（２）

採点が終わったのは六時二十分だった。途中でいろいろあったから、それを差し引くとひとクラスあたり三時間くらいかかったことになる。まあ、採点は徐々にスピードアップしていくものだから、次のクラスは二時間半くらいで終わるだろう。

食卓を整えても、日高先生はまだ起きる気配がなかった。

「先生、夕ご飯の準備ができましたよ」

声を掛けたが起きない。机に突っ伏したままぴくりとも動かない。今度は揺すって起こす。

「先生、夕ご飯にしましょうよ」

「うーん」

「先生、起きてくださいよー」

すると突然跳ね起きたので彼女の頭が私のあごをしたたか打った。

「はい！」

一瞬辺りを忙しなく見回し、それから大きく目を見開いて私のことをまじまじと見た。口元からは一筋よだれが垂れている。

「飛騨先生っ！なぜここにいるんですかっ！」

「なぜといわれても・・・」

「・・・ここってどこ？」

「化学室です。正確には化学科準備室」

彼女は手の甲でよだれを拭きながら訝しんでいたが、ようやくこれまでのいきさつを思い出したようだ。

「そうよ、そうなのよ・・・」

ハンドバッグからティッシュペーパーを取り出すと、机の上にできたよだれの池を拭き取った。

「採点終わりました？」

「いいえ、まだです。でもそろそろ夕食にしようと思って。それで先生のことを起こしたんですよ」

「そうだったんですか。なんか寝ぼけちゃって。ごめんなさあい」

そういう彼女はまだ完全には目覚めていないようだ。

夕食のメニューはご飯と味噌汁、鯵の開き、ほうれん草のお浸し、それに刻みキャベツを添えた冷凍食品のコロッケ。彼女は「すごーい。おいしそう。いっただっきまーす」と言ってみんな平らげてしまった。

「ところで」

彼女はあたりを見回して訪ねた。

「冷蔵庫も電子レンジもあるけど、電気釜がないね。ご飯どうやって炊いたの？」

「炊飯器がなくったってご飯くらい炊けますよ」

私は流しからビーカーを持ってきた。

「これ一つあれば米を研いで炊くくらいは簡単です。炊くときはホイルでふたをすればいいし」

「そ、そのビーカーって、実験に使うやつ？もしかして塩酸とかそういうのが入ってたとか・・・」

彼女は少し青ざめていた。私は彼女を安心させるために説明した。

「いかにも実験に使うビーカーですが、これは料理専用で、それ以外には使ったことはありません。でも実験に使ったビーカーでも、よく洗えばどうということはありませんよ」

「・・・そうですか。もしかして他の料理もみんなビーカーや試験管で作ったとか・・・」

「いいえ、お浸しや味噌汁は鍋で作ったし、コロッケはフライパンで揚げたものです。電子レンジで温めるよりも油で揚げたほうが美味しいんですよね。鯵の開きは魚焼きの網で焼きましたしね」

「アルコールランプやガスバーナーで焼いたとか・・・」

「いいえ、普通のガスコンロで焼きましたよ。でもこの部屋で焼くと煙が充満するから隣の実験室のドラフトの中で焼きましたけどね」

「ドラフトって？」

「換気扇付きの箱みたいなもんですよ。たとえば塩素みたいに有毒な気体が発生する実験を部屋の中でやると危ないでしょ。そういうときに使うんです。有毒な気体をみんな表に吐き出すわけです。魚を焼くのにもなかなかいいですよ。部屋の中が魚臭くならないし、それに・・・」

「あ、もうよく分かりました。どうもごちそう様でした」

「お茶入れましょうか」

「あっ待って、私入れます、社会科準備室からポット持ってきますねっ」

「ここにも電気ポットくらいありますよ」

「それって普通のポットですよね、ですよね」

「そうですけど」

「中のお湯も普通のですよねっ」

「ええそうですが・・・ビーカーで炊いたご飯って気に入りませんでしたか？」

「いいええ、そんなことありませんわあ。それじゃあお茶入れますね」

一服した後、再び採点に取り掛かった。

彼女はいつのまにか眠ってしまっていた。

採点が終わったのは十時少し前だった。日高先生はよく眠っていた。声を掛けても起きない。机に突っ伏したままぴくりとも動かない。肩を揺すって起こす。

「先生、帰りましょうよ」

「うーん」

「先生、起きてくださいよー」

突然跳ね起きたので彼女の頭が再び私のあごをしたたか打った。

「はい！」

一瞬辺りを忙しなく見回し、それから大きく目を見開いてこちらをまじまじと見た。口元からは一筋よだれが垂れている。

「飛騨先生っ！なぜここにいるんですかっ！」

「なぜといわれても・・・」

「・・・ここってどこ？」

「化学室です。正確には化学科準備室」

彼女は手の甲でよだれを拭き、少しの間訝しんでいたが、ようやくこれまでのいきさつを思い出したようだ。

「そうよ、そうなのよ・・・」

ハンドバッグからティッシュペーパーを取り出すと、机の上にできたよだれの池を拭き取った。

「採点終わりました？」

「ええ終わりました。さあ帰りましょう」

「そうですか終わったんですか。よかったですね。なんか寝ぼけちゃって。ごめんなさあい」

そういう彼女はまだ完全には目覚めていないようだ。よろよろ起き上がると椅子にかけてあったコートを着、ハンドバッグと紙の手提げを持ち、ドアのところまで歩いて行くとくるりとこちらを向いた。

「今日はどうもご馳走様でした。それではお先に失礼します」

そのまま帰ろうとしたので慌てて止めた。

「ちょっと待った！先生の車壊れてるんでしょう。それに日直の仕事はどうなったんですか」

彼女は電気に打たれたように一瞬その場に棒立ちになった。左手に持っていたデパートの紙手提げをどさりと落とし、ぽんと両手を打った。

「そうよ。すっかり忘れてたわ。ちょっと日直の仕事を果たしてきますから、先に駐車場に行っててください。ひとりで帰っちゃ嫌ですよ」

そう言うと紙手提げを持って部屋を出ていった。

いつのまにか月が出ていた。コートを後ろの座席に放りこみ、ヒーターを付けた。十二月ともなるとさすがに冷える。車内がほんのり暖まるころ、日高先生がやってきた。彼女はいきなり私の側のドアを開けた。

「どうかしたんですか？」

「・・・この車ってこっち側が運転席なんですね。助手席のつもりでドアを開けたら先生が座ってるから、どうなってるのかなって思っちゃった。へえ、こういう車もあるんだ」

「こういうのが普通の車なんですけど」

「え、そうなんですか？」

「国産車は大抵こちら側が運転席です」

「じゃあ私のは国産じゃなかったんだ。でも父の車も私のとおんなじだし母のもそうなのよ。じゃあ家にあるのはみーんな外国製の車だったんだ。ぜんぜん知らなかった」

「あーそうですか。珍しい車に乗れてようございましたね」

「ええ、ほんとに」

月夜の山道を走るのも悪くなかった。木々はみな葉を落としているので道は意外と明るい。こんな夜は運転が巧くなった気さえするものだ。そういえばそろそろクリスマスだ。クリスマス！今夜は冴えてる。いつもだったら到底思い付きもしない話題だ。

「もうすぐクリスマスですね。クリスマスはどう過ごされるんですか」

彼女はくすくすくす笑って答えた。

「そんなこと先生にしゃべる義務はないわ」

月夜のドライブ気分はぺしゃんこになってしまった。

「・・・じゃあ何か他の質問をします」

「ちょっと待って。先生こそクリスマスはどう過ごすの？」

私はもうクリスマスの話題には乗り気でなくなっていた。

「普段と何も変わりません。一人でケーキ買って食べても空しいだけですしね」

「それもそうよねえ」

彼女はさらっと言ってのけた。

「でも、クリスマスって、ツリーが飾ってあったり、ケーキをたくさん売っていたり、そういうのって楽しいと思わない？」

「そうですね」

「家族と一緒もいいけど、仲のいい友達と一緒だったり、好きな人と一緒だったりするともっと楽しいよね」

彼女は一瞬の間を置いてから言った。

「ねえ先生、聴いてくれる？」

「ええ、何でしょうか」

「私クリスマスに領家先生にデートに誘われてるのよ」

「へえ。よかったですね」

「ほんとにそう思う？」

「ええ」

「私全然嬉しくないわ。あんな人と一緒にクリスマスを過ごしたくないもの」

「領家先生のこと嫌いなんですか」

「大嫌い、あんな人」

「どうして？」

「私、やたらに暴力を振るう人って嫌いなの。あの人はすぐに生徒を殴るし蹴るし、見てるだけでもいやだわ」

「でも、殴られて蹴られて喜んでる生徒もいますよ」

「それはその子が変なのよ。それに私、恐いのよ。あの人のこと」

「じゃあ断ったんですか」

「まだ」

「早く断ったほうがいいですね。そうしないと領家先生がかわいそうですよ」

「そこでね、先生に協力して欲しいのよ」

「何を協力するんですか」

「クリスマスイヴに私とデートしてちょうだい。先約があったことにするの」

「なにもそこまでしなくたって・・・」

「だって先生何にも予定ないんでしょう。それとも私とデートするのはいや？」

「そんなことはないけど・・・」

「じゃあきまりね」

直に駅に着いた。

「駅ですよ」

「駅ですね。ついでだから家まで送ってちょうだい。さあいきましょう」

彼女は紙袋の中から道路地図を取り出し、付箋の付いたページを開いて渡した。

「ここよ」

地図には「みわこのうち」とマジックで大書きしてあって、矢印で場所が示してあった。

「先生は『みわこ』っていう名前なんですか」

咄嗟にそれしか言えなかった。

「ええそうよ」

それ以上何も言えないでいるうちに彼女に先を越されてしまった。

「それじゃ行きましょうか」

道路は空いていた。ときどき信号で引っ掛かる以外はスムーズそのものだった。

「ねえ先生、デートするならどんな所がいい？」

「そうですね。先生はどんな所がいいですか？」

「そうねえ。ディズニーランドなんてどうかしら」

「ディズニーランドってどういう所なんですか？」

「行ったことないからよく知らないわ」

「そうですか。でも、なんとなく生徒に会いそうな所ですね。そういうところじゃないほうがいいですね」

「そうよねえ。せっかく二人で行くんですから」

「学校以外で生徒に会いたくありませんから」

「うわさになったらやだもんね。ね。ね。ね」

「そうですね」

「月並みだけどフランス料理でも食べにいきません？」

「月並みなんですか？それでも構いませんが」

「私とってもいいお店知ってるの。前にパパとママとよく一緒に行ったお店。『コラーユ』っていうの。私達がテーブルにつくとね、シェフの松木さんが挨拶にくるの。いつもにこにこしていて、とても優しい人で・・・」

彼女は延々と話し続けた。そのうち言葉が疎らになってきたかと思うと眠ってしまっていた。

彼女の家は郊外にあって、かなり広い敷地を持っているようだ。塀の長さだけでもかなりのもだ。門の少し手前に車を止めると彼女は突然目を開けた。

「着いたの？」

「ええ到着しました」

「ねえもっと楽な口の聞き方してよ。そりゃあいままであんまり話したことなかったけど、もうたくさん話したから友達だよ。いいわね」

「はい」

「『はい』じゃなくてさあ・・・」

「えーと、まあいいじゃないですか」

「うん。まあいいか。今日は本当にどうもありがとう」

「どういたしまして。もとはといえば私のせいで遅くなったんだから」

「そういえばそうだったかな。それじゃお休みなさい」

彼女は門の前で立ち止まると、大きく手を振って思い切り大きな声で「おやすみなさーい」と言った。辺りにこだまするような気がした。

帰宅するとすぐ床について朝まで一度も目を覚まさなかった。