朝、目が覚めるとすぐに牛乳が飲みたくなった。しかし牛乳は切らしてしまっていたので近くのコンビニへ買いにいくことにした。
その辺に丸めて置いてあったコートのポケットを探ったが、レシートが手に触れるばかりで財布の手応えはなかった。慌ててジャケットのポケットも、ズボンのポケットも、鞄の中も探したが、どこにもない。えらいことだ。中には数万円の現金とクレジットカードが二枚、それにキャッシュカード、テレホンカードなどが入っている。どこかに落としたのだろうか。昨日昼前に一度買い物に行ったから、そのときまでは確かにあった。その後は学校の中と車の中しか移動していないから、あるとすればそのどちらかのはずだ。
さっそく車の中を探してみたが、見つからない。そのかわり高速料金のおつりがいくらかあったので小銭入れに放りこんで牛乳を買いにいった。
牛乳を飲みながらもう一度考えてみる。もしかしたら学校に忘れてきたのではないか。あるいは日高先生が間違えて持っていってしまったか。どちらも十分に考えられる。買い物から帰った後は社会科室とトイレ以外はどこにも行かなかったから盗まれたとは考えにくい。しかもその頃学校には私と日高先生しかいなかった。
まず日高先生に電話を掛けようとしたが、電話番号はアドレス帳に書いてないし、教職員名簿は学校に置きっぱなしだ。とりあえず学校に行ってみたほうがいいかもしれない。牛乳と一緒に買ってきた明太子入りおにぎりで腹ごしらえをして出発だ。
川沿いの国道を右折して学校へ向かう。この道路は学校までの一本道だから休日は滅多に誰も通らない。対向車に気を使う必要がないので気が楽だ。
朝の山道はすがすがしくて、気分もすっかり落ち着いてきた。上り坂の行く手の、すっかり葉を落とした木の枝の向こうに青空が透けて見える。乾燥して澄み切った青空。アクセルをふんでそのままそこまで飛んでいきたくなった。
学校の少し手前に小規模な崖崩れがあった。拳大の石ころと土砂が崖下に堆積している。昨日の朝にはなかった。夕べも気付かなかった。反対側は断崖だから、ここが崩れたら通行は完全に遮断されてしまう。近いうちにコンクリートか何かで固めたほうがいいのではないか。
駐車場には日高先生の車の他にもう一台四駆が止まっていた。
なんとなく社会科準備室をのぞいてみると、領家先生がいた。あの四駆は先生のものらしい。日高先生の向かいの机の上をごそごそやっている。
「おはようございます。何か探し物ですか？」
先生は別段驚く様子も見せなかった。
「よー、あんたか。日曜日に何の用だ」
「ちょっと忘れ物をしましてね」
「俺もそうなんだ。昨日家に三クラス分の答案を持ち帰ったつもりだったんだが、二クラス分しかなくてな」
机の上の答案の束を繰りながら言った。
「それにしてもどうしてこんなことになったのか分からない。採点する前の答案はこの引出しに入れて、採点した後の答案はこの引出しに入れる。この方法でやってきていままで一度も間違いはなかった。もしかしたら奥に落ちていないかと思って引出しを全部はずしてみたんだが、見つからない。三年Ｃ組の分だけが」
「なにかの間違いで他の先生の机にあるかもしれませんね」
「俺もそう思ってさっきからあちこち探してるんだがいっこうに見つからない。探しても探してもどこにもないんだ」
領家先生は積み上げてあった引出を蹴飛ばした。引出は大音響を上げてひっくり返った。領家先生も私も顔をしかめた。先生は机の上に放り出してあった煙草の箱から一本取りだし火を付けた。
「もしかしたら誰かが間違えて持ち帰ったかも」
先生は首を横に振った。
「それは夕べこの部屋の全員に電話して確認したよ」
先生はため息みたいに煙を口から吐き出した。それからたばこを咥えたまま再び答案を探し始めた。私は化学室に財布を探しにいった。
三十分ほど部屋の中を探しまわったが財布は見つからなかった。すべての引出の中身を全部ぶちまけた。他の先生の机の中や、実験機具の入っている棚の中まで探した。しかしもともとそんな所に財布があるはずもない。
もし盗まれたのならすぐ銀行やカード会社に電話しなければなるまい。しかしその前に日高先生にあたってみる必要がある。何かの間違いで彼女の持ち物に紛れ込んでいないとも限らない。教職員名簿で電話番号を調べ、いざ電話しようとすると電話が通じない。電話は故障したままだった。
おそらく社会科準備室の電話も使えないだろう。事務課に行って電話を掛けてみる。かからない。玄関のそばの公衆電話も試してみたが駄目だった。
社会科準備室に戻ってくると領家先生は憮然としてたばこを吸っていた。
「よお、忘れ物はあったかい」
「ありませんでした。先生のほうこそ見つかりましたか？」
「いいや。ところでいったい何を忘れてったんだ」
「財布です。数万円の現金とクレジットカード、それにキャッシュカード、テレホンカード、それから・・・」
領家先生は少し驚いた。
「そいつは大変だ。帰る途中でどこかに落としたってことはないのか」
「落とすとしたら車の中だけですね。もちろんくまなく探しましたが」
「落としたにしても盗まれたにしても警察に届けたほうがいいんじゃないか。現金は仕方がないとしても、クレジットカードなんかを使われた日にゃ大変なことになるだろう」
「そうですね。しかしどこか別の所にいかないと電話も使えません」
「電話ならここにあるぞ」
領家先生は受話器を取って私によこした。気休めに一七七にかけてみたが何の反応もなかった。私は首を横に振って受話器を返した。領家先生はたばこを咥えたまま受話器と私の顔を交互に眺めた。それから受話器を耳にあて、どこかの番号にかけた。先生はようやく了解した。
「どういうことだ」
「分かりません。昨日から故障していたのは確かです。いま事務室や玄関の公衆電話も試してみましたが、どれもかかりません」
「電話線が切れてるんじゃないのか？」
「そういえば崖が崩れかけてる所がありましたね。あの辺で切れてるんじゃありませんか？」
「崖崩れ？どの辺だって？」
「ほら、学校の数百メートル手前の、反対側が断崖になってるところですよ」
「そうか？気が付かなかったな・・・しかしいったいどうなってるんだ。電話は壊れるわ答案は無くなる。あんたの財布もなくなったんだよな」
「ええ」
「そういえばどうして日高さんの車が駐車場にあるんだ？」
先生は突然妙な方向に話しを振った。思わず日高先生との夕べのやりとりを思い出した。クリスマスには領家先生からデートに誘われていること、日高先生が乗り気ではないこと、結局私とデートするようになったこと・・・。
「さあ。でも電話したら帰っていたんでしょう。車が故障したかなにかで誰かに乗せてって貰ったんじゃないですか？」
「そういえば帰りは遅かったぞ。九時頃電話したときはまだ帰ってなかった。『お嬢様はまだ帰られません』ときたのにゃまいったぜ。結局十一時半頃に向こうからかけてきた。こんな遅くまでどこに行ってたんです？と聞いたら、『ヒ・ミ・ツ』だとさ。しかし、一度にこれだけいろいろあるってのも妙だな」
「いろいろ」には日高先生の帰りが遅かったことも含まれるんだろうか？
「そうですか？あり得ないことじゃありませんが。まあ物が無くなったのはともかく、電話が通じなくなったというのが妙といえば妙ですが」
「電話がいかれてることを教頭に知らせておかないとな。探し物は後にして、取り合えずふもとまで電話を掛けに行くとするか。頭を冷やしてまた探せば見つかるかもしれないしな」
「私も一緒に行きましょう。電話を掛けたいところがあるから」
「そうか。じゃあ俺の車でいくか。あんたの車は俺には狭そうだからな」
領家先生の車は体格に合わせて広々していた。車が走り出すとすぐに先生は妙なことを質問した。
「あんた、日高先生っていくつだと思う？」
あの年齢不詳の顔を思い浮かべてみた。見当もつかない。
「二十五、六ってところですか？」
先生はにやりと笑った。
「俺と同い年なんだぜ」
「え、そうなんですか？」
「ところで夕べ電話でけんかしちまってさ。今までそんなこと一度もなかったのに。まいったよ」
先生はラジオから流れてきた音楽に合わせて口笛を吹きはじめた。それにしてもあの童女のような人が私より五歳も年上だとは。
突然領家先生が急ブレーキを踏んだ。体が前につんのめった。シートベルトをしていなかったら頭をフロントグラスにぶつけていただろう。何事かと思って前を見ると、道路が完全に土砂に埋もれていた。私も領家先生も無言で車を降りた。先のほうがどうなっているかよく分からないが、土砂は十数メートルにわたって道を塞いでいるようだ。ガードレールは土砂が崩れているあたりでぐにゃりと曲がっている。おそらく崖下に垂れ下がっているのだろう。領家先生は黙ってたばこに火を付けた。私も黙ってあたりを眺めた。
何の物音もしない。風もまったく吹いていない。頭上には抜けるような青空が広がっている。