（４）

私と領家先生・田山・蓮田の四人は事務室に来た。部屋に入るとすぐに、蓮田はドライバーを持って壁際に行き、何かごそごそはじめた。

「電話を使えるようにしてるのよ」

と田山が説明した。蓮田はやがてこちらに戻ってくると、私の目の前に置いてあった真っ黒な電話機を指差した。

「もう使えるよ」

そう言って田山に受話器を手渡した。

「サンキュー。さすがはたっくんだね」

蓮田はすぐに道具を片付けはじめた。田山は鼻歌まじりで一七七を回し、

「よかったね。明日も晴れるってさ」

そう言って受話器を置いた。

「それじゃあ学校との駆け引きは領家先生と飛騨先生にお任せします」

「俺は駆け引きなんかしないぞ。ただ職務を全うするだけだ」

「はいはい。あ、それからこの電話の番号はこれ」

田山は電話番号を記した紙片を領家先生に渡した。

「もともとの学校の番号とは違うから気を付けてね」

領家先生は教職員名簿のページを開き、ダイヤルを回した。

「もしもし、教頭ですか。領家です。休みの日にどうも済みません。今学校から掛けているんですが、ちょっと厄介なことが起こりまして」

領家先生は忘れ物を取りに来たこと、そのあと生徒が校舎を占拠し崖を崩したことを報告した。それが終わると横領事件について話しはじめた。

「生徒達の主張によりますと、日高さんが学校の金を横領しているというんです。もしもし、教頭、聞いてますか？それで、生徒達はその事実を知って、たいそう怒っているようです。自分達の払った授業料が自分達のために使われずに、一人の人間のものになっているらしいというということに。それで、本当にそういう事実があるのかどうか調べてみてくれませんか、いますぐに。それで何か分かったら連絡してください。あ、それから連絡をくださるときはこの番号にかけてください」

電話を切ると領家先生はどっかりと腰をおろした。

「まあなるようになるだろ」

田山と蓮田を交互に見ながら言った。

そろそろ日も暮れようという頃にようやく電話が鳴った。二回半のコールで領家先生が取った。

「はい。ええ、そうです」「ええ、もちろん説得は続けています」「しかし校長、表沙汰になると厄介ですよ」

掛けて来たのは校長らしい。領家先生はさっきと同じことを説明した。説明し終わると、領家先生はちらっと私のほうを見た。

「実は彼らはある条件を提示してきています。その条件を呑めば、一切何も公表しないというんです。いいですか、笑わないで聞いてください。まず、卒業式に万国旗を飾ること。ええ、あれのことでしょう。次に、紅白の幕の代わりに白黒の幕を飾ること。ええおそらく葬式に使う幕のことでしょう。それともうひとつ、いいですか、校長、怒らないでくださいよ。卒業式に校長がハート型の眼鏡を掛けてくること。・・・私に怒鳴らないでください。私が考えたんじゃないんですから」

少しの間、領家先生は「はい」とか「はあ」とかいって相手のいうことを聞いていたが突然怒り出した。

「どうして私が生徒の肩を持たなきゃならないんですか。本当は帰りたいけれど、崖が崩れてるからどうにもならないんじゃないですか。あんまり疑うと生徒に勝手にしろって言っちゃいますよ。それでどうなっても知りませんからね」

少ししてから領家先生は受話器を私に差し出した。

「飛騨先生ですか。屋久島です。今領家先生ともいろいろ話したんだが、事件の解決にはもう暫くかかりそうです。大変でしょうが、領家先生と一緒に生徒の説得に力を注いでもらえませんか。こちらでも最善を尽くしますのでどうぞよろしくお願いします。それから、学校を占拠しているとはいえ、親御さんから預かった大事な生徒達ですから、大事のないようくれぐれもよろしくお願いします」

校長はそれだけいうと電話を切った。

「どうやらお前達の言ってることは本当らしいな。そうでなけりゃとっくに事態は収拾に向かっているはずだ」

田山は得意そうな顔をした。

私と領家先生はいつ電話が掛かってきてもいいように事務室で寝ることにした。事務室には低めのテーブル、三人掛けのソファ、一人掛けのソファ二つ、があった。このうちベッドの代わりになりそうなのは三人掛けのソファだけで、テーブルは小さすぎるし一人掛けのソファでは横になれない。しかしテーブルと椅子の座面の高さがほぼ同じなので、一人掛けのソファでテーブルを挟みこむように配置すれば横になれないこともない。

「このテーブルは弱そうだもんな。俺みたいな図体のやつがこの上で寝返りでも打ったらぶっこわれるかも知れんな。どう見てもあんたのほうが軽そうだもんな。テーブルの上に寝るのはあんただな」

領家先生はそう言うとさっさと三人掛けソファに横になって、明かりがついているのにも構わずにあっという間に眠ってしまった。

マットも布団も何も敷かないテーブルの上に寝るのは苦痛だった。頭と足の先はソファに深々と沈んでしまう。すると背中や腿がテーブルの角に当たってとても痛い。しかも頭に血が上る。とうとう横になることをあきらめて、ソファのひとつに座ったまま寝ることにした。

暖房は、田山達とも相談して、一晩中切らないことにしておいた。安全面では多少問題があるかもしれないが、そうでもしなければ寒くて眠るどころではない。

夜中に喉が渇いて目が覚めた。やっぱり電気暖房は体に合わないな、と思いながら給湯室に水を飲みに行った。窓の外は月夜だ。水を飲むだけなら月明かりでじゅうぶんだ。電気をつけるまでもない。電気をつけたからといって誰にも迷惑は掛からないが、水を汲んだ茶碗に月を映して飲むのも悪くないと思ったのだ。

水を飲んでいると誰かが校舎の影から月夜の校庭にさまよい出てきた。田山だった。私は後を追って校庭に出た。

田山は立ち止まって月を見上げていた。

「どうかしたのか」

田山は月を見つめたまま答えた。

「月に誘われてね。これって下弦の月だよね」

「ああ」

「先生こそこんな夜中にどうしたの？」

「喉が乾いたから給湯室で水を飲んでいたんだ。そうしたらお前が校庭に出てきたから」

田山はこちらに向き直って言った。

「ねえ先生、夜って好き？」

「あんまり好きじゃない」

「私も」

田山はくるりと向きを変えて校庭の中心に向かって歩き始めた。私もあとを付いていった。

「他のみんなは寝てるのか？」

「うん。私と咲子と吉田さんは三年Ｃ組で、男の子達は音楽室で」

「そうか」

「先生、修学旅行って好き？」

「ああ」

「私嫌い」

「どうして？」

「夜になるとみんな気がふれるから。修学旅行に行ったりすると、嫌でもそれを見なきゃならないでしょ」

田山は急に立ち止まると、また月を眺めた。

「人間っていうのは、昼のあいだはまともでも、夜になるとねえ」

私は先程から気になっていたことをたずねた。

「靴はどうした？」

田山は靴は愚か靴下さえ履いていなかったのだ。今私の目の前に立って月を眺めている田山花子は、あるいは気がふれているのかもしれない。

「あ、どこに置いてきたんだろう」

田山は今気がついたという風に、あるいはそんなことはどうでもいいとでもいうように月を見上げたまま答えた。私は運動靴を脱いで言った。

「あんまりきれいじゃないけど、これを履いてろ」

田山は怪訝そうに私のほうを見た。

「足、冷たくなるよ」

「いいから」

田山は一瞬ためらってから靴をはいた。ぶかぶかだった。

「あったかーい。せんせい、ありがとう」

そう言ってしばらく足元を見つめていたが、また月を眺めた。

少し間を置いて、独り言のようにこんなことを言った。

「先生、夜に騙されちゃだめだよ。夜は人を惑わす力を持ってるんだ。特にこんな月夜は。夜更かししてると妙にハイになることがあるでしょ。たとえばあれがそうなんだよ。夜のあいだに考え付いたことなんて所詮ろくなもんじゃないよ。みんなクズだよ。太陽の光のもとで眺めれば明白だよ」

「しかし、夜のあいだに考えたことのほうが真理かもしれないぞ。見てくれはどうであれ」

「真理！真理なんてブタにくれてやる。見てくれの悪いものは中身だって知れたものさ。夜の間に考えたことなんてどうしようもなく腐りきったものに決まってるよ。夜なんかくそ食らえ」

私は何も言うことがなかった。田山はさらに付け加えた。

「私分かってたんだ。何もかも分かってたんだ」

月の光で顔が青白く染まっていた。

それから田山は急に私のほうを向いてにっこりした。ああ、これがいつもの田山の顔だ、と思った。この顔に比べると、いまさっきまでの顔は何かに憑かれてでもいたかのようだ。

「今晩のことは忘れてね。夜っていうのは油断ならないね。特に月夜の晩は」

そう言うとくしゃみをした。

「ああ寒い。そろそろ部屋に戻るわ」

「部屋まで送ってってやろうか」

「やめてよ」

そう言って靴を脱いで返してよこした。

「先生、靴ありがとう。それじゃあおやすみなさい」

靴には田山のぬくもりが残っていた。