（２）

領家先生は強行突破を主張した。私は危険だからと反対した。それにそろそろ昼だ。

「とりあえず食事にしましょう。食事をすればいい考えが浮かぶかも知れないじゃないですか。化学室には米も味噌もたくさんあるから、しばらく篭城しても大丈夫ですよ」

そう言うと領家先生も承知した。

学校に戻って車を降りると、いきなり始業合図のチャイムがなった。夕べ日高先生が止め忘れたのだろうか、と思って時計を見ると、十一時三十八分という中途半端な時間だった。私達は顔を見合わせた。

「もしかしたら校舎内に誰かいるんじゃないのか。俺はちょっと放送室を見てくる。あんたはその辺を見張っていてくれ」

先生はそう言うと校舎に向かって歩きはじめたが、校舎にたどり着く前にスピーカーから声が流れ出した。

「両先生ともようこそ」

領家先生は立ち止まってあたりを見回した。私も校舎を眺めまわした。すると再び声が流れた。

「本日午前十一時三十八分をもって、本校校舎は私達が占拠いたしました」

私達は再び顔を見合わせた。

「両先生の身柄は私達が拘束します」

「身柄を拘束だってさ」

領家先生は笑い出した。私も笑った。

「両先生とも、正面玄関においでください」

領家先生は車をロックしながら私にたずねた。

「あんた、あの声に聞き覚えないか」

「多分三年Ｃ組の田山だと思います」

「俺もそう思う」

「いったいどういうつもりなんでしょうね」

「さあな。玄関に行けば少しは分かるんじゃないか」

私と領家先生は連れ立って正面玄関へ向かった。

ドアの前には田山花子がひとりで立っていた。領家先生は田山に近づきながらどなった。

「おい。これはいったい何のまねだ。校舎を占拠しただと？身柄を拘束するだと？そんなことができるわけがないじゃないか」

「でも、もう、占拠しちゃったよ、校舎」

「じゃ俺達の身柄も拘束するってか？」

「うん。だって、すでに拘束されてるでしょう。ここから出ようと思っても出られなかったでしょ」

「じゃああの崖崩れはおまえがやったというのか」

「まあそんなところ」

「まったく、手の付けられない奴だな」

領家先生はポケットから煙草を出して一服した。

「崖が崩れた所も歩けば何とか通れるだろう」

「危ないからやめたほうがいいよ」

「でも仕方ないだろ。あそこ以外に道はないしな」

領家先生は煙草を足でもみ消した。

「あんた、こいつらのこと見張っててくれ。俺はふもとへ言って校長に連絡を取ってくる」

先生はそう言って駐車場のほうへ歩きだした。それを田山が慌てて止めた。

「ちょっと待って。電話なら通じるわよ」

「さっきは通じなかったぞ」

「電話は私達が使えないようにしただけ」

「もしかしたらそれは昨日の午後からかな」

私は聞いた。

「そうよ」

先生は引き返してきて田山に詰め寄った。

「いったいどういうつもりだ」

田山は後退りした。

「どういうつもりだと思う？」

「分からんから聞いてるんじゃないか」

「じゃあ当ててみて」

「ふざけるな」

「ふざけてるって分かる？」

「・・・からかってるのか？」

「うん」

領家先生は田山に背を向けると新しい煙草に火を着けた。

田山は不満げに言った。

「先生、どうして怒らないの？生徒に馬鹿にされたのに黙ってるつもり？いつもならとっくに怒り出してるでしょ」

「そうだったか？」

「そうだよ。よしそれなら悪口雑言の限りを尽くして怒らせて見せるわ。固太りのぶ男！」

「おい、今日はいったいどうしたというんだ。それでも悪口のつもりか？いつものお前らしくないぞ」

「それじゃあリクエストにお答えして・・・あれ？おっかしいな。考えれば考えるほど何も浮かばないよ。先生の馬鹿・・・間抜けだね」

「もういいよ」

領家先生はうんざりしていた。

「それより電話を使わせてくれ。さもなきゃ、あの崖が崩れたところを突破しなけりゃならんからな」

「それじゃ、私のこと殴ってくれる？そしたら電話使わせてあげる」

「おいお前本当にどうしたんだ？『殴ってくれる？』だって？」

「飛騨先生が見てるから殴ってくれないの？」

「誰も見てなくても殴ってやらない。だいたいどうしてお前のことを殴らなけりゃならないんだ。理由も何もないじゃないか」

「理由ならあるわよ。さっきからずっと先生のことを馬鹿にしてるでしょ」

「おまえ変だぞ。だいたい、体罰は法律に違反するっていつも言ってたじゃないか。やたらに殴るのは言葉を知らない野蛮人の証拠だともいってたっけな」

「でも何を言っても言わなくても殴ったでしょう。先生こそどうしたの？急に老けこんじゃったんじゃないの」

「おまえこそ殴られたいなんて何を考えているんだ」

「私、先生の鉄拳制裁なしでは生きていけない体になっちゃったの。殴られるのがすっかり快感になっちゃって。一日一度は殴られないと夜も眠れないの」

「よし分かった。そこまで言うならご希望どおりぶん殴ってさし上げよう。歯をしっかり食いしばれ」

領家先生が拳をつくると田山はぎゅっと目をつぶった。先生は右手をすーっと田山の頭の上まで移動し、そこにしばし留めた。そして拳をほどき、掌を頭の上に優しく載せた。

「悪いな。俺はもう誰も殴らない。夕べそう決めたんだ」

田山はしばらくあ然としていたが、突然怒り出した。

「ひどいわ、女に恥をかかせたわね」

そう言って領家先生の右手を払いのけた。

「妙な言い方をするな。それにちっとも殴られるのが嬉しそうには見えなかったぞ。ぶるぶる震えてたじゃないか」

「喜びに打ち震えてたのよ！そんなことも分からないの？」

「分かるわけないだろ」

「そうだよね・・・。やっぱり無理があり過ぎたよね」

田山は急に黙ってしまった。

私と領家先生はまたもや顔を見合わせた。田山は一頻り考え込んでいたが、玄関の横手の植え込みに二、三歩近寄り呼び掛けた。

「咲子、もう出てきていいよ。私達の負け」

植え込みの中にひょっこり立ち上がったのは田山と同じクラスの沼田だった。沼田は首からカメラをぶら下げていた。田山のところにやってくると何かたずねた。田山は沼田に力なく笑いかけてから私達の方に向き直った。

「ほんとはね」

田山は罰が悪そうに言った。

「領家先生を怒らせる。先生が私を殴る。そこを咲子が写真に撮る。それをネタに協力を迫る。そういう段取りだったのよ。ところが今日に限って先生を怒らせるようなせりふがぜんぜん思い浮かばない。先生もぜんぜん怒らないし、殴ろうとしない。そういえば、どうしてもう誰も殴らないって夕べ突然決めたの？」

「まあなんとなくな」

「ふーん。じゃあもう殴られることもないんだ。でももう卒業だからあんまり関係ないか」

「それよりも『協力を迫る』ってどういうことだ。何を企んでいたんだ？」

「後で話す」

「しかし俺がお前を殴っている写真を撮ろうなんて随分無茶なことを考えたものだな。だいたい俺がそんなでっち上げ写真に屈伏するとでも思ったのか？痛い目に会うだけ損じゃないか」

「でもね、先生、写真っていうのは雄弁だよ。教師が女子生徒を殴ってる写真っていうのはすごくインパクトがあると思うよ。普通は誰も女の子のことなんて殴らないのに」

「俺は男でも女でも平等に殴る主義だったんだ」

「でも女の子の親だったら、『こんな先生のいる学校に子供を預けられない』って思うんじゃないかな」

「なるほど。そうやって恐喝してやろうと考えてたわけか。この写真を公表されたくなくば、協力せよってところか。卑怯なやり口だな」

「だって弱者が強者に勝つためにはしかたのないことよ」

「お前達が弱者で俺が強者か。しかしな、もし脅しがうまくいっていたとしたら、その関係は逆転するんだぞ。俺が弱者でお前達が強者だ」

「わけの分からないこと言わないでよ。ところで男女無差別に殴ってて、もし殴られた女の子が子供のできない体にでもなったりしたらどう責任を取るつもりだったの」

「そんなに思いっきり殴ったことはないぞ」

「でも痛かったよ。私先生に殴られた後、いつも隠れて泣いてたもん」

「本当か？いつも平気な顔して悪態ついてたじゃないか」

「ところで」

私は話しに割って入った。

「仮に領家先生がそんな写真で脅されたって、私が証人になれば無実は立証されるだろ。領家先生ははめられたんですって。きっとお前達の言うことよりも私の言うことのほうをみんな信じるだろう」

「甘いよ先生」

田山は切り返した。

「たとえインチキ写真だって先生がばらしたところで、写真のインパクトは弱まらないよ。写っていることは取り合えず事実でしょ。それに」

田山はポケットから一枚の写真を取り出した。

「証人の口を塞ぐくらい造作もないことさ」

田山は私の肩に馴れ馴れしく手を回すと鼻先に写真を突きつけた。

「じゃーん。ね、よく写ってるでしょ。咲子って天才だよね」

「おっ、どんな写真だ？俺にも見せてくれ」

領家先生も興味をそそられたらしい。

「ちょっと待った！こっちに来ないでください」

「俺には見せられないような写真なのか？」

先生はにやりとした。

「まあいい。勘弁してやろう」

先生は今度は沼田にちょっかいを出しはじめた。

「お前写真部だったのか。俺の写真撮れよ。こんなにいい被写体滅多にいないぞ」

沼田は困っていた。

田山は顔を近づけて言った。

「先生もなかなかやるね。だめだよ、女の子泣かせちゃ。『ごめんね、僕が悪かった。もう泣かないで』なんちゃって」

その写真は机に突っ伏して寝ている日高先生を起こすところを撮られたものだった。確かに田山の言うとおり、泣いてる日高先生を慰めているようにもみえる。

「先生がブラインド閉めないから悪いんだよ。このあとご飯作って日高先生に食べさせたでしょ。甲斐甲斐しいこと。帰りも一緒だったよね。寄り道しないでまっすぐ帰った？」

「よけいなお世話だ」

「おっ怪しいな。ところで先生、日高先生のお父さんってどういう人か知ってる？」

「いや。知らない」

「この学校の理事なんだよ。ずいぶん幅を聞かせてる人みたいだよ。ところで日高先生っていくつか知ってる？」

「領家先生と同い年だろ」

「何だ、知ってるんだ。あの先生って年齢不詳だよね」

「そうだな」

「日高先生って何であの年で独身なんだと思う？」

「結婚する気がないからだろ」

「日高先生さあ、授業で飛騨先生のこと話してたよ」

「なんて言ってた？」

「変な人だって」

「・・・失礼な」

「そうそう、何で日高先生が独身かって言うと、お父さんが結婚させないからなんだって。言い寄る男は全て抹殺するって噂だよ」

「へえ、そいつはおっかないな」

「先生だって他人事じゃないでしょ。この写真日高先生のお父さんに見られたら困るんじゃないの？」

「別に」

「先生ってほんとに甘いね。じゃあいいこと教えてあげる。私達が一年のころ、阿武隈先生っていう数学の先生がいたのよ。ちょっといい男だったよ、先生と違って。その先生が、日高先生と付き合ってたらしいのよ。それが日高先生のお父さんにばれて、学校を馘になったんだって」

「そんなことで馘になったりするものか」

「でも阿武隈先生がもう学校にはいないっていうのも事実だよ」

「・・・・・・」

「でも」

田山はため息を付いた。

「今となってはこの写真も半分の値打ちしかないや」

それから、思いがけないことを打ち明けた。

「実を言うとね、最初は日高先生だけをねらってたのよ」

「どうして日高先生なんだ？理事の娘だからか？」

「だってあの先生ならいうこと聞かせるのも簡単そうでしょ」

「じゃあどうして私と領家先生になったんだ」

「先生がいつまで経っても帰らないから悪いんだよ。きのう日高先生日直だったから、最後に一人残るはずだったのよ。それで日高先生の車に細工して、帰れないようにしておいたの」

「それで困っているところを監禁するというわけか。しかし日高先生は昼過ぎには異常に気付いてたみたいだぞ」

「え、そうだったんだ。それで先生のところに転がり込んだのね」

「まあそんなところだ」

「じゃあその時点で既に計画は狂い始めてたわけだ。でも、もし帰っちゃってもまた戻ってくるように、採点してないテストを奪ってきたんだけどな。でもいつになってもやって来ない。その代わりに領家先生が来ちゃった」

「もしかしたら間違って領家先生のテストを持ってっちゃったんじゃないのか？領家先生は無くなった答案を探しに来たんだぞ」

「だって日高先生の席って窓際でしょ。確かにそこから持ち出したはずなんだけど」

「領家先生の席も窓際なんだ。日高先生の向い側」

「そうだったんだ！がーん。くそっ、原田のやつが間違えたんだ。あいつはどうも間抜けでいかん」

「原田も仲間にいるのか。昨日領家先生にしたたか殴られてたぞ。カンニングの咎で」

「ああだから鼻が腫れてるのか」

「もしかしたら経済学研究会のやつらが一枚噛んでるんじゃないのか」

「ピンポーン。大正解。しかし原田のせいで領家先生まで巻き込んじゃったよ。どうしよう」

田山は困り果てた。

「領家先生を陥れる計画は今日になってから考えたのか？」

「そうなのよ。まさか来るとは思ってなかったから。その一方で日高先生は来ないしね」

「私はどうなんだ？」

「先生はねえ、昨日の時点で作戦に組み込んだの。やっぱり日高先生だけじゃ心許ない気もしたからね。だってよく考えたら、あの先生じゃテストが見つからないくらいでわざわざ日曜日に学校に来そうもないじゃない。それに飛騨先生って弱そうだから、多分私達の腕力でも勝てるだろうと」

「それじゃあ財布を返してもらおうか」

「財布？何のこと？無くなったの？私知らないよ。私達が取ったのは採点してないテストだよ」

「え？テスト取られてたのか？ぜんぜん気付かなかった」

「そうか、日高先生のことで胸がいっぱいで気が付かなかったんだ」

「・・・ところでどうしておまえが殴られ役になったんだ。原田にでもやらせればよかったのに。あいつはどうせ殴られ慣れてるしな」

「だって私がリーダーだもの。人の嫌がる仕事を率先してやらなければ誰もついてこないわよ。それに、原田が殴られてもぜんぜんインパクトがないと思わない？当然って感じでさ」

「それもそうか。しかしまあ殴られなくてよかったじゃないか」

「あんまりよくない。だって、領家先生の弱みを握れなかったんだから。そうそう、日高先生の写真もあるんだけど見る？」

「人の弱みに付け込んだ写真なんだろう。やめとく」

「でもおもしろいよ。これなんかどう？」

机に突っ伏して半ば口を開いて眠っている写真だった。口元からはよだれが垂れていて、机の上に池を作っている。

「まったくこの人は。昨日とおんなじだ」

「昨日もこんな風に寝てたの？まるで牛だね」

田山は写真をしまいながら言った。

「さて、これからどうしたものか。飛騨先生、協力してくれるよね」

「断る」

「写真ばらまくよ」

「ちょっと待て。とにかく話を聞こうじゃないか。領家先生、ちょっとこっちに来てください」

「なんだ？」

「とりあえず、田山達の話を聞きませんか。そうしないことには今後の対策の立てようもありません」

「それもそうだな」

領家先生は同意した。

「それじゃ音楽室に来てくれる？みんなそこにいるから」

私達は田山に付いていった。