（夏休みの宿題。原稿用紙２５枚にわたって書かれている）
終戦記念日の日になって初めて「夏休みの宿題」のプリントを見て、わたしは愕然としました。「自由課題：書きたいことを書きたいように書くこと。ただし、原稿用紙２０枚以上」はっきりいって、先生は鬼です。いままでに私の書いたいちばん長い作文は、５枚です。いえ、正確には４枚と１行です。その５倍くらいの作文を先生は書けといいます。書かなければきっと二学期の成績にひびくのでしょうね。わたしは腹が立ってしかたがありません。
それから、先生はわたし達が受験生であるということを考慮しているのでしょうか。原稿用紙２０枚の作文を書く時間があったら、英単語をいくつ覚えることができるでしょうか。あるいは数学の問題を何問解くことができるでしょうか。
でもいちばん納得がいかないのは、これが理科の宿題だということです。作文なんかよりも問題集一冊のほうがよかったです。少なくとも、受験の足しにはなるでしょうから。
もちろん、ここまで書いたことも作文の一部です。「鬼」と書いたからといって成績を下げないでくださいね。納得が行かなければ教育委員会に訴えますから、覚悟してください。
先生は書きたいことを書きたいように書け、とおっしゃいます。ということは、いまこうして書いているみたいに、愚痴を２０枚ぶん書いてもいいのかもしれません。でも、そうして書かれたものは、読んでいて気持ちのいいものではないんだそうです。大学で教えている伯父がそういうのだから、間違いないと思います。
さて、わたしは何を書いたらいいでしょうか。実はわたしにも書きたいことがあったのです。それはママのことです。先生は御存じないかもしれませんが、ママはピアニストでした。生きているうちに３枚のＣＤを出し、百回くらいのリサイタルを行いました。母がピアニストとして活躍していたのは４年弱ですから、こんなものでしょう。
というわけで、夏休みの宿題として、ママのことを書くことにします。ほかにママのことを書いてくれる人もいないでしょうから。それからしつこいようですが、ここまでも作文の一部です。
それから、ママの名前はほたるといいます。
ほたるは４歳のときに双子の姉のきららと一緒にピアノのレッスンを始めた。どうしてそういうことになったのかはよくわからないが、双子の女の子が仲良く連弾する様をその両親が夢見たのかもしれない。
ほたるたちが習うことになったピアノの先生は、近所では「優しい先生」といことで通っていたらしい。
初めてのレッスンのとき、先生に「お母さんは外で待っていてください」と言われて母親が出ていってしまったとき、ほたるは心細さのあまり泣き出してしまった。それを優しく慰めたのが先生だった。先生はほたるに向かって優しく微笑んだ。しかし、ほたるはそれを見てますます大きな声を出して泣いてしまったそうだ。ほたるは先生の笑顔が怖かったらしい。
それからしばらく、双子の姉妹は仲良く──かどうかはわからないが──ピアノのレッスンに通った。しかし、姉のきららは小学六年生のときにピアノ教室をやめてしまった。いつのまにかほたるの方がうまく弾けるようになってしまっていて、面白くなかったのだ。きららは両親に相談もせずに「私にはピアノの才能がないみたいだからやめます」と先生に告げた。すると先生は「うんわかった。その通りかもしれないね」とうなずいた。それから、「でもいつでも遊びにおいで」と付け足したけど、きららはすっかりヘソを曲げてしまって、二度と遊びには行かなかった。
姉がリタイアしても、ほたるはそのままピアノのレッスンに通い続けた。いつでも姉と一緒というのもなんだかうっとうしく感じていたころだったので、ちょうどよい避難場所ができたと考えていたのだった。姉はいつでもどこでも妹に干渉してきていた。朝トーストを食べるとき、ほたるは蜂蜜をたっぷり付けて食べるのが好きなのだけど、姉は「虫歯になるから少しにしなさい」という。それから、もちろん一緒に登校する。きれいな花が咲いていたりして思わず足を止めてしまうと、「遅れるよ」と促される。学校ではクラスが違うのが救いだけど、休み時間になるとやってくることも多い。それで忘れ物はしなかったか、とか、一緒にトイレに行こう、とか。帰りは門のところで待っている。そして一緒に帰る。寄り道しようっていっても許してくれない。それから友達と遊ばない日は一緒に遊ぶ。友達は共通だから、どうしてもそういうことになる。晩ご飯も一緒、勉強も一緒。なにしろ部屋が一緒だから。それから、お風呂も一緒。もちろん寝るのも一緒。ときどきは同じベッドで眠る。きららは部屋の電気が消えてしまうと打って変わって意気地なしになってしまう。もうそろそろ中学生になろうという歳なのに、ベッドの中で泣きだすことがある。そんな夜は自分のベッドを抜け出て、ほたるのベッドに潜り込む。ほたるは知らん振りをして背中を向けたまま眠ったふりをする。きららはそっとほたるの背中に寄り添う。そしてじきに寝息を立て始める。ほたるはそんなきららがうっとうしくてたまらなくて、自分のベッドを出てきららの空のベッドに潜り込む。そして夜中にきららが目を覚ましてほたるのいないことに気付くと、部屋の中をうろうろして自分のベッドで眠っているほたるの横に潜り込む。こんなことが夜中のうちに何度も繰り返されることもあれば、ほたるが根負けしてしまうこともある。
朝母親が二人を起こしに部屋に入ってきたとき目撃するパターンは、ほたるのベッドで二人一緒に寝ている、きららのベッドで二人一緒に寝ている、二人とも別のベッドで寝ている、きららがどちらかのベッドで寝ていて、ほたるは自分の机のところで突っ伏している、のいずれかであって、二人一緒にどちらかのベッドで寝ていることが多いのであった。
ほたるはそのまま先生のレッスンを受け続けて音大に進学してしまった。しかし、できちゃった婚をしたのと同時に中退してしまった。もったいない気がしなくもないが、なにしろできちゃったのは私なので感謝の気持ちも大きい。
結婚した相手はまだ学生で、同い年だった。しかも幼馴染とくるから困ったものだ。いや、何も困りはしないが。
ピアノの先生は、ほたるが結婚する少し前に亡くなった。先生は喘息持ちだったのだが、その発作で亡くなった。なんでも自分で救急車を呼んで、苦しみながらも自分で救急車に乗り込んだのだそうだが、病院に到着する前に呼吸は停止したのだった。
先生は遺書を残していた。それによると、９７枚のレコードと３枚のＣＤがほたるに贈られることになっていた。遺族──先生の父親と何人かの兄弟──は快くそれらをほたるに贈った。
１００枚の内訳は、１７センチのＥＰレコード１３枚、３０センチのＬＰレコードが８４枚、１２センチのＣＤが３枚。
その内訳は、セックスピストルズあり、モーツァルトあり、津軽じょんがら節あり、といった具合だった。ほたるはそこから先生の遺言をメッセージとして受け取ったらしい。
後年そのレコードやＣＤを押し入れの中で発見した私は、「ああ、これがあの噂のコレクションか」と感涙にむせんだものだ。そしてほたるにそのコレクションに込められたメッセージとはどんなものであるのかをたずねたのだが、ほたるはわたしに説明しようともしなかった。「わかる人にはわかる」とだけほたるはいった。
ところで先生のレコードとＣＤのコレクションは膨大なものだった。ほたるに贈られたのはほんの一部だったのだ。
膨大なコレクションは遺族によって売り払われて、散逸してしまった。でもほたるは「コレクションの価値はむしろ目録にある」ということをいっていて、それ自身が散逸してしまったことはたいした問題ではないと考えていたようだ。だが、わたしにはほたるの考えていたことはぴんと来なかった。
先生は亡くなったときちょうど５０歳だった。２０代のころ何をしていたのかはほたるもきららも知らなかった。先生に聞いてもそれは秘密だと決して教えてはくれなかった。
先生の口癖は、「僕の恋人はピアノです」というものだった。ほたるは小学生のわたしに「そういえば先生の指の動きはエロティックだった」と話したことがある。
ほたるは結婚すると同時にピアノを弾くことをやめてしまった。わたしが物心付いたときには家にピアノがあったけど、それはただそこにあるだけのものだった。それにわたしはピアノに興味を持ったことなどなかった。
わたしが小学校に入学して少ししたころ、ほたるは突然ピアノを弾き始めた。玄関のドアを開けるとピアノの音がしたので不審に思ってリビングに行くと、ほたるがピアノを弾いていた。ほたるはわたしに気付くと、「ひすいちゃんが学校からかえってきました」と歌いながら即興で曲を作ってしまったのだった。それはうきうきするような楽しい曲だった。わたしはそれにあわせて踊った。
それから毎日それが続いた。フレーズは毎日変わった。「今晩のおかずは肉ジャガにしようかな、でもそれだとおばあちゃんの方がうまいな」とか、「史隆のワイシャツに口紅がついてた。でもあの史隆が女の子に持てるなんてやっぱり信じらんない、それにあたしだってまだまだ若いのよ。ふふふ見てらっしゃい」とか、「あーらひすいちゃんにもボーイフレンドができたのね。めでたいなったらめでたいな」とか。
ほたるはバーのピアノ弾きのアルバイトを引き受けるまでそれを続けてくれた。
そのアルバイトは止むを得ず引き受けたもので、本当はあまりやりたくなかったのだった。でも、ほたるの音大時代の唯一の友人に頼まれたものだったので、断りきれなかったのだ。その友人にとってもほたるは音大時代の唯一の友人だったのだ。その仕事はその友人のものだったのだが、彼が病気で倒れてしまったので、働けるようになるまで代役を務めて欲しいというものだった。
ほたるはその仕事を引き受けるにあたって、二つの条件を出した。ひとつは誰も演奏に口を挟まないこと。もうひとつは誰も演奏中に声を掛けたり邪魔をしたりしないようにすること。
結局店の側ではこの条件を飲むことにした。よほど困っていたのだろう。
最初の一週間、ほたるは普通にピアノを弾いた。しかし次の週にはそうでもなくなった。マスターは渋い顔をした。しかし客の受けは悪くなかった。
ある日、店にさる高名なドイツ人のピアニストがひとりでやってきた。彼はべろんべろんに酔っ払っていた。ある客は彼が誰であるかを見抜いて、マスターに彼の正体をそっと告げた。マスターはほたるにそのことを耳打ちしなくてはと思った。何をしでかすか見当も付かなかったからだ。
そのときほたるはショパンのスケルツォを気持ちよさそうに弾いていた。こんなときに話しかけたらどうなるか、マスターは経験的に知っていた。
あるときほたるに電話がかかってきた。かけたのはわたしだ。マスターは契約したときの条件を忘れてはいなかったが、電話なのだから仕方がないとほたるにそっと耳打ちしようとした。すると、ほたるの鉄拳が飛んできた。
「じゃかあしい」
結局わたしの電話は取り次がれなかった。
そういうわけで、マスターはほたるがそのとき弾いていた曲が終わるまで待つことにしたのだった。
ピアニストはそんな事情を知る由もなかった。あたりまえだ。ほたるがスケルツォを弾き終わるが早いか、大袈裟な拍手をしてドイツ人なのに「トレビアン」を連発しながらほたるに近づいていった。後にほたるはこのときのことを、身の危険を感じたと述懐している。
ピアニストはほたるに向き合うようにグランドピアノに寄り掛かり、囁くように「素晴らしい」と日本語で言った。それから胸のポケットに差していた赤いバラをほたるに捧げ、酒臭い息をほたるに吐きかけながら、何か言った。ほたるはよくわからなかったが、笑みを浮かべて「酒とバラの日々」を弾いた。
ピアニストはまだその場を去らなかった。ほたるはその日の最後のナンバー、「ラウンド･ミッドナイト」を弾いた。それはなかなかに素晴らしい演奏だったと後にわたしは伯母からきいた。演奏が終わって一瞬の沈黙のあと、惜し気ない拍手がほたるに贈られた。
ピアニストも大袈裟な拍手をしながら、しかも涙をぼろぼろこぼしながらほたるのすぐ横にいき肩を抱くと耳元で「ジュテーム」と囁いた。それから日本語でこういった
「やらせろ」
ほたるはピアニストを拳でぶん殴ってさんざん四文字言葉を浴びせかけた揚げ句、中指を立てて「ファッキュー」といった。するとピアニストはほたるの中指を両手で包み込み、あなたは素晴らしいと日本語でいった。
ほたるはピアニストを蹴倒すと、ピアニストに握られた中指だけで「トトトの歌」を倍のテンポで演奏した。ほかの客たちはそれを聴いて拍手喝采した。ほたるは演奏し終えるとぺこりと頭を下げて、着替えもせずにそのまま帰ってしまった。
その晩大きな声で目を覚ましたわたしは、肩も露な真っ赤なドレスを着た母親の姿を認めた。ほたるは夫にさんざん毒づいていた。いわゆる八つ当たりというやつだ。
わたしはそのときはじめて母親にコケットリーを感じた。
その翌日、ほたるは定時よりも前に店に呼び出された。店に着いてみると、昨晩の無礼な酔っぱらいがこころもち青ざめた顔でそこにいた。
ピアニストは通訳を通して前夜の非礼を詫びた。それから自分が誰であるかを伝え、もしよろしければ、いまここであなたの演奏を聴かせて頂けないだろうかといった。マスターがほたるに目配せした。ほたるは黙ってピアノの前に座った。
ピアニストはベートーベンを弾いて欲しいといった。
「申し訳ありませんが、私はベートーベンを弾かないのです」
ほたるがそういうと、では、モーツァルトを、とピアニストはいった。ほたるはモーツァルトを弾きながら、この演奏には時間外手当てが支給されるのだろうかと考えていた。
曲が終わると、ピアニストは「私のところで勉強しないか」といった。ほたるは「勉強だけなら」と答えた。「セクシャルハラスメントに及んだら、私は死にます」
それから手首の傷をピアニストに見せた。ピアニストはひどく驚いて、ゆうべの無礼はどうかお許し願いたい、といった。
「それに、私はほんとうにあなたのことが気に入った。愛してしまったのです」
ピアニストはさらに日本語で付け加えた。
「やらせろ」
ほたるがピアニストをぶん殴ったのはいうまでもない。
ずっとあとになって分かったことだが、ピアニストは「やらせろ」を「ジュテーム」と同じ意味だと思っていたらしい。なんでも日本国内で酔っ払っている時にどこかで耳にしたのだということだった。
ほたるはその夏から２年間に渡って断続的にそのピアニストのレッスンを受けた。
ほたるはケルンでデビューした。聴衆は百人ほどだったという。聴衆の三分の一はベートーベンのピアノソナタの途中で小難しい顔をして顔を左右に二、三度振ったかと思うと立ち上がり、そのまま出ていったしまったそうだ。ただし、そのタイミングが絶妙に一致していたので、彼らは不思議そうに顔を見合わせ、そして肩をすくめたという。
どういうわけか、フランスの小さなレコード会社がデビューリサイタルのＣＤを作らせて欲しいと打診してきた。それがほたるのＣＤデビューとなった。
ほたるは日本ではまったく有名にはならなかった。ＣＤも国内版はとうとう発売されなかった。
国内でのいちばんの仕事は近所の幼稚園での演奏会だった。「幼稚園の子たちは理想的な聴衆ね。どんな曲を弾いても、いい演奏の時は黙って聴くし、そうでないときはまるで聴かない」と語っていた。