史隆が浮気しているんじゃないかと思ったのは、いつもなら何も言わずに、でもちょっと楽しそうに出掛けていく合宿に、妙に「行きたくない」を連発して、でもなんだかそわそわしているように感じられたからだった。史隆の浮気はこれまでにも何度かあったのか、それともそれは浮気ともいえないようなものなのか私には判じかねたのだが、とにかく、そういうことは何度もあった。そのたびに私は悲しかったり怒ったりしていたのだけど、史隆にそういう気持ちが通じていたのかどうかはよくわからない。
本当のところ、私は結婚することによって音大をやめたくはなかった。自分でいうのも何だが、同期の中で私は抜きんでていた。これは自惚れでも何でもなく事実だ。ある程度の耳を持っていれば一目瞭然、というか一聴瞭然だった。
最初、結婚するということを、指導してくれていた先生に話したとき、学校をやめなさいとか、そういった話はまったく出なかった。だが、実は妊娠五ヶ月なんですということを告げた途端、やめなさい、とさえ言われずに、あたかも私からやめますと言い出したかのようにことが進んでしまったのだった。
妊娠しますと告げたことが、あるいは「やめる」という宣言であると捉えられてしまったのかもしれない。でも、それならそれで仕方ないかなとも思う。それに、本当にやめたくなかったら、私のほうからそれを否定することだってできたはずだから。
子育てをするために大学もピアノもやめた、というのは不本意なことであったとはいえ、実際子育てに専念してみると、ややピアノに食傷していた私には、考えても見なかったほど新鮮な毎日だった。だから、大学をやめた経過について不満が残るにしても、結果としては、そんなに悪くない選択だったと思っている。
けれども、私たちの子供であるところのひすいの世話を史隆よりも優先するようになると（それは当然のことだと思うのだが）、史隆はすぐに私以外の女を追い回しはじめた。最初私はそのことに気付かなかったが、あんまり酷いというので双子の姉のきららが私に教えてくれたのだった。
史隆は私の妊娠中でさえそんなに優しくはなかった。出産後しばらくは妙に優しかったが、どうやらその頃から他に女がいたらしい。いや、それがいわゆる「女がいる」という状況であったかどうかはよくわからないのだが、心ここにあらずという状況であったのは間違いないと思う。
つまり、私の結婚生活は当初からあまりにバカバカしいものだった。あまりにバカバカしかったので離婚なんて考え付かなかったほどだ。
そして今また、史隆は私の気持ちを踏みにじろうとしている。これまではどうしたらいいのかよくわからなかったということもあっておとなしくしていたのだが、今度はもう許せない。行動するのだ。
そういうわけで、私は史隆の浮気の現場を押えることにしたのだった。私は史隆が宿泊する予定の大学の施設に潜入することに決めた。でも私は部外者なので、そう簡単に潜入することはできないような気がしていた。しかし、史隆の友達の昭彦に電話で相談すると、出来ない相談ではない、という答えが帰ってきたのだった。
昭彦はアパートにひとり住まいだった。確か出身は青森あたりだったと思う。
私は史隆が大学に行っている隙に昭彦に電話を掛けた。そんな時間には部屋にいないだろうということを半ば期待していたのかもしれない。もし昭彦がいなければ、私はその計画を考え直すかもしれない、と考えていたのかもしれない。
だが、昭彦は自宅にいた。論文の下書きの下書きをしているのだと言った。
「で、何か用ですか？」
「あのね、昭彦くん達の大学の研修施設って、部外者でも泊まれるの？」
「確か、夏休みを除けば、それなりの手続きをすれば泊まれるはずです」
「夏休みはだめなの？」
「学生や教職員が使うから、たぶん余裕がないんだと思います」
「どうしても？」
「旅行で使いたいんですか？」
「ええ、まあ」
「それなら、あんなところよりもいい宿泊施設がたくさんあると思うんですけど、あのあたりには」
「やっぱり、だめ？」
「そう言われても・・・大学職員じゃないですから」
「そうだよねえ」
「どうしてあそこに泊まりたいんですか？」
私はひとこともしゃべる気なんてなかったのだが、史隆とのことを洗いざらいしゃべってしまった。しゃべっているうちに泣けてきて困った。泣くなんてまったく予想もしないことだった。まるで浮気夫に泣かされている貞淑な妻みたいだと思った。あるいは泣き落としみたいだとも思った。どう取られてもいいのだけれども。
泣いたのが効いたのかどうか、昭彦は「わかりました。なんとかしましょう」と言ってくれた。だが受話器を置いてからおもいきり後悔したのだった。これまでにしたことのないような恥ずかしいことをしようとしているのではないか。だが、同時にかなりそわそわうきうきしてもいた。他人からはずいぶん変わり者だとかなんだとか言われてきた私だが、その実普段の生活を踏み外すようなことはほとんどしたことがなかった。予定外の妊娠だって、決して踏み外したわけではなかった。あれはただそうなってしまったというだけのことで、自ら踏み外そうとしてしたことではなかった。
そして、いつの間にかどんどんことが進んでいってしまったのだった。もちろん史隆には内緒で。そしてどういうわけかきららもこの件を嗅ぎつけて、関ることになってしまったのだった。
計画の概要はこうだ。史隆が研修施設に滞在するのと同じ期間、昭彦の所属する研究室の合宿が同じ場所で行われる。そしてそのうちのひとりとして私が研修施設に宿泊する。つまり、学生の名前を借りて宿泊するのだった。というわけで、私は三日間だけ「エリちゃん」になりすますことになった。男子と女子は別棟なので、うまく行動すれば史隆に気付かれないで済みそうだということだった。
ひすいは両親にいろいろ理由を付けて預かってもらうことにした。
そして、きららも研修施設の近くに部屋を取ったのだった。きららにはいろいろ手伝って貰う手筈になっていた。
計画が実行に移される時が迫ってきていた。だが史隆はそんなことにぜんぜん気付いていないらしかった。というよりも、心ここにあらず、という感じだった。食事が済むとすぐに寝室へ引っ込んで論文を読んだりするのが日課となっていた。２Ｋのアパートで書斎など持てるはずもなく、私やひすいのいない部屋が自動的に書斎になるのだった。史隆はほとんど私のことを避けているみたいだった。いちどそう聞いてみたことがあった。すると、そんなことはないよ、合宿で学部学生の発表を聞いてそれなりのコメントをしたいから、自分の研究以外の分野についても勉強しているんだと答えたのだった。
でも、背中がうきうきしているようにみえた。気のせいかもしれないのだけれども。
その日は朝からいい天気で、気温もかなり高くなりそうだった。
私は興奮してよく眠れなかった。子供の頃から、旅行に行く前の晩はよく眠れなかった。しかし対照的に史隆は夕べよく眠っていた。本当に、羨ましいことだと思う。
朝だというのに、気温は三十度を越す勢いだった。
「でもまあ、向こうは涼しいからいいや」
史隆はいつものように人の神経を逆撫でするようなことを言う。東京に残される私やひすいのことなど眼中にないのだ。いつもならそのことを指摘するくらいのことはするのだが、今回はできなかった。なにしろ私だって史隆に嘘をついているのだから。やっぱり嘘は苦手だ。もし史隆がわざとああいう無神経なことを言っているのだったら、あるいは私の態度がいつもと違うことに気付いているのかもしれない。それならそれで、仕方ないとも思う。私はどうしても人を騙すようには出来ていないのだから。それが、私と史隆との大きな違いだ。
史隆は鞄ひとつだけを持って出掛けていった。いつものように、駐車場までは送らない。私は玄関のところでひすいに手を振らせた。
「パパ、いってらっしゃい、って言いなさい」
「ぱぱ、いてらさい」
「はーい、ひすいちゃん、いってくるからね。おみやげ買ってくるからいい子にしてるんだよ」
「あーい」
それから史隆はいつものように「じゃあ、行ってくる」と私に言った。私は行ってらっしゃいと答えた。
さあ、行動開始！まずは実家に電話。予定通りきららが出る。
「おはよう。史隆出掛けた？」
「うん、いま出掛けた」
「じゃあ、迎えに行くから」
ひすいが横から受話器を奪う。
「・・・」
「あ、ひすいちゃんだね」
ひすいは黙ったまま頷く。
「『おばちゃん』って言ってごらん」
「おいおい、『おばちゃん』はないだろ」
ひすいの持っている受話器からきららの大きな声が響く。ひすいは驚いて私に受話器を返した。
「・・・もしもし、じゃあ、待ってるから」
「ＯＫ！」
電話を切って、ひすいの着替えやおもちゃを二つのバッグに詰め込む。こういう作業は史隆がいる時には不審に思われるだろうということでできなかったのだ。しかし、ひすいが余計な手伝いをしてくれるので、ちっともはかどらない。はかどらないどころか、おもちゃを引っ張り出して遊び出す。どういうわけか最近お気に入りのカメラのおもちゃを引っ張り出すと、それを構えて私の顔面ぎりぎりまで近寄ってきてにた〜っと笑う。その顔が史隆そっくりだ。
間もなくきらら到着。
「悪いね」
「いや、どうせ夏休みで暇だから。内定も出たし」
ほたるの相手をきららにまかせてさっさと荷作りを済ませる。それから今度は自分の荷物を揃える。こっちは史隆に内緒でたんすの中に小分けにしといた衣類や化粧品やらを鞄にまとめるだけ。それからジーンズとＴシャツに着替える。こういう格好なら、学生っぽくて目立たないだろうと思ったのだ。それから、史隆の本棚から本を三冊ほど抜き取って鞄に放り込む。本くらい持っていたほうが学生らしいだろうかと思ったのだった。本のタイトルはそれぞれ『地形分析』『日本近代文学の起源』『歯車・他二篇』。『歯車・他二篇』だけは文庫だ。史隆の合宿に合流しても昭彦の合宿に合流しても大丈夫そうなラインナップ、のはずだが、きっとハズしているのだと思う。
きららと手分けして三つの鞄とひすいを抱え、アパートの前に止めてあるほたるの車に放り込む。ひすいはすごくはしゃいでる。それを見て、心臓がきゅんとなった。心が痛んだって言うよりも、そういう感じだった。
ごめん、ひすい。私は心の中でひすいに手を合わせた。でも素振りには見せなかった。
実家までは徒歩十分、車で五分。まずは三人で上がり込む。おじいちゃんおばあちゃんとはしょっちゅう会っているのだけれども、きららも含めて大人四人が顔を揃えることは滅多になかったせいか、ひすいは大はしゃぎだった。
私は、間違ったことをしようとしているんじゃないかって思った。ひすいを置いていくなんてどうかしている。今ならまだ間に合う。史隆が浮気しようが何しようが、構わないではないか。
いや、それはやはり我慢がならないことだった。きららが私のことを軽く小突いた。私は目だけで合図した。ひすいはおじいちゃんの「写真」を撮るのに夢中になっていた。私はトイレに行くね、と母親に言った。そして静かに玄関を出て、車の中で待った。十分ほどして、きららも出てきた。
「さあ、今のうち、行くわよ」
きららはエンジンを掛け、車を出した。そのとき、後ろから「ママ！」という声がした。ひすいが玄関から駆け出してきた。すぐに父親が追いかけてきて捕まえてくれたけど、ひすいは狂ったように「ママ！ママ！ママ！ママ！ママ！」ともがきながら叫び続けていた。私はリアウインドウ越しにその様子をずっと見ていた。目を逸らすことなんてできなかった。
「ごめん、ひすい・・・」
私は両手で顔を被った。
「泣きたければ、泣けば？」
「いや、泣かない」
実際、心臓が締め付けられるような、いや、心臓が締め付けられていたのだと思うが、泣けてくるようなことはなかった。泣くようなことでもないと思うし、泣いたりなどしてはいけないのだと思った。泣くくらいなら、こんなことをしてはいけないのだ。ひすいと一緒に東京に留まるべきなのだ。
このことで、私は母親として失格してしまったのかもしれない。それとも、悪い母親、というところに留まることができるのだろうか。
しかし、史隆のことを思い出すと、そういう煩悶は別な性質のそれへと変化してしまうのだった。これは嫉妬なのだろうか？それとも単なる憎悪？どちらでもいい。とにかく、現場を押えて史隆をぎゃふんと言わせてやるのだ。
きららがテープを掛けた。スピーカーから流れてきたのは"WHOLE LOTTA LOVE"。この曲を高校の文化祭でやったのも、遠い昔のことだ。私はドラムスを担当していた。どうしてもドラマーが見つからなくて、中学の時にバンドでドラムを叩いていたことのあった私に声が掛かったのだった。
以前はこれを聴くと活力が漲ってくるような気がしたのだが、今日はどうもだめみたいだ。
「ねえ、なんか違うの掛けてくれない？」
「あれ、ほたるツェッペリン嫌いになったの？」
「うーん、そういうわけじゃないとは思うんだけど、今はこの曲は駄目みたい」
「じゃあ、何がいい？」
「"HOUSES OF THE HOLLY"ある？」
「うん、あるよ。ツェッペリンは全部持ってきた」
私は二曲目の"THE RAIN SONG"が無性に聴きたかった。こんなによく晴れているというのに。にしても、こんなロマンティックな曲がいいと思うなんて、いいかげんヤキがまわったのだろうか。"THE SONG REMAINS THE SAME"が終わって、"THE RAIN SONG"が始まった。私は目蓋を閉じた。完全に世界に浸り切りたかったのだ。車内はそろそろエアコンが効いてきていて、涼しくなりはじめていた。
寝不足の頭に、"THE RAIN SONG"はあまりに心地好かった。そうして、私はいつ知れず眠りに落ちていったのだ。