じりりんという目覚ましの音で目を覚ました。午前６時。さっさと着替えを済ませて顔を洗いに洗面所へ。洗顔後リビングに行くと、ママはソファに腰掛けて待ちくたびれたという顔をしていた。わたしはおはようといった。ママもおはようといった。
「あたしはいつだって待たされてばかり。史隆はいつもあたしを待たせる。あなたができて、さあ私と結婚してと迫ったときも、史隆はちょっと待ってくれというばかり。あたしはつわりで気分が悪いのに毎日毎日史隆の家に通った。史隆は家にいることもあったし、いないこともあった。いるときにはとりあえず会ってくれた。史隆が玄関を開けたときはその場で『さあ、あたしと結婚して』と言った。史隆のお父様かお母様が出てくださったときは、『史隆さんに会わせて下さい』と言った。するとお父様にしろお母様にしろ、とても嬉しそうな顔をして、史隆、降りてきなさいと史隆のいる二階に声を掛けてくれた。そんなににこにこしている暇があるなら、早く息子さんを説得して下さいと思いながら、あたしは気分の悪いのを隠さずにずかずかと座敷に上がり込んでハンカチで口許を押さえたりしているうちに麦茶を出してきてくれるんだけど、つわりのせいかどうしても麦茶は飲めない。麦茶を見ただけで気分が悪くなってトイレに駆け込んで吐いたこともあった。でも、史隆のお父様もお母様もあたしが一度も麦茶に口を付けないのに気付かなかったのか、いつも決まって麦茶を出してくださるのね。それから、くるくる目がまわってどうしても立ち上がれなくなって泊めて頂いたこともあった。すぐ近くなのにね。小さい頃、ときどき泊めてもらってたからかもね。それであたしが寝てるところに史隆が帰ってきて、気分はどう？って聞いたりするもんだから、あんたが妊娠すればいいのにって言ってやった。だってさあ、あたしばっかりそんな目に会うなんて不公平じゃない？そうしたら史隆は困った顔して笑ってたっけ。でも笑う暇があったら結婚して欲しいって思った。とにかく、史隆ときたらいくらあたしが『結婚して』っていってもまだ学生だからとか若すぎるとかそんなことばかり言ってた。そしてとうとう、『じゃあもういい。私一人で生むから』と言ったら、わかった、結婚しようって。二ヶ月よ。二ヶ月もあたしが攻めて攻めて攻めまくって、ようやく『結婚しよう』って。どうせそう言うなら、もっと早く言って欲しかった。だってその頃にはもう夏が終わって金木犀のかおりが街に漂ってたんだもん。それで式場がなかなか取れなくって、でもあなたが生まれる頃なら取れますって。だから披露宴も式もやめにしたの。ああ、誤解しないでね。あたし、披露宴も式もどうでもよかったの。どちらかというと嫌だった。だから、それでよかったの。それで結婚が決まったら決まったで、史隆ったら『きみがあんな性格だとは思わなかった』だって！あたしはむっとして、こんな性格の女は嫌い？ってきいたら、『そんなことはないよ。でも、きみはぼくが考えていたよりもずっときららに似ていたんだね』だって。双子なんだから、あたりまえじゃない」
ママは喉が渇いたのか、キッチンへ行って水を飲んだ。それからまたソファに座ると、話を続けた。
「あたしはいつだって待たされてばかり。結婚して、あたしの家と史隆の家とほとんど同じ距離のところに史隆のお父様がアパートを持っていらして、そこをあたしたちの新居に決めて新しい生活を始めたのだけれど、史隆は来る日も来る日も帰りが遅くて、あたしは大きなお腹を抱えて不安な日々を送っていた。音大は籍を入れると同時にやめたわ。そのころになると体調は安定してきていたのだけど、史隆の帰りが遅いと、どこかで事故にでもあったんじゃないだろうかとか、そんなことばかり考えているうちに心臓がどきどきしてきて、もうどうしようもなくなっちゃって家に電話をするんだけど、お母さんやきららと電話をしているうちに史隆から電話がかかってくるんじゃないかって気がして、落ち着いて電話をしてられなかった。キャッチホン？あの頃はそんなの知らなかったし、だいたいあったのかしら？それで史隆が遅くまで何をしていたかというと、確かに大学に残っていたこともあったのだけど、ほとんどは友達と飲みに行ったりしていたのよね。酒くさい史隆が帰ってくると、あたしはすごく情けない気持ちになった。いったい、この人はあたしに心配されてるなんて想像したことがあるのだろうかって。でも、遅く帰ってきたときの史隆ってすごく優しくて、なんだか、そんなことさえどうでもいいやっていう気になっちゃったのよね。でも、それは間違っていたの」
ママはキッチンへ行って水を飲み、それからまたソファに戻って話を続けた。
「あたしはいつだって待ってばかり。あなたが生まれた次の年の夏、史隆は東北の方へ巡検に出かけた。別にそれ自体は珍しいことじゃないんだけど、出かける前からなんだかそわそわしてた。ああこれは、一緒に出かける人達の中に意中の娘がいるんだなと思った。で、あたしは史隆に言った。『好きな子がいるんでしょう？』でも史隆は『君以外に好きな子はいない』っていつものパターン。まあ、相手の子が史隆を好きになる可能性はほとんどなかったみたいだから、ほっといても大丈夫だったんだけど」
ママの話にいい加減うんざりした頃、ようやくおとーさんが死人のような顔をして寝室から這い出てきた。おとーさんは自称低血圧なのだった。
結局家を出たのは七時過ぎだった。朝の環八はいつになく空いていて気持ちがよかった。わたしは窓をあけて外の空気を入れた。十一月ともなると、朝の空気はひんやりとしていて、寒いほどだった。ママはＣＤを掛けた。朝からＺＥＰ。わなほらろらーらーぅとかって一緒になって歌ってる。ママは高校生のときバンドを組んでいて、この曲をよく演奏していたらしい。ママはピアニストだというのに、なぜかドラムを叩いてたらしい。
おとーさんはいかにも不機嫌そう。ほんとは不機嫌じゃないのに。ほんとはわたしよりもママよりもうきうきしている。
八時をまわる頃には練馬インターへ。そろそろ小学生とか中学生とかが登校し始めている。わたしはここでこんなことをしていていいのか？学校へはおばあちゃんが「風邪です」って連絡することになってた。そのことで、おばあちゃんもうきうきしている。ついでに、おじいちゃんもうきうきしてた。おじいちゃんもおとーさんも人を教える立場にあるのにこんなことでいーのか？でも、学校をサボるのってなんだかどきどきする。きっと、おとーさんもママもどきどきしているに違いない。
にしても、平日の午前中の光ってどうしてこんなに優しいんだろう。学校にいるとぜんぜん感じないんだけど、風邪を引いて家にいたり、こうやって学校をサボってたりしてると、すごくそう思う。
昼前には「Ｋ村」に着いた。おとーさんは、この地を「Ｋ村」と呼んでいた。でも、ママはおとーさんがそう呼ぶのが嫌いだ。でも、わたしもおとーさんに倣って密かに「Ｋ村」って呼んでいた。来るのは初めてだったんだけどね。
とりあえず今宵の宿に向かう。おとーさんの大学の研修施設。ほんとは遊びに来ただけなんだけど、名目は研修とかなんとか。世の中というのはそういうものらしい。
そして今晩宿泊予定なのはわたし達だけ。ラッキー。宿舎全体をわたし達だけで独占できるってこと。
にしても、十一月とは思えないほど寒い。やっぱり高原は違うね。あたりの木々はすっかり葉を落してたし、宿舎の庭にあった栗の木は、イガイガも全部振り落としちゃってて、しかも中身はほとんどなくなっちゃってた。きっと誰かが拾っちゃったんだと思う。落ちてるイガイガを片端から靴で踏んで中身を確かめるんだけど、みんな空。ちょっと寂しい。
でもイガイガが全部落っこっちゃってるってことは、もう上から降ってくるってこともないわけで、そう考えるとラッキーなのかもしれない。けど、やっぱり悲しい。別に栗を拾って食べたいってわけじゃないんだけどね。おサルじゃないし。
わたし達は車と荷物を置いて、お昼を食べに駅の方へ向かってぶらぶら歩いた。今朝菓子パンを食べてからずいぶん時間が経っていたから、おなかがぐーぐーいってる。
駅前はなんとなくひと気がなかった。
「おととしのこの時期に来たときにはもっとたくさん人がいたのになあ」
おとーさんは途方に暮れたようにそういった。
「でも、食べる場所くらいあるんじゃないの？あっちの方に人がたくさんいそうだよ」
わたしは自分たちの立っている場所よりは賑やかそうな通りの方を指差した。
「おやきが食べたい」とママが言った。駅へ来る途中においしそうなおやきを店先で焼いている店があって、そのことをいっているのだった。でもおとーさんが「そういうんじゃないのが食べたい」といってその意見を却下して、ここまで来たのだった。
でも駅前まで来てみたら寒々としていて、あのおやきよりもおいしい食べ物にありつくことはないんじゃないだろうかって気分に、わたしもなっちゃったのだった。
「わたしもやっぱりおやきがいい」
そういうとおとーさんは「裏切り者め！」とわたしのことを糾弾した。
「今頃気付いたのかね、史隆くん」
わたしは含み笑いをしながら答えた。
その日はどういうわけか全員が全身を黒でコーディネートしていていて、しかもサングラスを掛けていたりなどしていたので、かなりアヤしかったかもしれない。晩秋の「Ｋ村」を闊歩するアヤしい三人組。
わたし達はおやきを食べながらメインストリートを外れ、別荘地へと踏み込んだ。森っていうよりも、林の中って感じかな。木がすっかり葉を落したところは明るくて、そうじゃないところは薄暗い。あたりまえか。
人も車もぜんぜん通らなくて、どの別荘にも誰もいないみたいだった。きっと、優雅な人達が夏だけやってくるんだね。
ある別荘の前で、おとーさんが足を止めた。そしてそのお化け屋敷みたいな建物をしげしげと眺めてから、こうおっしゃった。
「この建物、ほたるの実家と似てない？」
「ぜんぜん！」
わたしとママはハモった。ユニゾンにならなかったのがなんとなく嬉しい。
「そうかなあ。似てるよ」
「ぜんぜん」
ママはもう一度否定した。おとーさんは無神経だから、自分が何を言っているのかわかっていないのだ。
「うーん、そうかなあ。でも、この建物は素敵だなあ」
わたしとママは顔を見合わせると先へと歩き始めた。
「おい、ちょっと待てよ。ここで記念写真を撮ろうよ」
わたしとママは再び顔を見合わせて苦笑した。
今日になってからおとーさんの意見はほとんどが却下されていた。まあ、それは偶然なんだけど。そして、こんな場所で記念写真を撮りたいってのがすごくおとーさんらしかったので、わたし達はおとーさんの提案を受け入れることにしたのだった。
で、誰か通り掛かったら写真を撮ってもらおうかと思ったんだけど、誰も通りかかりそうになかった。道のずっと向こうまで、人や車の気配がまったくないのだ。
「それじゃああそこにカメラを置いて、セルフタイマーで撮ろう」
おとーさんが指差す向かいの別荘の庭先には小鳥の餌台らしきものがあって、確かにそこにカメラを置けばちょうどいいかもしれなかった。
おとーさんはハードルほどの高さの柵に片手を掛けてひらりと飛び越そうとしたのだけど、片足が柵に引っ掛かってあえなく転倒。と思う間もなくおとーさんは飛び上がった。
「いてーっ」
「どうしたの？」
ママはびっくりしておとーさんに走り寄った。わたしはそれが美しき夫婦愛、って感じがしたからすかさずシャッターを切った。ぱちり。
おとーさんは左手を私たちの前に差し出した。するとじきに、手のひらにぷつぷつと小さい赤い点がいくつも出現した。
「手をついたところに栗のイガがあったらしい」
おとーさんは泣きそうな顔をしていた。わたしはそれもぱちり。
「ヤな娘だな」
おとーさんはいかにもいやそうな顔をした。その顔もぱちり。ママは「うー、かゆいよー、ねえ、引っ掻いていい？」なんて言ってる。その顔もぱちり。確かに、手のひらの赤いぷつぷつは見た目がとってもかゆい。それもぱちり。
それから、柵を乗り越えておとーさんが倒れたあたりを調べてみると、栗のイガイガがたくさん落ちていた。もちろん、全部空のやつ。それもぱちり。するとおとーさんがわたしの手からカメラを奪って、柵に腰掛けて見返り美人を気取っているママをぱちり。その次の瞬間、ママはバランスを崩して悲鳴を上げながら後ろにひっくり返る。おとーさんはその運動神経からは考えられないほどのスピードでママに駆け寄るけど、ママが落ちる方が少しだけ早い。で、おとーさんの取った戦略というのはママの下敷きになること。わたしはおとーさんが放り出したカメラをキャッチ、そして「おとーさんの上に落下したママ」をぱちり。ママは自らの醜態をフィルムに収められたことを悟ると、すぐにわたしを追いかけてきた。「こら待て、性悪娘！」もちろんわたしは全速力で逃げる。柵のそばに取り残されてるおとーさんは動かない。失神してるのかもしれない。わたしは木の根につまずいてあえなく転倒、カメラを放り出す。ママはそのカメラを奪って哀れな娘の無様な姿を嬉々としながらぱちり。それから取って返して、むっくり起き上がってからだじゅう落ち葉だらけのおとーさんをぱちり。よろよろとそっちへ近づいていく娘をぱちり。「ははははは。落ち葉まみれの親子」そしてわたしとおとーさんを並べてぱちり。それからわたし達は落ち葉を払い落して、最初の予定どおり餌台にカメラを置いて、三人並んで「はい、チーズ！」
それから別荘地の中をふらふら歩き回って、宿に戻ったのは午後三時頃。秋の日は釣瓶落としなんていっても、日が暮れるまでにはまだちょっと時間がある。宿でごろごろするのもつまんないということで、わたし達はその辺をドライブすることにした。といっても行くあては特になかったし、旅行ガイドもなんにも持ってきてなかった。あるのは道路地図だけ。国道を西へ進むんだけど、低い太陽がまともに車内に差し込んできて、眩しい。
「ふふふふふ。こんなときのために私はサングラスを持ってきたのさ」
おとーさんは得意げに言った。私はサングラスを宿に置いてきたことを後悔した。でももちろん「さすがは用意周到なおとーさま」なんて思ったりはしない。私もママもよくわかっていることだけど、単なる偶然だ。でも、ママがサングラスを掛けたままでいるのはあるいはこのことを予測していたのかもしれない。でも違うかな？
テニスコートがあるところでは視界がぱっと広がって、例の火山がよく見える。煙を吹いてることもあるらしいけど、よくわからない。いまあれが爆発したらすごく恐いだろーな。
「この山は私が高校生の頃に噴火したことがあって、東京にも火山灰が降ったことがあるんだ」
「そうそう、昼寝してたらいきなり電話が掛かってきて、『庭の植木の葉の表面をよく見て。うっすらと火山灰が積もってるから』なんていうのよね。そのときは『はいはい』とかいってまた寝ちゃったんだったっけな？」
「そ、そうだったのか？」
「うん。だって眠かったんだもん」
「薄情なお方」
「きみにそこまでつきあう人なんて誰もいないよ」
「昭彦は文句を言いながらもよく付き合ってくれたものだ」
「それなら昭彦くんと結婚すればよかったじゃない」
「でも日本の法律でそれは難しいな」
「愛があれば法律なんて」
「それは正論だね」
「スリランカ？」
「それを言うならウバ」
「姥？」
「そうそう」
お二人のあほらしい会話を拝聴しているうちに、わたしはどうしようもなく眠くなってしまったのであった。当然でしょ。
･･････気がついたら車は停止していて、おとーさんもママもいなかった。外へ出ると、強い風が吹いていてとても寒かった。あたりは広々としていて、道の片側は畑で、反対側は枯草の生い茂る野原で、ずっと向こうに山がシルエットで連なっていて、太陽の姿はもうどこにもなかった。よーするに日が暮れちゃったらしい。
そこは長いだらだらした上り坂で、車のあるところから百メートルくらい上ったところにおとーさんとママがいた。おとーさんったら、ママの肩なんて抱いちゃってさ、太陽の沈んじゃったらしいあたりを眺めていた。ちょっと近寄り難い雰囲気だったから、私は車の影にしゃがみこんで空を眺めた。すみれ色に暮れなずむ空。高い高いところに刷毛で履いたような雲が見える。ここからあの雲までの距離は十キロもないはずなんだけど、無限に高いところにあるように見える。そう、ここから見ている限りではあの雲も百万光年離れたところにある星雲も同じ。決して手が届かない。飛行機に乗ればとかスペースシャトルに乗ればとか、そういう問題じゃない。いま、ここにいて手が届かないものには永久に届かないんだ。
自分でもバカみたいって思うんだけど、そういうことを考えると泣けてきちゃう。袖でそっと涙を拭く。我が衣手は露に濡れつつ、なんちゃって。車の影からそっと二人の様子を伺うと、まだ並んで日の暮れた方を眺めてる。そろそろ寒くなってきたよ。帰ろうよ。
私は車の中からそっとカメラを取り出すと、ファインダーを覗きながら忍び足で二人の方へ近づいた。あと三十メートル、ってとこで二人一緒にこちらを向いた。もちろんその瞬間を逃しはしない。ぱちり。ストロボが光った。
二人は並んで私の方へ歩いてきた。私は笑おうとするんだけど、なぜか笑顔がうまく作れない。だから、もう一度カメラを構えた。そうすれば顔が少しは隠れるから。
二人は三メートルくらいのところでブイサインを作った。ぱちり。この人達も、こんな笑顔を見せるんだ。
「じゃあ、今度は僕が撮るから、ひすいとほたる、並んで」
おとーさんにカメラを手渡す。顔を隠すものがなくなったので、ちょっと焦る。でもママが私を抱き寄せてくれたら自然に顔がほころんだ。なんて単純なわたし。
ぱちり。
それからこんどはわたしとおとーさんが並んでぱちり。この光景をどっか遠くから見てたら、すっごく変かも。畑の向こうで何かが光っているのを目撃。その時間、その場所で農作業をしていた人は誰もいなかった。宇宙人か？
それから今度は車のボンネットにカメラを置いて、三人並んで「はい、チーズ！」
夕食は駅の近くのホテルでディナー。平日で、しかもオフシーズンのせいか、埋まっているテーブルはわたし達のを含めて三つだけ。おとーさんもママもワインを飲んで上機嫌だった。おいおい、短い距離とはいえ、まだ車を運転するんだろ。
もちろんわたしはワインを飲ませて貰えなかった。車を運転する可能性がないのはわたしだけだというのに。あ、でもママも免許は持ってなかったんだっけ。
研修施設に帰る途中の車の中で、わたしはおとーさんに聞いた。
「ねえ、どうしてさっきのホテルに泊まんないで、おとーさんの大学の施設に泊まるの？うちがびんぼーだから？」
「お金持ちとは言えないけど、一年に一度家族旅行でホテルに泊まるくらいのお金はあるよ」
おとーさんはそう答えた。
「じゃあ、どうして？」
「ひすいはホテルの方がよかった？」
ママがそう聞いてきたので、わたしは正直に「うん」と答えた。だって、あれはなかなかいい雰囲気のホテルだったぞ。でもそう答えたらおとーさんもママも黙ってしまったのだった。
「ねえ、どうして黙るの？」
しばしの沈黙の後、おとーさんがそれに答えた。
「あとで、部屋に戻ったら話すよ」
そしてわたし達は宿舎に帰りつくまでひと言もしゃべらなかった。