生徒指導室前の廊下を通りかかると、領家先生が一人の女子生徒を張り倒していた。先を急いでいたのに思わず足を止めてしまった。
その場には数人の先生や生徒達がいた。先生達は皆不愉快そうな顔をしてひそひそ言い合ったりしていたが、誰も止めようともかばおうとも口を挟もうともしなかった。
叩かれた生徒の顔に見覚えはなかった。きっと一年生なのだろう。頬を押さえ涙をぼろぼろこぼしている。領家先生はその様子を嬉しそうに眺めていた。私の隣に立っていた体育の立川先生は、「いくらカンニングをしたからといって、女の子をあんなにひどく殴るなんて」とぶつぶつ言って、どこかへ行ってしまった。
その場には全部で五人の生徒が壁を背に並んで立たされていた。いま張り倒された生徒を含む左から三人はすでに制裁を受けた後らしく、泣いているか、領家先生のことを恨めしそうに睨んでいるかのどちらかだった。残りの二人のうちの一人、一番右側の生徒はまっすぐ前をむいてがたがた震えていた。
次に領家先生の制裁を受けようとしていたのは三年Ｄ組の原田だった。先生は唾のかかるほど顔を近づけて言った。
「お前おととしも、去年の今頃も俺の指導を受けてたよな。ほんとに懲りないやつだな。お前頭は悪くないのにどうしてわざわざカンニングなんかするんだ」
先生はポケットから五センチ四方くらいの小さな紙切れを取り出すと、原田の鼻先でひらひらさせた。紙切れには一ミリにも満たないくらいの小さな文字がびっしり並んでいる。きっと縮小コピーを何度も繰り返して作ったのだろう。
「もしかしたら、このあいだの中間テストのときもこんなことやってたんじゃなかろうな」
「さすがは領家先生。何もかもお見通しですね」
原田はにやりと笑って答えたが、言い終えるか終えないかのうちに先生の鉄拳が原田の顔面を打ちのめした。原田は両手で顔を覆ってしゃがみこんだ。
原田が時々「いてーよー」とうめく以外、誰もしゃべらなかった。原田はやがてゆるゆると立ち上がったが、右手の指の隙間から血が流れ落ちていた。ワイシャツには点々と血の跡が付いていた。それを見て、先程領家先生に張り倒された女子生徒はその場にへなへなと倒れ込んでしまった。
見かねたのか、向こうに立っていた味方先生が領家先生にうかがいを立てた。
「河合を保健室に連れていっても構いませんか」
「ええ、お願いします」
領家先生はあっさり承諾した。味方先生と、友達らしい二人の生徒が河合と呼ばれた生徒を抱き起こそうとした。
「大丈夫？大丈夫？」
「うん・・・」
友達が両側から抱えるようにして立ち上がらせたが、足元がおぼつかない。味方先生がおぶって行こうとしたが、老先生には荷が勝ち過ぎるようだ。
原田は困った顔をしていた。右手を離すと、鼻が多少腫れて鼻血が出ていた。他はどうということもないらしい。ハンカチで手や顔についた血を拭き取り、あたりを見回して私のことを見つけると「飛騨先生、ティッシュ持ってない？」と言った。
私は黙ってポケットティッシュを投げてやった。原田はティッシュを両方の鼻の穴に詰め、それから背筋をぴんと伸ばすと、高校野球の選手宣誓みたいな大声で領家先生の方を向いて言った。
「ありがとうございばした！」
「よし」
領家先生が答えた。原田はすぐ側にうずくまっている河合のほうを見て言った。
「ところで、あど子を保健室じ連れていってぼいいですか？」
「ああ。連れていってやれ」
原田は河合を軽々と抱き上げるとさっさと保健室に向かった。それを味方先生と河合の友達が追いかけた。
領家先生は、次の生徒を屠りに掛かった。私はそれを潮にその場を離れた。
二学期の期末試験は今日で終了した。私の担当している二年と三年の化学の試験はどちらも今日行われた。こういう試験の時間割は係の先生の陰謀としか考えられない。係の先生は誰だっけ。
ところで答案は火曜日に返すことになっているから、すぐにでも採点を始めないと間に合わない。しかしなかなかその気になれない。採点というのはなかなか億劫なもので、大抵の教師はこの仕事が嫌いだろうと思う。
昼食を取ったりコーヒーを飲んだりしてぐずぐずしているうちに三時になってしまった。土曜日は五時に学校を閉める。あと二時間しかない。ああこんなことならもっと早く採点を始めるんだったと後悔する。自宅はスタンドは壊れているし、電気は暗いしで、夜になったらとても採点できる環境ではない。せめて一クラスでも二クラスでも学校で採点して行きたいものだ。
日直を代わってもらえば、遅くまで残って採点できるだろう。今日の日直は確か社会科の日高先生のはずだ。
社会科準備室は階こそ一つしか違わないが、化学室からは最も遠い一隅にある。
ドアをノックして部屋に入ると、日高先生はぼんやり窓の外を眺めていた。他には誰もいない。先生は私のほうを振り向きもしないで言った。
「何か御用？」
「先生は今日は日直でしたよね」
「ええ」
「日直を交代しませんか。採点がはかどらなくって。まだしばらくかかりそうなんですよ」
「こんなにたくさん杉の木があるのを見ていると憂鬱にならない？」
「はあ？」
「春になると花粉がぶわーっと辺り一面色が変わるほど飛ぶのよねえ。そうすると私もまたなまこのようになってしまうのよ。先生は花粉症じゃあないの？」
「いいえ」
「いいなあ。うらやましいなあ。そういえば先生はまだ一年目だもんね。二月くらいからうんざりするほど花粉が飛ぶのを見たことないんだ。生徒の中にもね、顔の四分の三くらい隠れちゃうようなマスク掛けてくる子とかいてね。ああ、私と同類なんだって思うとかわいそうで。花粉症って大変なのよ。二月から五月くらいまでもうぜんぜんだめなのよ。直るときは突然直るんだけど」
「・・・そうですか。それで日直の件なんですが、いかがでしょうか」
「何のこと？」
「さっき言ったこと聞いてました？」
「ぜんぜん」
彼女はこちらをむき、にこりとした。
私はもう一度説明した。
「あら、せっかくだけど、だめです」
「どうしてですか？」
「あの車先生の？」
「ええそうです」
窓の下にはスクールバスと二台の乗用車が見える。鼠色のが私のだ。真っ赤なのが日高先生の車なのだろう。
「今日は何曜日かご存じ？」
「土曜日ですよ」
「だからほかの先生はもうみんな帰られました。バスの運転手さんもさっき帰られました。ここから見えるんです」
私は彼女の向かいに座った。
「お昼ごろ買い物に行こうとしたんだけど、車が動かなかったの、なぜか。それで、もしかしたらしばらくそのままにしておけばまた動くようになるかもしれないと思って、さっき試してみたの。でもやっぱり動かないの。それで途方に暮れていたんだけど、いいことを思い付いたの。最後に帰る先生に送っていってもらえばいいって。五時前だって後にだれも残っていなければ帰っちゃったっていいはずでしょ。それで駐車場を見ているうちにふと杉の林が目に入って、花粉症のことを思い出して気が滅入っていたんです。・・・だから先生、帰るときは送っていってくださいね？」
「もちろん構いませんが、採点にまだしばらくかかりそうだから、先に駅までお送りしましょう」
「いえ、それじゃあだめなんですよ」
「なぜですか？」
「だって私が責任者だから、私の後には誰も残ってちゃだめなんです」
「だから日直を代わろうというんじゃありませんか。交代すれば責任者も変わるわけでしょ」
「でもやっぱり嫌です。責任を途中で放棄するみたいで」
「しかし五時までには終わりそうもありませんよ。今のペースでは九時を過ぎそうですね」
「かまいませんわ。そのかわりあまり遅くなるようだったら家まで送ってくださいね」
「・・・先生の家はどこなんですか」
「安心してください。先生の帰り道ですから」
「そうだ、ＪＡＦに電話して車を直しに来てもらうというのはどうでしょう」
「いいけど・・・。先生電話してくださらない？私車のことはよく分からないの」
そのくらいならいいかと思ってＪＡＦに電話した。しかしどういうわけか繋がらなかった。おかしいなと思って掛け直したが結果は同じだった。もう一度落ち着いて掛け直すと、ゼロ発信の時点ですでに異常が起きていることが分かった。お馴染みの「ツー」という音がしないのだ。電話のコードが外れていないかどうか確かめてみた。電話機を持ち上げていろいろ眺めてもみた。なにも異常は見当たらなかった。
「どうかしたんですかあ？」
日高先生が間のぬけた調子で聞いた。
「電話機が故障しているみたいですね。ちょっと化学室に行って掛けてきます」
「おかしいですねえ。今朝はちゃんと使えましたけど」
彼女は受話器を取って耳にあてると不思議そうな顔をした。
化学室の電話も通じなかった。
社会科準備室に戻ってきたとき、彼女はまだ受話器を耳にあてたり電話機を揺すったりしていた。
「へんですねえ。壊れてるみたいですねえ。あ、電話通じました？」
「それが妙なことに化学室のも通じませんでした。どこか電話線の元がいかれたんじゃないでしょうか」
「あらそれじゃあ仕方ありませんね。こうなったらなおさら、先生の仕事が終わるまで待つほかありませんね。車はまた今日じゃない日に修理に来てもらうことにします」
「そうですね。それしかないですね。でも先生ついてませんね。車は壊れるし、ＪＡＦを呼ぼうにも電話も通じないなんて」
「仕方ありませんよ。ついてないときはどうにもこうにもついてないもんですよ」
「それじゃ私は採点があるのでこれで失礼します」
「帰りには声をかけてくださいね。私のこと忘れて帰ったりしないでね」
「わかってます」
化学室に戻ってからは再び採点に専念した。あまり集中していたので突然ドアをノックされたときにはとても驚いた。ノックしたのはもちろん日高先生だ。ハンドバッグに手提げ袋、それにコートまで持っている。走ってきたのか息を切らしてる。
「しつれいしまーす、ねえ先生、ここで仕事が終わるの待ってていい？」
「べつにいいですけど・・・」
「いつの間にか眠っちゃってて、はっと目が覚めたら、先生が私のこと忘れて帰っちゃったような気がしたの。それで荷物持って走って来たの。ああ、帰ってなくてよかったー」
「忘れたりしませんよ、ぜったいに」
ふと窓のほうを見ると私と日高先生が映っているばかりで、外の様子はまったく見えなくなっていた。時計を見ると五時半だった。どうりで暗くなるはずだ。
彼女は私の向かいに座ってベンゼン環の分子模型をもてあそびながら言った。
「ねえ先生、お腹空かない？私もうぺっこぺこ。何か食べるものなあい？ほんとはお昼過ぎにお菓子でも買いに行くつもりだったんだけど、車が壊れてたから」
「あと三十分くらい待ってくれませんか。そうしたら今採点してる分が終わりますから。そのあと夕ご飯にしましょう」
「わーい。でもご飯になるようなものあるんですか」
「三十分経ったら披露しますよ」
採点中、丸にすべきか三角にすべきか迷ってふと顔をあげると日高先生と目が合った。
「何か用ですか？」とたずねると、「ううん、なんでもないの」と言ってベンゼン環を指でくるくる振り回した。
しばらくして、やはりふとしたことから顔をあげるとまた目が合った。今度はさっと視線を逸らせたが、落ち着く先が見つからないのかしばらく宙をさまよっていた。そのうちおずおずと私のほうを見るとにっこり笑い、「なんでもないんです」と言った。私は再び採点に戻った。
もう一度顔をあげたとき、彼女は机に突っ伏して眠っていた。