「お嬢さん、少々お尋ねしたいことがあるのですが」ということばが頭上から降ってきたときからすべてが狂いはじめたのだと思う。うん、たぶんそうだ。きっとそうだ。
あたしはさっき買ったばかりの「はなとゆめ」――いかん！マニアック路線だ！――から目を上げた。キラリと光るそいつの目。しまった！あたしは「変な人と目を合わせちゃだめよ」というおかーさんの言いつけを破ってしまった。いや、そういう問題じゃないか。
そいつはいかにもあからさまにどう見てもアヤシイ奴。これって仮面ライダーとかいうんじゃなかったけ？
あたしはすぐに視線を反らせたんだけど、合っちゃったという事実は変えられない。取り消そうったってそいつがいいっていわなきゃそうもいかない。そう、それは事故だったのだ。
＜仮面ライダー＞はにっこり微笑むと悪びれもせずに頭を掻き掻きこう言った。
「悪の秘密結社ショッカーの本拠地はどこでしょうか？この近くだと聞いたものですから」
あたしは、こいつはまずい、と思った。こいつはふつうじゃない。でもこんな扮装をしていること自体がすでにおかしいのだ。ああ、拓也くんのバカ！
でも、無視してだんまりを決め込んだら何をされるかわからない。ここはひとつ穏便に済まそうじゃあありませんか。それが大人ってもんでしょう。
あたしは偏差値を水増しした顔をつくって答えました。
「そこの階段を降りて反対向き行って信号をわたって少し行ったところを左にまがってまっすぐ行くと交番があるのでそこできいてください」
それからまた「はなとゆめ」に戻ろうと思ったんだけど、＜仮面ライダー＞はあたしの横に突っ立ったまんま。立ち去る気配は、ない。ページを開いてはいるんだけど、ちっとも頭に入らない。このうすらバカはやくどっか行け、とあたしは心の中で密かに悪態をつく。
だいたい、ユミが悪い。もう待ち合わせの時刻を２５分も過ぎている。まあそりゃあいつものことだけどさ、でも、時間どおりに来てくれたら＜仮面ライダー＞に会わずに済んだわけだしさ。せめて今日くらいは遅刻しないで欲しかったよ。それに、遅れるなら携帯に連絡くらい入れろよ。ユミは携帯もポケベルも持ってないからこっちからは連絡のしようがないのだ。
＜仮面ライダー＞はあたしのすぐ横で腕組みをしてぼーっと立っていた。すくなくともあたしにはぼーっとしているようにしか見えなかった。やっぱり、うすらバカ。
ときどきあたしの方を見て照れ笑いをする。あたしは全身がぞわぞわするのを感じる。身の毛がよだつって、こういうことをいうんだろうな、きっと。もしかしたらこいつ、ロリコンなのかもしれない。とにかく早くその場を立ち去りたかった。刻一刻と身に危険の迫るあたし。あたしはユミに死刑の宣告をした。
煮えたぎる大釜の上にロープで吊るされ、泣き叫ぶユミ。法衣をまとったあたしは峻厳とした態度を崩さないままこう言い渡す。
「汝に問う。悔い改めるか？」
ユミは顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながらよくわからないことを叫ぶ。
「もっとはっきりと答えよ！」
「ごめーん、遅くなって」
はっきりとそう答えたユミは本物だ。ユミはいつものように忽然とあたしの目の前に現れた。こいつ、いつか本当に釜ゆでにしてやる！
「また今日もさあ、担任のババアがなかなか帰してくれなくてさあ」
「ウソ付け。男と乳繰り合ってたくせに」
「ほんとうだってば！あ、君はまたそうやって人のことを疑う。そんなことではロクな大人になりはしないぞ」
「わかったわかった、今日のところは許すから、早く行こう」
あたしはさっさと＜仮面ライダー＞が立っているのとは逆の方へ歩き出した。とにかく、なんでもいいから一刻も早くその場を立ち去りたかったのだ。
「あ、許すとかいいながらまだ怒ってるな？そんなことでは男は寄ってこないぞ」
「ご心配なく」
「え！？ナカヤマ男できたの？」
ユミの声があんまり大きかったのであたしは一瞬赤面したが「いやそうじゃなくて」と小さな声で答えた。
「じゃ何？」
ユミも小さな声で答えた。
「さっきあそこで待ってたとき変なやつにからまれてさあ」
振り返ると、なんと！＜仮面ライダー＞があたしたちの後をついてくるではないか！
「へんなやつってアレのこと？」
ユミは驚くそぶりも見せない。そういう奴なのだ。あたしはため息まじりに「そう、アレ」と答えた。
「なんかされたの？」
「いや、道を聞かれただけ」
「それなら、まあ、いいじゃん」
「だけど、ショッカーの本拠地はどこですかなんて聞かれて答えようがあるか？」
「ないな」
交差点ではそろそろ信号が赤になろうとしていた。あたしたちは＜仮面ライダー＞をまいてしまおうと走って交差点を渡ったんだけど、そいつも走ってついてきた。
ときおり、人ごみから「仮面ライダー」とか「ライダー」といった言葉が聞こえてくる。しかしもちろんだれも「仮面ライダー」が小娘を追い回しているとは思っていないだろう。
あたしはなんだか恐くなってきていた。
「ねえ、なんかやばいような気がするんだけど」
「うん」
「交番行こうか」
「そうしよう」
あたしは小学５年生の頃道で拾った千円札を届けていらい交番のお世話になったことはない。
「なんか、おまわりさんってこわいよね」
ユミは交番に行くのに気が進まないようだ。
「ルーズソックスだと補導されたりしないかなあ」
「補導されるのと仮面ライダーに付きまとわれるのとどっちがいい？」
「・・・やっぱり交番に行こう」
＜仮面ライダー＞は交番に着くまであたしたちの後数ｍのところを付かず離れず付いてきた。交番には若いおまわりさんが一人しかいなかった。こんな繁華街の真ん中の交番なのに一人で大丈夫なのかとちょっと心配になった。
「あの・・・」
ユミが声をかけるとおまわりさんはにこっと微笑んだ。ルーズソックスは嫌いではないらしい。にしてもこういうのはユミに任せるに限る。
「あの人があたしたちの後を付いてきて困るんですけど」
ユミの指差す方を見て、おまわりさんは笑顔のまま一瞬凍り付いた。
「・・・どの人ですか？」
「あの人です。仮面ライダーの格好をした」
おまわりさんはとても困ったような顔をした。無意識なのかもしれないけど、右手が拳銃のケースらしいところに伸びたのをあたしは見逃さなかった。
おまわりさんは交番から外へ出て、＜仮面ライダー＞の前に立った。＜仮面ライダー＞のほうが頭ひとつぶん背が高い。
「あの、あの娘たちがあなたに付きまとわれているっていうんだけど、どういうわけでそんなことをするのです？」
「あの娘がショッカーの本拠地に案内すると私に言ったのだ」
さっきあたしに声をかけたときとは打って変わって威圧的な態度でそういうと、あたしのほうを指差した。あたしはぎょっとして辺りを見回した。いつのまにかあたりはしんと静まり返って、道行く人はみな立ち止まり、成り行きを見守っているように見えた。
「そんなこと言ってません！」
あたしの声が芝居じみてあたりにこだまする。
「君、嘘をついてはいけないな。先程確かにそういったじゃないか」
「言ってません！」
膝ががくがく震えているのがわかった。
「まあちょっと待ちなさい。あんたが勘違いしただけなんじゃないの？とにかく、この娘たちが嫌がっているのだから、付きまとうのはやめなさい。それから、ちょっと聞きたいことがあるから中に入りなさい」
おまわりさんはそういうとあたしたちに目配せした。ユミはすばやくあたしのそばにくると抱きかかえるようにして歩かせようとしたんだけれど、あたしはあたしで膝ががくがくしてうまく歩けない。
そのとき「待て！」という＜仮面ライダー＞の声が後ろからした。あたしとユミは思わず振り返った。
おまわりさんが＜仮面ライダー＞の前に大の字になって立ちふさがり、「もういい加減にしろ！」と叫んだ。ちょっと声が震えていた。
「それは私のセリフだ」
＜仮面ライダー＞のほうは自身満々のようだ。
「いい加減にしないと、公務執行妨害の現行犯で逮捕するぞ！」
おまわりさんの声はまだ震えていた。
「お前こそ邪魔をするな」
――ライダーキーック！！――
＜仮面ライダー＞の雄叫びがあたりにこだました。若いおまわりさんはその場にがっくりと膝をついて、それから倒れた。
「あーあ、あのおまわりさん、結婚できなくなっちゃったんじゃないの？」
ユミが言った。おまわりさんは泡を吹きながらあのへんを抑えてうんうん唸っていた。卑怯なり！＜仮面ライダー＞！
「正義は常に勝つ。はっはっはっは」
＜仮面ライダー＞は両手を腰にあてて勝ち誇っていた。いつのまにか誰かがおまわりさんに駆け寄って介抱していた。
と、ぼんやりしていたあたしの口をふさいで誰かが細い路地へと連れ込む。突然のことに叫ぶこともできなかったあたしの顔を覗き込むのはなんだユミじゃん。ユミは唇に人差し指をあてて、しっ、と言った。それから、逃げるなら今のうち、とあたしのと自分の鞄を抱えてさらにあたしの右手を引いて狭い狭い路地を駆けていく。そのうちにあたしの膝の震えもおさまってきて、汚いビルとビルの隙間みたいなところで一休み。あたしもユミも息がはずんでいた。顔を見合わせて、笑う。ユミは足元にどすんと鞄を置くとやったねとあたしに抱きついた。ちょっといつものユミと雰囲気が違うかも。まあいいやと思っていると、ユミはあたしの両肩を掴んであたしの顔をじっと見つめる。「おいおいなんのつもりだよ」とあたしがいい終わらないうちにユミの顔が急接近、ぶちゅ。
・・・しばらくそのままでお待ち下さい。
あ、あたしのりっぷばーじんが〜〜〜〜〜。あたしのファーストキスが〜〜〜〜〜。見るとユミが涙をぼろぼろ流している。泣きたいのはこっちだろうが！
「あたし、ナカヤマのこと、ずっと好きだったの。あんな＜仮面ライダー＞に取られるなんて、絶対にイヤ」
あのさあ、キミの現状認識はおかしいと思うんだけど・・・おいおい、抱きすくめるんじゃあない！
あたしはたぶん何も言わずにユミを振りほどいて走って逃げた。ユミと違う学校でよかった。たぶん、もう二度とユミとは会わない。
ああ、神様。これも試練ですか？