酒の素晴らしいところ。脳をどうにかしてしまうところ。
夜中に目が覚める。体調が悪いときによくそうなる。そのまま死んでしまえばよいのに。
知らなかった部屋の存在。
ＳＳＲＩの素晴らしいところ。脳をどうにかしてしまうところ。
そして、夜中に包丁を研いで頸動脈に当ててひんやりとした感触を楽しむという悪癖を絶ってくれたこと。
ちなみにわたしはリストカットは嫌いだ。わたしの美学に反する。どうせなら、漱石の『心』のＫのように逝ってしまいたい。
ＳＳＲＩの素晴らしくもあり素晴らしくもないところ。性欲をほとんど消し去ってしまうところ（自分が淫乱だと思う人は処方して貰うとちょうどいいかもしれない。これは抗鬱剤全般に言える）。
去年の夏、友人のカオルと関西に行った。半分は仕事、半分は遊び。カオルは全部遊び。で、梅田の近くに空中庭園というのがあるというので行ってみようということになった。二つの高いビルのてっぺんのところを繋いでその部分を展望台にしたもので、その高さで露台になっているというのが売りらしかった。
料金を払ってエレベーターでビルの最上部まで昇っていき、そこからガラスの筒みたいなエスカレーターで展望台に昇る。高所恐怖症ならそのエスカレーターだけでもだめなのかもしれない。でも足元が透けて見えるというわけではないのでわたしにとってはスリリングな要素は特になかった。ちょっとだけがっかりした。別にスリルを求めていたわけではないのだけど。でもそんなことはどうでもよくて、高いところに上れればそれでよかったのだ。
エスカレーターのたどり着いた先が展望台ということなのだが、そこにはまだ壁も天井もある。つまり建物の中だ。ほんとうの展望台までの数フロアはカフェテリアや土産物屋、イベントスペースなどで占められている。もちろん展望できる窓もあって、遠くまで見通すことができる。川の方を向いた窓のあたりには大勢の人が座り込みをしていた。その日花火大会があるとかで、まだ日の高いうちから場所取りをしているというのだ。
いよいよ展望台に昇ってみると、日差しが強かった。肌がじりじりする。高いところから見ると、海まで見渡せたし、反対側の山も見えた。もちろん街もよく見えた。先ほどすぐ近くを通ってきたときには巨大に思えた建物が小さく見えた。それこそおもちゃみたいに。
よく晴れていて、夕立の気配も見えなかった。展望台そのものは環状の歩廊のようになっていて、ところどころに係員が立っていた。自殺対策なのだろうとカオルと話した。そうとしか思えない重装備が至るところにあった。歩廊の柵を跳び越えるとかなりの落差で屋上みたいなところに落下する。そしてその外側には棘のたくさんある高い柵がある、という具合で、衝動的にそこから地上にまで落下しようとする試みはまず成功しないように思えた。
歩廊の下の屋上みたいなところにはなぜか水たまりがあった。その日は朝から一滴も雨は降らなかったし日差しは強いし気温も高かったので不思議に思えた。でも謎はすぐに解けた。ときどき音楽が鳴り出して「屋上」に設置されたパイプから霧が出てくるのだ。かなりの量の霧で、景色が霞むほどだ。その意図はよくわからなかった。カオルといろいろ考えて出した結論は、噴霧した水分が蒸発し、そのとき気化熱を奪って展望台の気温が上がりすぎないようにしている、というものだった。でも本当のところは係員などに尋ねたわけでもないのでわからない。ほかの季節に来てみたら、たとえば冬だったらどういうものだろう？ 帽子マフラー手袋コートブーツの重装備で冬に来てみるのは？ 寒いから嫌かもしれない、とかなんとか。
そしてそこにいたあいだ、わたしたち、というかわたしは、はある人物に監視されていたのだ。でもそのことをわたし知ったのは、ひと月も後のことだった。
映画監督。なぜかリンチ、という名前。「ツインピークス」の監督とは関わりはない。日本に来て日本が好きになり、日本で映画を撮った。それが○○。窓の外に見えるポストモダンな建物。デパート。自然界には直線がない、というありふれた直感に導かれ作られた奇怪な建造物。リンチ監督はその建物をみて日本は素晴らしいと思い、私でも知っているあの映画を撮ったというわけだ。リンチ監督と接触することになる。デパートの北側には団地が広がっているのだけど、大半の建物が取り壊されてしまっている。クリーム色の壁の古びた建物が歯の欠けた櫛のように残っているけど、そこに住んでいる人がいなくなればそれらも取り壊されてしまう。リンチ監督は古びて残っている建物もそれを取り壊す力も、どちらも愛している。監督と接触する場所はよくわからないけど船のような不思議な建造物の中。監督はいない。そもそも監督と最初にあったのは電車の中、美しい女の人たちに取り囲まれて窓の外のデパートをみて、日本は素晴らしい、と日本語で言ったという現場に居合わせたからだ。
しかし監督に接触しようと思ったのはそれとはまったく別な事情による。行方がわからなくなっている妹の居場所を監督が知っている、という情報を手に入れたからだ。電車で見かけたときはまだ知らなかった。接触場所の薄暗い建物に行くと、美しい女の人が出てきた。監督の周囲には美しい女の人しかいないようだった。監督は不在。妹のことは知っているけど心配しなくていい。監督の新しい映画に出演してもらうことになっている、ということだった。あなたも妹さんに似て美しい人だ、と美しい女の人が言った。あなたも映画に出なさい。私は承知した。翌日その場所に出向いてみると監督がいた。監督は君も一緒に来なさい、と撮影現場に私を誘った。撮影現場に出向くと妹が木の柱に縛り付けられていた。もう、君には用はない、と監督は私の額にナイフで幾筋かの溝を刻んだ。もう帰って構わない、というのだった。でももちろん帰ったりはしなかった。監督は妹に近寄るとナイフで首に繊細な花模様を描き、その皮膚をナイフの先で持ち上げ、美しいバラの花模様を作るのだった。それが首のまわりを一周する頃バラの花は深紅の血に染まった。もちろんずっとカメラは回されている。
夏休みが始まって、間もなく梅雨も明け、三人の友達のうち二人が帰省してしまった。友達は三人だけ？ うん、そう。定義にもよるかもしれないけど。ぼくにとっての友達とは、一緒に食事をしても苦痛を感じない相手。そういう相手は、広いキャンパスの中で――実際にはそんなに広くはないけど、たとえというやつです――三人しかいないというわけ。少なくとも今のところは。しかも全部女。
東京に取り残されるぼくと真弓は――真弓というのは名前じゃなくて名字だ――なんとなく物珍しい気がして、故郷に帰る田中と岡崎を見送りに行った。田中は岩手県の北上市というところ、岡崎は愛知県岡崎市と言いたいところだけど、岐阜県の大垣というところだそうだ。最初に三人で田中を見送り、そのあと二人で岡崎を見送った。新幹線の窓から手を振る岡崎に二人で手を振り、でもすぐに新幹線はスピードを上げてしまい岡崎はあっという間に見えなくなってしまった。それでもぼくたちは新幹線のいちばん最後の車両がホームを出ていくまで手を振り続けた。
「帰ろうか」と真弓がいった。「そうだね、帰ろう」とぼくがいった。それから新宿で「じゃあ」「じゃあ」と言い合って別れるまで、ぼくたちはひと言も話さなかった。ぼくが窓の外をうすいカーテン越しに眺めているとき真弓は網棚の上の広告を眺めていた。四角い頭を丸くする。ぼくがその横顔をちらと見たとき、真弓の視線の先にそれがあった。
東京グローブ座が休館になった。足を運んだのは数回に過ぎないが、どの公演も忘れがたい。しかしそもそも舞台を見に行くことがまれなので、その数回の舞台が強烈な印象を与えるものでなかったとしても、覚えていることに不思議はない。
この一、二年はグローブ座だけでなく演劇全般から足が遠のいてしまっていた。いっしょに舞台を見に行っていた友人がイギリスに留学してしまったからで、もうしばらく帰ってくる気配はない。
グローブ座が休館するらしい、という噂を聞いたのはいつのことだったか。去年だったような気もする。去年は公私ともにいろいろあって、それが楽しいことであると分かっていても体が動かない、動かす気になれない、という状態だった。映画も、コンサートも、まるで行く気になれなくてとても損なことをしたと、今では思う。でも仕方がなかったのだ。その状態がつい最近まで続いていたので、グローブ座最後の公演『ヴェニスの商人』のチケットを取るには至らなかったのである。もちろん例の友人がいなかったということもあるだろう。
その、手をこまねいているうちに休館してしまったグローブ座の公演でいちばん強く印象に残っているのはロイヤル・シェークスピア・カンパニー公演の『マクベス』だった。あれは、素晴らしかった。公演開始後「演出上の都合で」たとえば途中で気分が悪くなって外に出たら最後、再び入場することは許されなかったか。なぜか。わたしたちは前方の舞台ではなく後方の出入り口の扉をどん、どん、どん、と強く叩く音でぎょっとして思わず振り返る、というような趣向が用意されていたからだ。
もちろんそれだけのことで素晴らしかったわけではない。あらゆる局面でとても感銘を受けた、という以上に何といったらいいのかよくわからない。わたしは演劇を適切に語る言葉を持たないのだ。
その『マクベス』以前に見た『ハムレット』も悪くなかった。いや、なかなかよかった。もし『マクベス』を見ていなかったらそれがいちばん素晴らしかった、ということになるだろう。
『ハムレット』で見たかったのは気が違ってしまったオフェーリアだ。もの悲しい旋律に乗せて悲しい歌を歌うオフェーリア。あの友人によれば、シェークスピア時代の舞台というのは歌舞伎のように演じるのはすべて男性であり、オフェーリアを演じたのは子供に違いなく、おそらくは天才的な子供の役者がいて、シェークスピアはそれを踏まえてオフェーリアに歌を歌わせた、というのだった。
しかしそのあとそれ以上に印象に残る場面に出くわした。どういう効果を狙ったのかは分からないがハムレットが入浴する場面があり、お湯は白く濁らせてあって体が見えてしまうということはなかったのだが、浴槽から立ち上がってタオルを羽織る瞬間、全裸であることが露呈し、ほんの一瞬すべてが見えた。観客サービス、と友人はいった。わたしは顔が赤くなったに違いない。
『マクベス』はその友人といっしょに見に行ったのではなかった。友人に誘われたのだが、ほかの人と見に行くのでと断った。誰と行くのかと聞かれたので、内緒、と交わした。友人もそれ以上聞かなかった。
しかし、もし舞台を見ることを何よりも優先するなら、その友人と見に行くべきだった。友人はかなりよい席を確保することができたから。そう、『マクベス』は最高の舞台だったが、席はそれほどよいものではなかった。
どうしてもシェークスピアをいっしょに見に行きたい相手がいて、それを優先した、ということだ。まあ、舞台を見ている間は観客同士であるわたしたちの間の意志の疎通というのはそれほど大きな問題ではないが、幕間、および終演後、いっしょに見に行った相手とどんな会話をするか、どんな行動を取るか、ということが重要なのだ。
いっしょに見に行った相手の名前はアミ。本名ではない。ハンドルネームだ。どうしてアミなのかは最後まで教えてくれなかったのでわからない。アミは「オフェーリアのように死にたい」と言ったことがあって、それならオフェーリアのアナグラムかとも思ったのだが、考えるまでもなくそうでなはなかった。。
わたしはアミのことをビデオに撮りまくっていた。アミは写真を撮られたりビデオを撮られたりしそうな顔をしていた。美しいから、というのとも少し違う。美しくないわけではなかったが。それまで一度も手にしたことのないビデオカメラを購入しアミを撮影することに何の抵抗もなかった。それが自然なことにさえ思えた。気が付いたらハンディカムでミナのことを撮影していた、というのが近いかもしれない。ものすごい速さでアミを撮影したテープが溜まっていった。
田中と岡崎がいなくなってから五日目の朝、真弓から電話がかかってきた。
「今日暇？」
「暇」
「じゃあ、午後一時に新宿駅南口改札前」
それに答える前に、電話が切れた。有無を言わせない。真弓に言わせれば用事が済んだから切っただけのこと、というのだろう。たぶん。
言われたとおりに午後一時ちょうどに新宿駅南口改札前に到着するけど、真弓の姿はない。いつものことだ。どういうわけだか真夏の平日の昼間だというのに人でごった返している。ぼくの故郷では真夏の平日の昼間にこんなにたくさんの人がいるなんてことはあり得ないの。目眩がする。人酔いする。
人のためではなく機械のために作られたとかいう異様な風体のビルを眺めていると、キングコングがよじ登り始めるような錯覚には襲われない。そのかわり、甲州街道のアスファルトの上、車の上、人の上にかげろうが立って、ゆらめいているような気がする。実際には夏にしてはすっきりと晴れすぎた青空の下に、必要以上に鮮明に見えている。必要十分な鮮明さとは？ そんなことよりもサングラスを持ってくるべきだった。夏の日差しは眩しすぎる。紫外線も強すぎる。おととい渋谷青山原宿と歩いたのだけど、日に焼けてしまった。日本一の大都会は紫外線都市でもあったのだ。住んでみて初めて知った。
かげろうでゆらめいているような錯覚を抱かせる南口の外の歩道を真弓が通り過ぎた。たぶんぼくに気が付いているのだけど、なぜか気が付かなかったように通り過ぎる。その理由を聞いたことがあったけど、本当に気が付かなかったのだとか、先の方に興味を惹かれるものがあったのでそれを確認してから戻ってこようと思ったとか、答えていたような気がする。真弓を目で追っていくと、そのまままっすぐ歩いて、乗車券の販売機のところから南口に入り、おざなりにあたりを見回してから、ぼくに合図をするでもなく、そっぽを向いたままぼくのところまで歩いてくると、「おはよう」と言った。もちろん、もうそんな時刻じゃないなんてことは言わない。オウム返しに「おはよう」というだけのこと。めんどくさいから。合わせていればめんどくさくないから。
呼び出したのは真弓だけど、当然のように「どこ行く？」とぼくに聴く。
「お昼は食べた？」と聞くと「朝食を取りたいんだけど」と来た。とりあえずルミネの中のよく行く店でぼくはお昼を、真弓は朝食を食べる。
真弓と二人だけというのは、たぶん五回目くらい。でもなんとなくパターンが読めてきたような気がする。初めてのときは面食らうけど、二回、三回と回を重ねると、ほとんど几帳面なほどに同じパターンの繰り返しなのだ。場所と時間は多少違っても、行き先とか歩き方はなんとなく似ている。
昼食と朝食をそれぞれ食べ終わり、お茶など飲みながらしばしまったりした後、ＡＢＣこと青山ブックセンターを襲撃、勢いに乗って炎天下の甲州街道を横切り、高島屋の向こう側の紀伊国屋も攻める。ぼくも真弓もそれぞれで戦利品を手に入れたが（もちろん対価を支払って）、中身は内緒だ。
そうする頃にはだるい夕方がやってくる。高島屋の屋上に行くと、信じられないほど暑かった。太陽はまだしばらく沈みそうになかった。たぶん五分か十分くらい夕方の東京を眺めてから、エアコンの効いた建物の中に避難。
そろそろ帰る」と真弓がいったので、帰ることにする。南口に戻って手を振って別れた。
それは独逸人観光客の性交のようだった。
グローブ座を出るとすぐに、預けていたバッグからハンディカムを取り出す。ハンディカムを向けてもアミはどんな反応も示さない。カメラを向けても向けなくても何も変わらない。
――『マクベス』どうだった？
「よかったよぉ。誘ってくれてありがとう！」
本当に嬉しそうな顔をするアミ。
――本当に素晴らしかったね。『ハムレット』もアミといっしょに来たかったな。
「あたしも見たかった！どうして誘ってくれなかったの？」
――だって、その頃はまだアミと知り合っていなかったから。ちょうど一年くらい前だったかな。
「ああ、悔しい！あたし、オフェーリアの大ファンなんだから」
――見に来ればよかったのに。
「やなやつ。ひとりじゃ見に来れないって知ってるくせに」
――知らないよ。そうなの？どうして？
「だって、帰りがものすごく寂しいから？帰りはどこかで誰かと飲みたいじゃない？」
――ひとりで飲むのは？ ひとりで気後れなく入れる店だってあるでしょ？
「あたしはひとりで飲むなんてやだ。死にたくなるから」
――おおげさだね。
「まあね……信号赤だよ」
アミがわたしの左手を握る。わたしはびっくりして立ち止まる。いくつかの視線がわたしたちに向けられる。（あの二人、レズだよね）という声がどこからか聞こえてきた。
「気を付けてね、わたしの可愛い人」
――それはむしろわたしの台詞だと思うのだけど。
「でも言いたいんだもん、あたしが」
アミの髪がふわりと動く。夜風。信号が青になったのでアミも周囲の人たちも歩き出す。わたしも歩き出す。歩きながらアミが言う。
「ねえねえねえ、オフェーリアの歌って素敵だよね」
――聞いたことがあるの？
「うぅん、ないけど。でもね、歌えるの。
To-morrow is Saint Valentine's day,
All in the morning betime,
And I a maid at your window,
To be your Valentine.
Then up he rose, and donn'd his clothes,
And dupp'd the chamber-door;
Let in the maid, that out a maid
Never departed more. 」
少しだけあたりに反響するほどの声で、アミは歌う。ときどきわたしの方を向きながら、でも大半は横顔を見せて。去年舞台で見たのとは、たぶん別のメロディ。
「素敵でしょ？」
――うん、素敵！
微笑むアミ。
――ところでその歌はどこで覚えたの？
「覚えるも何も、でまかせ。メロディは。でもことばは調べて一生懸命覚えたからたぶんあってると思う。少しは違ってるかもしれないけど」
――ということは、即興でメロディを作ってるの？
「うん、そう。変？」
――そんなことないよ。素敵だと思う。
「ありがと。じゃあ、もっと歌うね」
店じまいしたラーメン屋の前に立ち止まるアミ。両手を広げてさっきと同じフレーズを、少し違ったメロディで歌う。いつの間にか人垣ができる。オフェーリアと化したアミを見ている。おそらくはわたしのことも。アミは同じフレーズを少しずつ違ったメロディで何度も何度も繰り返す。
「To-morrow is Saint Valentine's day,
All in the morning betime,
……」