あるコンサートで、予定されていたすべての曲を演奏し終わった時、ほたるはピアノの上に置いてあったペーパーバックを手に取り、ステージの中央に進み出た。観客は拍手をやめ、しんと静まり返った。
ほたるはページを開き、朗読を始めた。
Now my charms are all o'erthrown,
And what strength I have's mine own,
Which is most faint: now, 'tis true,
I must be here confined by you,
Or sent to Naples. Let me not,
Since I have my dukedom got
And pardon'd the deceiver, dwell
In this bare island by your spell;
But release me from my bands
With the help of your good hands:
Gentle breath of yours my sails
Must fill, or else my project fails,
Which was to please. Now I want
Spirits to enforce, art to enchant,
And my ending is despair,
Unless I be relieved by prayer,
Which pierces so that it assaults
Mercy itself and frees all faults.
As you from crimes would pardon'd be,
Let your indulgence set me free.
ほたるがぺこりと頭を下げると、観客は割れんばかりの拍手をした。ほたるはしばらくステージの中央に棒立ちになっていたが、突然ピアノに突進して、「子供の情景」の最初の曲を弾きはじめた。
それからというもの、この朗読によってアンコールの拍手を観客に要求するようになったという。
リサイタルで取り上げられる曲はさまざまだったが、最後の年にはプログラムに即興演奏を取り入れるようになっていた。それは十二音技法的な演奏であったといわれるが、わたしにはなんだかよくわからない。
去年の冬のはじめ、ミュンヘンでのリサイタルにおいてプログラムの曲目をすべて弾きおえたとき、ほたるはシェークスピアの「テンペスト」をホテルの部屋に置き忘れてきたことに気付いた。内容はすべて暗記していたが、朗読は取りやめた。というのも、読みながらでなくては朗読でなくて暗誦になると思ったのだ。
アンコール曲を弾き終え、ほたるはホテルに戻るとバーでしこたま飲んだ。いつになく上機嫌だったという。「今日の演奏は９５点ね」とその日の演奏を自己採点していたという。それからどういうつもりかエレベーターではなく階段で部屋に戻ろうとして足を踏み外して転落死した。享年３４歳。
日本の新聞には数行の死亡記事が掲載されただけだった。現地の新聞には「日本人ピアニスト事故死」という小さな記事が載ったという。
その年の秋、わたしたちは家族で旅行をした。ほたるのスケジュールが休日と合わなかったので、平日に強行された。そのためにわたしは学校を休むはめになった。
それは一泊二日の慌ただしい旅行だった。わたしたちの訪れたのはある高原の避暑地で、秋もすっかり深まっていたためか人影はまばらだった。
二日目に父と母の思い出の場所だという"Happy valley"と呼ばれている小さな谷を訪れた。そこにはわたしたちのほか誰もいなかった。
母は突然歌うように、大きな声で、
But release me from my bands
With the help of your good hands:
といった。父が拍手をしたので、わたしも拍手をした。すると母は、わたしと父に向かってカーテンコールに答えるバレリーナのように優雅な御辞儀をしたのだった。
わざわざこんな話を最後に持ち出したのは、母が死を予感していたとかそういうことを言いたかったのではない。わたしは確信しているのだが、母は死ぬなんてまったく思っていなかったし、そのことを潜在的に予感していた、ということもなかった。
わたしが言いたかったのは、これがわたしにとっての母との最後の思い出となったということだけだ。実際にはそれ以後も母とは会っている。しかしあのときの母の優雅な御辞儀を思い出すと、それがわたしと父への別れの挨拶のように感じられてならないのだった。
（作文に対する講評。キティちゃんの便箋に書かれている）
ひすいちゃん、作文とっても楽しく読ませて頂きました。教育委員会へ訴えるって件、ＯＫで〜す。だって、あたしのパパもママも、パパとママのそれぞれのパパとママも、それから、おじさんとかおばさんとかも、みんな教育関係者で、とーぜんうちの区の教育委員会もおさえてあります。
でさあ、あたしってみんなから溺愛されて育っちゃった娘なのね。だーかーらー、ちょっとくらいあたしのことでクレームがついたって、みんなでもみ消してくれちゃうわけ。だーかーらー、無駄な抵抗はやめた方が身のためだぜ。
でさ、あなたの作文、とっても楽しかったわ。やられたなって感じかな。だってさあ、あなたのお母さんは確かに亡くなられたわけだけど、ピアニストなんて初耳だぜ。あの、エキセントリックな美女であるところのあなたのお母さんが、ピアニストだったなんて！
告白するとー、あたしさー、あなたのおかーさんと同い年なんだよね。だけど、子供はおろか、結婚はおろか、彼氏もいない。でも美人だからいーんだもんね、とは、いえないのが悲しい。あんたにあたしの気持ちがわかって？わかるわきゃねーよな。あんたも、エキセントリックな美女だもんね。
でさ、二十歳くらいでできちゃった婚して自主育児休暇の結果所帯やつれした年増女が有名ピアニストにナンパされて弟子になっちゃってピアニストとしてデビュー、なんて、ほんとだったら許せないぜ。あたしはいったいなんなの？っていいたい。そうだ、あたしがひすいちゃんの新しいママになればいいんだ！おとーさん、大学にお務めなんでしょ？将来は大学教授？うひひひひ。
失礼。で、ひすいちゃんの継母になって、毎日ひすいちゃんをちくちくといじめるの。ええい、この娘ときたら日ごとに前の奥さんそっくりになっていくじゃないか！とかなんとか影でいいながら、ご飯の中に白い碁石を混ぜたり、ステーキにはタバスコをソースの代わりにひと瓶全部かけちゃったり！考えるだけで、ぞくぞくするわ！そしてあなたは日々おどおどした娘になっていくの。そして、地下室に閉じ込めて飼育するの。そしてあなたを裸にして鞭で打つの！ああ、考えるだけでぞくぞくする！
失礼。で、作文のできなんですけど、なんかまとまりがありませんね。きっと断片の集積、というのを気取ったと思うのですけど、断片と断片に挟まれた空白の二行はたんなる枚数稼ぎにしか見えません。いかがでしょうか、図星でしょ？
あと、終わりの方でちょっとパワーが落ちてますね。最後まで気を抜かないで書きましょうね。
それから、シェークスピアの引用は、嫌みですか？あたしさあ、英語なんてぜんぜんわかんねーんだよ。卒業もそれでやばかったくらいだし。だから、こーゆーまねされるとむかつくんだよな。いったい、どういうつもりなのかしら。とにかく、日本語の対訳を添付しなさい。
あと、教師が生徒を疑って掛かってはいけないことはじゅうぶんに承知しています。で聞くけど、もしかしたらおとーさんに手伝ってもらったりした？おとーさんは大学で何を教えてらっしゃるのか知りませんけど、たとえばシェークスピアの引用なんて、あなたに考えつくなんて思えなくってさ。
それから、お母さんのことはほんとは嘘なんでしょ？そうなんでしょ？そうだとおっしゃい！
それから、今度お父様のお写真を見せてくださいな。
みわこ
（作文の講評に対する返答。学級通信の裏に書かれている）
先生、あんなにたくさんの酷評を書いてくださってどうもありがとうございました。
母のことはすべて本当です。嫉妬とやっかみで悶え死んでください。お葬式には駆けつけます。私は葬儀に参列するのがとても好きなんです。
それから、母のことも私のことも美しいとおっしゃってくださってありがとうございます。母はもう死んでしまったのですから、永久に美しいままです。私は、美しいおばあさんになる予定です。でもその前にたくさん恋をします。いえ、すでにたくさんしているのですけど。
今狙っているのは同じクラスのＭくんです。ちょっとした美少年ですもんね。でも、案外女の子からは人気ないんですよ。私にはよくわからないけど、もっと汗臭い男の子のほうが人気があるんですよね。
先生ならわかってくださると思うけど、地下室とか屋根裏部屋に閉じ込めて調教したりするのには、汗くさい男の子よりもＭくんみたいのが向いてますよね？あの白い肌を鞭打ってみたいと思う今日この頃です。
それから、先生が私の継母になるっていうのはグッドアイディアですね！私も先生のクッションに剣山を仕込んだり、シャンプーに接着剤を入れるとかして対抗したいです。考えただけでもわくわくしますね！
あと、父の写真は見せてもいいけどがっかりすると思いますよ。ただのくたびれたおっさんですから。母が死んでから、以前にもましておっさんになっちゃいました。最近ではフーゾクに入り浸っているという噂もあります。
それから、父はとても嘘つきです。それから、とんでもない奴です。先生との夜の生活を職場でしゃべっちゃうような奴です。それも、虚実取り混ぜて。それでもいいとおっしゃるのであれば、差し上げます。
あと、区の教育委員会には近いうちに刺客を放とうかと思っています。
成績は、おまかせします。
（作文の講評に対する返答に対する返答。ミッフィーちゃんの便箋に書かれている）
あらあらひすいちゃん、ご返事頂けるなんて思ってなかったからとっても嬉しいわ！
お母様のこと、本当だったのですね。許せません。
あなたのお父さんって、やな奴なんですね。でも、あたしのことを溺愛してくれるなら許します。溺愛してくれるなら、職場の人にも話せないくらいの夜の生活をして差し上げますと伝えて下さいな。
Ｍくんのことは、あたしも目を付けてました。細くて、女の子みたいなきれいな顔をして、肌が白くって。ひと月に一度くらいは病気で学校を休んじゃうのもＧＯＯＤね。あの子を裸にして鞭打ってみたい！ねえ、そのときは一緒にやりましょうね。
なんだか、あなたとは他人のような気がしないわ。もしあたしが継母になったら、すっごく楽しい毎日が送れると思うの。あなたのお父様が帰られるまで、塩入紅茶と芥子入りケーキでお茶にしたり、シャワーを浴びているときに給湯器を切っちゃったり。
で、一家団欒の後は、あなたのお父さんと寝室で朝まであんなことをしたりこんなことをしたり、もう、あたしのことを離せなくなるような、話せなくなるようなことをたっぷりするの。ああ、考えただけでうっとり！
あ、でもお父さんのことは調教しないからね。調教するのはあ・な・た。お父さんが帰られない晩は、あなたと二人でね。しましょうね。あなたのお宅に地下室はあって？
あと、伯父伯母叔父叔母には防弾チョッキを着用するようにと伝えておきました。いずれにしても、皆様自衛隊や海兵隊で訓練を積んでいる人達ですから、きっと刺客の方のほうが返り討ちになっちゃいますわね。おほほほほ。
失礼。それから成績はおまかせされます。二学期の理科の成績を楽しみにしていてね。
（作文の講評に対する返答に対する返答に対する返答。小テストの裏に書かれている）
殺す。