ふだんの運動不足がたたったのかすっかり息が切れてしまって、その場にしゃがみこんでああしんどいよーなんてぜえぜえしているうちにようやくラクになってきて、ようやく立ち上がるとやーらかいユミの唇の感触が残っていていて、なんだか胸がきゅんとしちゃったんだけど、そんなことをいつまでも考えていたって仕方がないのでさあ帰ろうと思ったんだけど、鞄がない！ユミのところに置いてきちゃったみたい・・・。財布も定期も鞄のなか。どうしよう！？ポケットの中にはビスケットがひとつ、ぽんと叩けば二つに割れて、オシマイ。ああ、カミサマ、これも試練ですか！？
呆然と佇むあたしの肩をぽんと叩いたのはところどころに白いものの混じりはじめたナイスなおじさま。ああ、ちょっと好み！あたしジジイ好きなのよね。割と。わけえ奴はみょおーに汗臭かったりとかするからいやだ。
おじさまは、いいえ、もしかしたらおじいさまとお呼びするくらいの年齢かもしれないな。うちのじいさんもちっとは見習って欲しいぜ。パンツ一丁で家の中うろうろするのはやめてくれ。
おじさまは「どうかしたの？」とちょっとセクシーでハスキーでシベリアンな声であたしにやさしく話しかけてきてきてくれたの。うーん、ちょっと、まいるぜ。あたしゃこういうのににゃ弱いぜ。
「いえ、なんでもないんです。ただちょっと、友達とはぐれちゃったみたいなんです」なんて柄にもないぜ的せりふを吐くあたしをみたらユミは腹を抱えて笑い出すだろう。か？
「もしよろしかったら、ちょっとその辺でお茶でも飲みませんか？」
背筋を寒いものが走った。こういうおじさんがいきなり見ず知らずの女子高生をナンパしたりするもんなんだろうか？
「え、え、え、」
言葉に詰まったあたしはそれしか言えなかったぜ、ベイベエ。
「よろしいじゃありませんか。なんだかお疲れのようだし。そのあたりで休んでいきましょう」
しかーし、あたしはそのへんに足を踏みいれるのは初めてだったのだが、マックもロッテリアも、ない！！それどころか、茶店もなーい。なんとその細い路地の両側に並ぶのは割烹着（死語かな）をきた近所のおばさんが「おとーふ一丁ちょうだいな」なんて現れそうな豆腐屋だとか、ガラスケースの中に揚げパンが並び、奥の方が薄暗いパン屋とか、天ぷら屋だとか、テレビのなかで「むかし懐かしいお店」なんて紹介されるような、そんな店ばかりなのだ。
おじさまはきょろきょろとあたりを見回すと牛乳屋（！）に入っていき、昔給食で飲んだのとおんなじびん入り牛乳を二本手に持って出てきた。ふたはすでに取ってあった。ふたは針みたいので突き刺してとるんだよな、たしか。
あたしは一瞬ためらったが、とても喉が渇いていたので一気に飲み干してしまった。が、その直後に後悔した。あたしはお金をただの一円も持っていない。ということは、おじさまに借りを作ってしまったということだ。
おじさまがそのむっとするような油の匂いとかへんに酸っぱいみたいな匂いとか、そういうのが立ちこめたうらぶれた路地で美味しそうにしかも品よく牛乳を飲み干す様は一種異様であった。おじさまはちっともその場に似つかわしくなかった。
とにかく、あたしはお礼をいってこの場を立ち去るしかないと思った。金がないなんていえば、この人はもっと気前よくなるかもしれないし、それに、いったいどんな思惑があるのか油断ができない。
・・・でもあたしなんかナンパしてもいいことないと思うな。ユミだったらもう少しいいかもしれないけど。
おっといきなり鬱モード。とにかくあたしはおじさまに「牛乳どうもありがとうございました。もうそろそろ帰ります」と告げた。ところがおじさまはにこやかに「まだいいじゃありませんか。まだあなたと会ってから五分しか経っていませんよ」とおっしゃる。「はあ」人のいいあたしはそれしか言えない。あたしはおじさまの後をとぼとぼと歩いていく。ふと気がつくと町並みが変わっているではないか。あたしはこいつはやばいぜと思った。読者の皆々様もご推察のとおり、そこはご休憩とかご宿泊とかそういうのが立ち並んだところだったのだ。そういえば目の前はうちの教師Ａと生徒Ｂがまだ日のあるうちに入るところを目撃されたとかいうほてるだな。名前に覚えがあると思ったら。
おいおい、ふつう、こういう、はっきりいえば「ブス」を誘うか？やはり制服＋ミニスカート＋ルーズソックスという黄金の組み合わせにはまったのか？にしてもこのじいさまはちっとも油っこくないのに、やっぱり男って奴は。あたしは身の危険を感じたんだから牛乳をおごってもらった恩義なんてシカトするぜってなわけでいま歩いてきた方へ向かってダッシュ。だからうしろなんて振り返らなかったんだぜ。じいさんどうしたかな。でもあたしの勘違いだったのかもしれないし。いやでも＜援助交際＞の報酬が牛乳一本だなんてシャレにもならんぜ。
しかしもと来た路地のつもりだったんだけど、なんだか様子が違う。さっきの商店街はなくて、そのかわりショボい雑居ビルの一階とかにアヤシゲなＣＤ屋とかアクセサリー屋なんかがちらほら。あたしはさっきのじいさんが追いかけてくるんじゃないかと気が気でなかったので普段だったら絶対入らないようないかにもアヤシそうな店に飛び込んだ。もしドアのノブに「ＯＰＥＮ」という札がかかっていなかったら、店の存在に気付きさえしなかっただろう。
店の中はすごく狭くて、三畳くらいしかなかった。ドアを開けて飛び込んだ瞬間なんだかエキゾチックな匂いが鼻についた。うーん、あたしの好みの匂いじゃないぜ。どちらかというとクサイ。でもあたしの意識はあのじいさんが追いかけてくるかどうかということに集中していたので、そのときはまだ店のなかの様子はそれほど気にならなかった。
歪んだガラスのはまった窓から、あたしは外のようすをうかがった。さっき外から店の中はぜんぜん見えなかったから、たぶんじいさんからも見えないはずだ。そのとき誰かの手が肩に置かれた。あたしはまったくそんなこと予期していなかったので、「ぎゃあ」と声を上げて振り返った。するとすらりと背の高いチャイナドレスを着た女の人があたしを見下ろして口に人差し指をあてて「しっ」と言った。あたしは思わずその人のサルマネをしてしまった。するとそのひとはくすくすと笑った。あたしも釣られてくすくすと笑った。
「追われてるの？」
「ええ、まあ」
「いったい、誰に？」
その人は眉を潜めた。
「いえ、今日は追われる日なんです」
あたしは＜仮面ライダー＞にも追われていたことを突然思い出した。それからユミのくちびるの感触・・・。その人は「そうなの」と言って不思議そうに笑った。
あたしはそのときになってようやく店のなかをぐるりと見渡した。壁についている電灯はすべて被いがしてあって、光は被いと壁との隙間から漏れてきていて、それが店のなかを仄かに照らしていた。壁によせた古そうな木でできたテーブルにはこれまた古そうなネックレスやらブローチやらがぱらぱらと並べられていた。壁にはいくつも鏡が吊るされていて、よく見るとガラスが歪んでいたりして、ただでさえままならないあたしの顔がさらにままならない顔になったりした。
鏡のなかには歴史の教科書に出てくる青銅の鏡もあった（笑）。
他の壁の前には引き出しのたくさんある箪笥みたいのが置いてあった。あけると薬でも出てきそうだ。実際その人は引き出しのひとつを開けると、「あなた、グラスはやる？」と聞いた。あたしはぶんぶんと首を横に振った。その人はそこからお茶みたいなものを取り出すと煙管につめて火を付け、深く吸い込むと目を細めた。あたしはここもやばいと感じたので「じゃあ、すみません、もう帰ります」というとぺこりと頭を下げて出て行こうとしたのだが、「まあちょっと待ちなさいよ」と言うとまたもやあたしの肩に手を載せた。うーん、このひとの、この行動はあたしを動けなくしてしまう。
「まあ、お茶でも飲んでいきなさいよ。もう、今日はお店はおしまい」
ああ、ちょっと目尻に皺が。もう三十は越してるんだろうな。その人はあたしの横をすり抜けるとドアを開け、札をひっくり返した。ああ、これであたしは帰れない。
「こっちへいらっしゃいよ」
その人は入り口の対角線上にある木のドアを開けた。
その部屋はコンクリートの窓もない部屋で、天井の換気扇がわんわんうなっているほかは何の音もなかった。床も壁もコンクリート。靴で床をこするとざらざらしている。それから、湿ったコンクリートの、どこか懐かしい匂い。この匂いを嗅ぐと懐かしいような、それでいてちょっとエッチな気分になる。
奥はカーテンでしきられている。
その人はカーテンの奥からロイヤルコペンハーゲンのカップ＆ソーサー、ティーポットをトレーに載せて持ってきた。
「カップはよく暖めておくのがおいしい紅茶を入れるコツなのよ」
カップに注がれる紅茶は不思議な香りがした。いつもティーバッグばかり飲んでいるからだろうか。
「さあ、飲んで」
あたしは「頂きます」とカップに口を付ける。すると、なんだか不思議な香りが口の中に広がった。それは、ちょっとなじめないような気のするものだったが、なんとも爽やかでもあった。でも結局は「おいしい」しか言えなかった。
その人はテーブルの上で組んだ両手の上に顎を載せて、あたしがカップの中身を飲み干してしまうまで、じっと見つめていた。いままで生きてきて、こんなに長い時間ひとりの人に見つめられたことはたぶんないので、ちょっとへんな気持ちになった。
あたしがカップをソーサーの上に戻すと、その人はにこっと笑った。
「どう？」
「おいしかったです」
そう言った途端、あたしはものすごい眠気に襲われた。ど、どういうこと？
「効いてきたみたいね」
その人は立ち上がるとあたしの方に近寄ってきた。や、やられた！今日って日は！全身からチカラが抜けいく・・・。天上の換気扇がわんわんうなっている・・・。
・・・天井がピンク色・・・近寄らないで・・・ユミ、ユミ！
・・・天井がピンク色・・・う〜〜〜ん、頭が痛いよォ。なにこれ、香水の匂い？枕に香水の匂いなんてつけんなよ。やっぱり天井がピンク色だ・・・。趣味悪いぜ、やめろよ。なんだ、ピンク色のカーテンか？
「おはよう」
カーテンを開けてあの年増女が爽やかに言った。
「なんのつもり？」
あたしはからだを起こしたが、なんとミニスカートもルーズソックスも身に付けていないではないか！ベストもブラウスも！つまり下着だけのあられもない姿。
「なんのつもり！？」
あたしは反射的に両腕で体を隠した。
「あーら女同士なんだからいいじゃないそれにあなたとてもいい体つきをしているわね」
年増女はそれだけいうとカーテンを開け放した。あたしが寝ていたのは天蓋付きのベッドで、開いたカーテンの向こう側に見えたのは開け放たれた巨大なワードローブで、大量のケバケバしい衣装が掛かっていた。
年増女はいやらしい笑顔を見せると着ていたチャイナドレスをするりと脱いだ。脱皮みたい。黒い下着がいやらしい。きれいなプロポーション。痩身美容の広告に出てくる女みたい。−１５ｋｇとか。
年増女はその格好のままでワードローブから一組の異様な衣装を取り出すとあたしの目の前に置いた。
「あなたにはそれがお似合いね。知ってるでしょう？『キューティーハニー』って。さああなたには私の助手としてひと働きしてもらうわよ」
「・・・ひと働き？」
「そう。私は時空間パトロール隊員のリサ。よろしくね」
ああ神様！これも試練ですか。年増女はキューティーハニーの衣装を付けると鏡の前で体をくねらせた。こいつ、この歳でコスプレが趣味なんだろうか。にしても年増女のキューティーハニーはなんだかとってもイヤラシイ。
「あーらハニー、いつまでもそんなかっこじゃどこへも行けやしないわよ。いい子ちゃんだからそれを着てね」
「あたしの服を返して下さい」
「ひと働きしてくれたらね」
年増女はウインクした。あたしは情けなくって涙がこぼれてきた。
「あらあら泣かないで。その衣装、気に入らなかったのね。それじゃあこれでどう？」
年増女が出してきたのはどう見てもセーラー服だった。
「知ってるでしょう？『セーラームーン』」
あたしはとにかくこの格好のままじゃどうしようもないと思ったのでカーテンを閉めるとセーラームーンの衣装を着た。カーテンを開けるとセーラームーンの衣装を着たあたしが見えた。ワードローブの扉が全部鏡だったのだ。あたしは情けなくって涙が出た。
「あらあら泣かないで」
年増女がハンカチであたしの涙を拭こうとしたが、あたしは「ほっといて」とその手を払った。ハンカチがひらひらと床に落ちた。