シーズン真っ盛りだったせいか、本当なら優雅なひとときを過ごせるはずのカフェテラスはやたらに混雑していてちっとも落ち着けなかった。もう少しで相席をさせられそうになったりして、あたしはかなりうんざりしていた。しかも、相席を断った後のウエイトレスの応対がなんだか刺々しくて、さらにうんざりしていた。そこのケーキも紅茶も信じられないほどおいしかったけど、店員教育は信じられないほどひどいなと思ったのだった。
そして空になったカップに紅茶を注いでいたとき、今度は誰か男の人が「相席いいですか？」と声を掛けたのだった。あたしはそのままゆっくり紅茶を注ぎ終え、ポットにティーコージーを被せてからようやく顔を上げた。あたしなりの嫌がらせのつもりだったのだ。
しかし、そこに立っていたのはウエイターではなかった。その人には、見覚えがあった。
なんて言い方はよそう。あたしはすぐにそれが誰かわかった。いや、たぶん声を聞いた瞬間にわかっていた。ただ、それを相手にも、そして自分自身にも悟られたくなくて、いや、もっと正直にいうと自分にこそ悟られたくなくって、「あたし、ぜんぜん気付かなかったわ」という演技を自分自身に対してしていたのだった。
でもあたしは結局「どこかでお会いしましたね。どちらさまでしたっけ？」などと、自分自身には見え透いた嘘を付いたのだった。
「昭彦です。覚えてませんか？確か５月頃にお会いしましたよね」
「ああ、思い出しました！」
あたしは、このバカ！と内心自分に悪態を付いていた。バカバカバカ。ほんとはその日付さえも言えたのに。でもそれがとてつもなく恥ずかしいことのように思えたのだった。
「ここ、座っていいですか？」
「ええ、どうぞ」
どういうわけか、あたしは昭彦に恋してるかもしれないとさえ考えなかったのだった。それはあとから考えるとほとんど奇妙なことだった。
あたしはたぶん十代の初め頃からずっと失恋し続けていた。相手は幼馴染のとんでもない大バカ男で、結局双子の妹に取られてしまったのだった。昭彦はその大バカ男の親友ともいえる人物らしいのだけど、二人が友達になったのは大学に入ってからのことで、その頃はその大バカ男と会う機会も激減していたので、噂話には聞いていたのだが、実際に会うことになったのはほんの三ヶ月前のことだった。
で、その大バカ男に失恋し続けているうちに、それがすっかり慣れっこになってしまっていて──かといって苦痛が減るわけでも、なくなるわけでもないのだが──、他の誰かを好きになるかもしれない、なんて考えたこともなかったのだった。あたしの生涯は、妹を幸せにして、弟みたいな大バカ男の「姉」に徹することで終わるのだと、なんとも陰惨な見通しを立てていた。
初めて昭彦と会ったとき、その大バカ男も一緒だったし、ビールを飲んだりしちゃったということもあって、ぜんぜん気取りのない出会いだった。そのときの昭彦はそんなに魅力的であるようには感じられなかったのだが、それでもなんとなく気にいっていたのかもしれなかった。
そのときの昭彦の印象は華奢っぽいわりにはワイルド、というわけのわからないものであったが、こうして差し向かいでお茶を飲んでみると、華奢で繊細という印象だった。色白で、指が細くてカップを持つ手がなんとも優雅だ。大バカ男だってごつい方ではないが、昭彦はそれよりもずっと線が細い感じだった。
高原のカフェでお茶をする相手としてはなかなかのものではないか、と思った。なんでも文学を専攻しているらしいし。
そうか「文学青年」なんだ、と思うと、どういうわけかあたしのほうが照れてしまった。
昭彦はあたしの知らない小説の話をいろいろしてくれた。あたしのほうはただ頷いているばかりで、やたらにお茶を飲んでばかりいた。その一方でケーキはぜんぜん食べられなくて、きっとお腹がいっぱいになってしまったのだなんて思ったのだった。
で、お茶ばかり飲んでいたものだからトイレに行きたくなってしまったのだけど、それをなかなか切り出せなかった。それはなにか失礼にあたることで、だから言い出せないのだとあたしは考えようとしていて、十代になったばかりのガキどもだって感じないような純情に陥っているとは考えもしなかったのだった。
カフェテラスに落ち着く直前まで、あたしは大バカ男の浮気に苦しむ妹の手助けをしてやっていた。そのことがずっと気になっていたはずだったのに、すでにそのことをほとんど忘れていた。それに、よく考えると昭彦だってその片棒を担いでいたのだ。なのに、その話はそこにいるあいだ一度も出なかった。昭彦はあるいは遠慮して語らなかったのかもしれないけど。
「もしよかったらいっしょに散歩でもしませんか？夕方までは暇なものですから」
昭彦のその申し出を、あたしは一瞬断りそうになった。断らなかったのは、断るためのいかなる合理的理由も見つけることができなかったからだ。後から考えると、それはとても運の良いことだった。なにしろその頃のあたしといえば、ありとあらゆる幸運や幸福を遠ざけ続ける努力をしていたのだから。たぶんそれは失恋し続けるあたしが生きていくための唯一の方法だったのだ。
それからあたしたちは落葉松林の中を散歩した。あとから考えると笑っちゃうような「避暑地の恋」だったのかもしれないけれど、そのときのあたしは必死だった。会話を途切れさせないように、毒舌を挟まないように、早く歩き過ぎないように、遅く歩き過ぎないように、転ばないように、そして昭彦が何を考えているのか、何を欲しているのか、等々。必死過ぎて、全部うまくいかなかったのだけど。会話はあたしのせいでしょっちゅう途切れたし、とんでもないことを言っちゃったり、いい雰囲気の小道をなぜかせかせか歩いちゃったり、大嫌いな人ごみではなかなか前に進めなかったり、ちょっとした段差で転んだり、そして昭彦が何を考えているのかも、何を欲しているのかも、ぜんぜんわからなかった。でも、昭彦は少しもそんなことを気にしている様子はなかった。でもそのことがかえってあたしを落ち込ませた。いったいその散歩のあいだ、何度死にたいって思っただろう！
でも、そのときのあたしはそれまでの人生のすべてを補って余りあるほど幸福だったのだ。たぶんあたし達は見ているほうが気恥ずかしくなるようなうぶなカップルだったのだと思う。
しばらく歩き回ってメインストリートに戻ってきたとき、アイスクリーム屋の前に行列のできているのに出くわした。
「アイスクリーム食べる？」
「うん」
十分ほど行列に並んでアイスクリームをゲットしたあたし達は、駐車場の柵の前の縁石に並んで座った。目の前を通り過ぎるのは人の脚、脚、脚。
「これって、子供の視線だよね」
「うん、そうだね」
「なんか、子供の頃のことを思い出すよね」
「うん」
でもあたしは子供の頃のことなんてひとつも思い出してはいなかったのだった。とにかく、その場をなんとか切り抜けていくのが精一杯だったのだ。
あたしはアイスクリームを手に持ったまま、ずっとそうしていたいかも、なんてちらと思ったのだが、そういうわけにはいかなかった。アイスクリームはどんどん溶けるし、時間は過ぎていくものだから。
半分溶け掛かったアイスクリームは妙に甘ったるくって、そこがまた美味しかった。
「こんなに美味しいアイスを食べられるなんて本当に幸せなことなのかもしれない」みたいなことをあたしは言ったのだけど、それは別な感情を知らず知らずのうちにすり替えた、あるいは翻訳したものだった。しかしそのときはそのことに気付きはしなかったのだ。
その、バカみたいに幸せな一日は、そうして終わったのだった。そしてどこまでもバカヤロだったあたしは、その恋を実らせるのに気の遠くなるほどの時間を費やしてしまったのだった。なにしろそれを恋と認識するのに一年、付き合いはじめるまでに数年、そして結婚するまでにはさらにまた年月を重ねなければならなかったのだ。
そして昭彦は、そのすべてのプロセスに忍耐強く付き合ってくれたのである。