ちょうど領家先生が朝食を食べに行っているときに教頭から電話が掛かってきた。
「おはようございます。領家先生はそこにいますか？」
「いいえ。朝食を食べに行ってますから」
「そうですか。それではこれから言うことを後で領家先生にも伝えてください。まず、今日は登校路の崖崩れのために臨時休校ということにしました。夕べのうちに教職員と生徒に電話連絡しました。今日はもともと授業のない日ですから、特に混乱もないでしょう。
次に、日高理事が不正を働いていたという件についてですが、こちらで調査したところ、そのような事実はやはりありませんでした。おそらく生徒の誤解だと思います。しかし、いくら誤解とはいっても学校を恐喝するなんていうことが許される道理はありません。生徒には厳しい態度で臨むべきでしょう。
しかし、生徒が学校を恐喝したなどということがマスコミにでも漏れたらどういうことになるでしょうか。新聞や雑誌は、あることないこと書き立てるに違いありません。そうなれば学校の名誉に傷がつきます。
日高理事は『少しも身に覚えのあることではないが、身の潔白にこだわるあまり学校に混乱を招いてはならない。ここはひとつ校長に骨を折って貰うしかあるまい』とおっしゃって、あえて生徒の要求を飲むことを決心されました。そこで相談なんですが、校長は万国旗についてはやむを得ないとされましたが、後の二つについては父母の手前もあって到底受け入れるわけにはいかないと申しています。申し訳ありませんが、そのように生徒を説得してもらえませんか」
私は領家先生と相談してからまた連絡するといって電話を切った。
まもなく領家先生が田山と一緒に戻ってきた。私はさっきの電話の内容を二人に話した。
「そう言う事実はないっていうのはきっと嘘だね。それで校長先生をいけにえにすることに決めたんだ」
田山はそう決め付けた。領家先生は少し考えてから田山に聞いた。
「どうする？このへんで手を打つか？」
「みんなと相談してくる」
しばらくしてから田山は原田を連れて戻ってきた。
「ねえ領家先生、去年から卒業式実行委員会ができたでしょう。あれをうまく使えないかな」
「あれは形だけのもので、結局は学校側の言うことをはいはいと聞くだけのものだぞ」
「だからそれを実のあるものにするのよ。それでこういう企画を出すの。全員に卒業証書を授与し終わったところで校長先生がハート型のサングラスに掛け変えてくすだまを割る。すると中から万国旗が飛び出す・・・とか」
「白黒の幕はどうする？」
「そっちはやめようかって。そのほうがこちらも譲歩してるって感じだしね」
「白黒の幕ってやはり趣味が悪いと思うよ」
原田が付け足した。ハート型の眼鏡はいつのまにかハート型のサングラスにグレードアップしていた。
話しがそう決まったので、領家先生が電話で掛け合った。もちろん教頭の一存でそんな大切なことを決められる分けもなく、結局午前中いっぱい電話によるやり取りが続いた。その結果、学校側が万国旗と校長のサングラスの受け入れ、そして卒業式実行委員会を今年も設置することで合意に達した。そのかわり、生徒側は日高理事および学校の名誉を損なうと思われる一切の書類を卒業式当日に学校側に引き渡すことになった。もしこれらの約束が守られなければどうなるか、については一切話し合われなかった。
午後には道路の復旧工事も行われ、日の暮れる頃には車も通れるようになった。六人の生徒はいかにもスキー帰りという服装に着替え、私と領家先生で学校から少し離れたターミナル駅まで送っていくことになった。最寄り駅だと人目に付くかもしれないと考えたからだ。私は吉田・蓮田・沼田の三人を送っていくことになった。
領家先生とは駅に向かう途中ではぐれてしまった。駅に着いたときにはすっかり暗くなっていた。
三人を降ろすとき、助手席に乗っていた吉田が「握手」と言って私の手を握って降りて行った。手には一片の紙片が残された。「話しがあるからここで待っていてください」とあった。
五分ほどして吉田が戻ってきた。
「あとの二人は？」
「先に帰りました。乗る電車が違うから、改札のところで別れたんです」
車を発進させると、吉田は慌ててシートベルトを締めた。
クリスマスも近いためか、駅の周りの商店街は月曜とは思えないほどの賑わいをみせていた。駅前の広場には大きなクリスマスツリーが飾られていた。
「夕べ校庭で田山ちゃんと何話してたんですか」
「見てたのか。たいしたことを話してたわけじゃない。月がきれいだとか、修学旅行がどうのとか」
「私のこと何か言ってませんでしたか」
「いや、別に」
「本当ですか？」
「本当だ」
「嘘じゃありませんね」
「嘘じゃない」
「それならいいんです。どうもお手間を取らせました」
「話しってそれだけか？」
「ええ」
「田山と何かあったのか？」
「いいえ何も」
「そうか、それならいい」
釈然としないものが残ったが、吉田を駅前で降ろしてやった。吉田が立ち去ろうとしたとき、私は重要な事を思い出した。
「ちょっと待った！」
吉田は驚いて振り返った。
「少しばかり金を貸してくれないか？財布にあと百三十円しか残ってないんだ。これじゃあ夕食も食べられない。明日必ず返すから」
吉田は笑いをこらえながら五千円貸してくれた。私は深々と頭を下げて受け取った。
「どうもありがとう。この恩は一生忘れないよ」
「困ったときはお互い様ですから」
吉田は人の波の中に消えていった。
帰り道、吉田から借りたお金で鶏の空揚げ弁当を買った。高いものを食べるのはなんとなく気がひけた。
空揚げ弁当は梨田の料理とは比較にもならなかった。そういえば今日のお昼はキドニーパイだったが、キドニーなんてどこで手に入れたのだろう？すると電話が鳴った。日高先生だった。
「こんばんは。夕べはどこに行ってたんですか？」
怒ったような口調だった。しかしあの件については他言無用だから正直に答えるわけにもいかない。
「ちょっと友達のところに」
「友達って女の人？」
「んなわけないでしょう。男ですよ。しばらくぶりに会って飲んでるうちに遅くなっちゃったから、そいつんとこに泊まったんですよ」
「そうなの。ところで私先生に謝んなきゃならないことがあるの。おととい社会科室に財布を落としていったの気付かなかったでしょう。私先生に返そうと思ったまま忘れてたんです。明日お返ししますね」
「そうだったんですか！助かりました。一時はどうなることかと思いました。あんまり困ってさっき生徒にお金借りちゃったくらいですから」
「生徒に？」
「ええ・・・たまたま家の近くで会ったもので」
「私に電話してくれれば財布返してあげられたのに」
「電話番号が分からなかったものだから。名簿は学校に置いてあったんですよ」
「でも先生、お金なら生徒より友達から貸してもらえばよかったのに」
「ああそれもそうですね」
「・・・何か隠してない？」
「そんなことありませんよ」
「本当？」
「ええ本当です」
「まあいいや。今晩は勘弁してあげる。あっそれからクリスマス楽しみにしてるから。お休みなさい」
電話を切るとどっと疲れが出た。弁当もそれ以上食べる気がしなくなった。日高先生になんて釈明しよう。クリスマスはどうするか・・・。風呂にも入らなきゃ。もう何日入ってないんだっけ。そういえば採点は明日までだ！
私は疲れ果てていた。何もかもどうでもよくなってきた。明日のことは明日考えよう。明日になればどうにかなるだろう。田山の言うように、夜のあいだに考えたことはろくなことじゃないかもしれないし。
そういえば今夜は月が出ているだろうか。窓を開けると冷たい空気がさあっと部屋の中に入りこんできた。夜空は一面雲に覆われていて、月がどの辺にあるのか手掛かりさえつかめなかった。窓を閉め、布団を敷いてすぐに寝てしまった。
どれほど時間が経っただろうか、まぶしくて目が覚めた。カーテンの隙間から青白い光が顔に差していた。
逢瀬はほんの一瞬だった。カーテンを開けたとき、月は雲の背後に隠れようとしていた。それを見て、まるで
めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな
という紫式部の歌のようだと思った。