレビの光に照らされて青白い。

「あたしって歌がヘタ。ビデオで見るとなおさら」

――うん、確かにヘタ。

「そんな、はっきり言わなくても」

アミの足の指が急に全部開く。

「あ、怒ってるわけじゃなくて。はっきり言ってもらってぜんぜんかまわないんだけど。でもね、あたしの中の別のあたしは、やっぱりそれで傷つくの。でもあなたを責めたりしようっていうようなことじゃないの、ぜんぜん」

――…………。

ｔ）

老人の住むマンションを辞したとき、すでに午後四時近かった。スイカを食べただけなので、すっかりお腹が空いていた。真弓は帰り際にもう一度トイレに籠もり、出てきたらさらにやつれていた。

空腹でしゃべるのも億劫で、そのままマンションの部屋に戻ると真弓も付いてきた。まだ帰らないつもりらしかった。

何か食べるかと聞くと、何もいらないという。何かを作るにはお腹が空きすぎていたので、冷凍庫の食パンをトーストして食べた。真弓は部屋の隅に猫みたいに丸くなっていた。そんなに顔色が悪いわけではなかったけど、肌ががさがさで調子悪そうだった。冷たいものばっかり食べるからだ、と説教しようかと一瞬思ったけど、ちょっと可哀想な気もしてやめた。

寒いというので毛布を持ってきてやると、それにくるまってじきに寝息を立て始めた。目を覚ましたら何か食べさせて駅まで送ってやることにしよう。

真弓のことはひとまず措いて、東京に出てくるときに買った地図帳を広げてこのまわりがどうなっているのかを眺めた。神社ならともかく、祠を探すにはちょっと雑すぎるようだ。今度はパソコンを立ち上げ、ウェブ上で地図をいろんな縮尺で見ることのできるサイトに接続した。

道はかなり細かいところまで出ているみたいだ。とりあえずこれをプリントアウトすれば調査のための地図として使えるだろう――。

いったいぼくは何をしようとしているんだろう。呪い？ばかばかしい。呪いで人を殺せるくらいならその方法を知りたいものだ。ぼくにだって殺したい奴のひとりや二人はいる。

祠がどうしたって？駅に行く途中に確実にひとつはあった。でもだからどうだというのだ？祠と呪いの関係？

試しに「祠」を検索してみる。「祠」という言葉を含むサイト名がたくさん出てきた。クリックしてみても関係ありそうな情報にはたどり着けそうもない。「祠」そのものについての検索結果もいくつかあった。どこかの町の祠めぐりだとか、そんな感じ。いくつか見ていて気が付いたのは、祠といってもいろんな形のものがあり、規模もいろいろだということ。ビルの屋上の祠なんてのもあった。そういうものは見付けるのが大変そうだ……なんだか知らないけど探す気になっているらしい。

がさごそいうので振り返ると、真弓が毛布の中から這い出てリビングを出て行こうとしていた。帰るの？と聞くと、トイレ、と答えた。もう出るものなんてないのじゃないか？　よっぽどひどくお腹を壊したようだ。でもほんとうにそうなんだろうか、食中毒なんていう可能性はないんだろうか。トイレから出てきたら今朝何を食べたのか聞いてみよう。

三十分経っても真弓は戻ってこなかった。倒れてるんじゃないかと心配になってトイレの前まで行って声を掛けると、「生きてる」と返事があった。

「あのさあ」と真弓。「パンツ貸して」

「パンツって下着のこと？それともズボンのこと？」

「両方。汚れちゃった」

「ぼくが履き古したやつでもよければ」

「別に気にしない」

でもぼくの方が履き古しのトランクスを貸すのは嫌だったので、こないだ買ってきた未使用品を貸すというかあげることにした。返してもらいたくはなかったので。ズボンの方は普段着の綿のパンツ。

「じゃあ、ここにおいとくから、汚れ物は洗濯機に放り込んどいて」

「承知」

少ししてから真弓はよろけながらリビングに戻ってきた。綿のパンツはサイズもちょうど良いみたいだった。

「トイレも少し汚れたけど、掃除する力がない。ごめん」

「いいよ、あとできれいにしとくから」

「この部屋寒い」

「そお？でもエアコン止めたら暑くていられないよ」

「じゃあ、少しだけ弱くして」

「それよりも、少しベッドで横になったら？」

「それもいいかもしれない」

真弓は毛布を引きずって寝室の方へ歩いていった。ほっとした。というのもエアコンはすでに真弓のためにと思って温度を高めに設定してあって、ぼくにはちょっと暑すぎたのだ。早速設定をいつもどおりに戻す。それから洗濯機のスイッチを入れ、トイレの掃除をした。夕食はどうするかと真弓に聞きに行くと、ベッドの上でだるそうに丸くなっていた。眠ってはいなかった。

「何もいらない」

「でも、少しくらい何か食べた方がいいよ。おかゆでも作ろうか？」

「いらない」

欲望には割と忠実な真弓だから、たぶん本当に食欲がないのだろう。というわけで、ひとり分だけご飯を炊いて、あり合わせのおかずで食事をする。なんだか億劫だったので。

食事中に洗濯が終わったので、とりあえず脱衣場に吊した。下着はともかく、スラックスは乾かないような気がした。

食事が終わってお茶を飲んでいると、ふらふらしながら真弓が起きてきた。ソファの上のバッグから携帯を取り出すと電話を掛けた。

「……もしもし。……お腹壊しちゃって。ひどい下痢で。……うるさい。……わかってるよ。……心配しなくていいよ、中原んとこに泊まるから。……わかってるって。じゃあ」

「ちょっと待った！うちに泊めてやるなんて言った覚えはないぞ」

「でも、今晩うちに帰っても誰もいないから。お母さんもここに泊まるって言ったら安心してたし。迷惑掛けるなって言われたけど。それに、こんなにふらふらしてたら帰れないよ」

「あのなあ……」

「こないだは泊めてくれたでしょ？」

「だってあのときは田中や岡崎も一緒だったじゃないか」

「どうして田中や岡崎がいないとだめなの。病人を追い出そうっていうの」

「たぶん病気じゃないよ」

「泊めて。帰れそうにないから」

「タクシーで送ってやるよ」

「車は酔うからやだ」

たぶんこれ以上何を言っても、真弓は帰らないだろう。そういえば前にもこんなことがあった。とにかくぼくの負けだ。

「……わかったよ。でもこのことは田中や岡崎には言うなよ。いや、ほかの誰にも言うなよ？」

「お母さんにはもう言っちゃったけど」

「じゃあ、それ以上誰にも言うな」

「なぜ？」

「なぜでも。でないとぼくが困るから。お母さんはぼくに迷惑を掛けないようにって言ったんだろ？」

「言ってた」

「だろ？」

「わかった」

そう言うと真弓はリビングを出ていき、すぐに毛布を引きずって戻ってくると、ソファの上で丸くなり毛布にくるまった。ほんとはそうやって一晩過ごしてもらう積もりだったんだけど、いざそうされてみるとなんだかかわいそうになってしまった。ぼくの悪い癖というか、真弓の訴求力というか。でも真弓にしてみれば、前ここに泊まったときのことを思い出して、それと同じことをしようとしているだけのことかもしれないのだけど。で、結局、真弓は体の調子がよくないんだから、寝室で寝るようにと言ってしまった。だめなやつだと自分でも思うけど、仕方がない。道ばたの段ボール箱の中で泣いている子猫を無視して通り過ぎることができないというのと、共通した何かがあるかもしれない。でも真弓は身勝手なところ以外はあんまり猫と似ているようには思えなかった。それ以前に、猫を飼ったことがないので身勝手なのかどうかも本当は知らないのだけど。

さて、ぼくはどこに寝るか。普段は使っていない空き部屋が一部屋あって、そこは両親が上京してきたときに泊まれるようにと確保してあるのだけど、実際には両親がここに泊まったことは一度もないので、荷物置き場になっていた。でも荷物自体がそんなにあるわけじゃないので、ほぼ完全な空き部屋になっていた。そこに布団を敷いて寝ればいいのだけど、こう暑くてはそうも行かない。その部屋にはエアコンがないのだ。東京の夏は暑いと聞いていて、確かに暑いしべたべたして不健康な感じもするのだけど、それでも昼間は耐えられないわけじゃなかった。しかし、夜はそうも行かない。エアコンなしで眠るなんてとうてい不可能だった。寒いかなと思ってエアコンを切って寝たら、暑くて目が覚めた。窓を開けても生ぬるい風が入ってくるだけ。それに、聞くところによると地上五階でも窓を開けたまま寝るのは防犯上好ましくないということだし。

仕方ないのでさっきまで真弓が丸くなっていたソファで寝ることにした。そのソファは一応ベッドの代わりになるようなものだったので。

以前真弓のほかに岡崎や田中が泊まっていったときは、岡崎と田中が空き部屋に、真弓がソファに寝ることになったのだった。空き部屋は三人が横になれないほど狭いわけではなかったのだけど。その辺の事情はぼくにはよくわからない。誰も教えてくれなかったし。ケンカでもしたのかとも思ったけど、別にそんなふうには見えなかった。朝リビングに行くと、真弓はソファで嬉しそうな顔をして眠っていた。

　翌日九時過ぎに真弓は起きてきた。顔色もそんなに悪くなかった。何か食べるかと聞くと、何でも、ということだった。でも真に受けるとどんなことになるかわからなかったので、とりあえずお粥を作って出した。梅干しをつけて。

「胃が悪いわけじゃないから普通のご飯でいいのに」

「悪いけど、ぼくは朝パンを食べるので」

「じゃあ、パンでもよかったのに」

「でもまあ、昨日あれほどひどい下痢をしていたじゃない？」

夕べこっそり作って冷ましておいた麦茶はかなり量が減っていた。眠っていたのでわからないけど、夜中に飲みに来たに違いない。体が水分を要求していたはずだから。

「で、今日は医者に行った方がいいよ、念のため。家まで送ってくから」

「医者には行かない。でも帰る。夕方になったら」

「午前中に帰った方がいいんじゃないの？」

「体力消耗してるから無理」

巣から落ちたひな鳥みたいになんだか全身がぼさぼさの感じ。Ｔシャツはしわくちゃだし、貸したパンツもしわくちゃ。髪の毛はなんかめちゃくちゃ。パジャマか何か貸してやればよかったかもしれない。

昨日のお腹壊す前の食べっぷりが嘘みたいにのろのろ食べている。小振りのお茶碗一杯のお粥を食べるのに三十分近く掛かっていた。食べ終わると、「パンツもう一枚貸して」と言った。

「また汚したの？」

「汚れたような気がする。でももう大丈夫だと思う。下痢は終わったような気がする」

「夕べ洗濯したのがもう乾いてるから、自分のを履きなさい」

「うん」

「汚れ物は洗濯機に放り込んでおくように」

「うん」

「はい、これが洗濯して乾いた衣類」

「うん」

「でもそれに着替えないで、別なのを着てなさい。もうお腹が落ち着いたってわかったら、シャワーを浴びてから帰った方がいいかもしれないから」

「そうかな」

「そうだよ。なんかにおうよ」

「ウンコくさいってこと？」

「そうじゃなくて、汗くさいってこと」

「ああ」

「洗濯した衣類は、帰るときに着ていきなさい」

「うん。洗ってくれるなら、このシャツも洗って。あと、これも」

「こらこら！　ここで脱ぐんじゃない！」

「えー。めんどくさい」

「めんどくさいじゃありません。汚れ物は洗濯機に入れときなさいね」

「汚れたパンツと一緒に？」

「……別に洗ってあげるから、パンツは洗濯機の中に、ほかのものは籠の中に入れときなさい」

「うん」

「こら！　寝室で着替えなさいっていったでしょ！」

「だってめんどくさい」

「人前で着替えるのは無礼なことなんですよ」

「だって中原しかいないじゃん」

「……ぼくは人じゃないんですか？」

「人だけど人前じゃないよ」

「いいから寝室へ行って着替えなさい！」

「はーい」

……疲れる。