（２）

昭彦と一緒に車を降りて「お気に入り」の河原に立った。右岸には丈の高い植物が繁茂していた。以前と同じだ。一方、こちら側、すなわち左岸は一面礫で覆われていて、河岸から離れた所で多少植生が見られる程度だ。これも以前と変りはない。

礫におおわれた河原を下流方向に歩いていくと、屈曲した流路に沿って河原も曲がっている。しばらく歩くと降りてきたあたりの河原は崖に遮られて見えなくなる。そしてこのあたりにはポイントバーとおぼしき幾筋かの高まりが見えるが、それが二次流によって形成されたものであるかどうかはよくわからない。この程度の礫がどの程度の流速で動くものなのか、そして浮流荷重をたくさん含んだ水が、はたしてそれらの礫を浮流させるものなのか、それとも掃流によって堆積されたものなのか。もちろんこれだって立派な研究対象となるのだが、研究が成立つかどうかはそのプロセスを観察できるかどうかにかかっているだろう。たとえば流路中の礫にマーキングをしておいて、それが河川の増水の前後でどのように動くかとか。でもそれを実行するとなると現実にはいろいろな困難にぶつかるだろう。まず最初にその方法が妥当かどうかを検証しなくてはならないだろうが、それだけで論文が一本書けてしまいそうだ。

このあたりに来ると、あまり人の来た気配がない。河原はその先で急速に狭まって、ついには消失してしまう。消失したあたりの対岸には基盤岩が露出していて、対岸の三日月型の低地もそこで終わっている。対岸の低地はこちら側よりもやや比高が高い。水に浸かる頻度はこちら側よりも低いだろう。

「もう少し暖かければ、川に入るんだけどな」

昭彦はそういって流路を、いや、川の水の流れるのを座って眺めていたが、突然立ち上がって流路のすぐそばまで行くと、靴を脱ぎ靴下を脱いで靴の中に丸めて突っ込むと、ざぶざぶと水のなかに入っていった。

昭彦のまねをして靴の中に靴下を突っ込み、それから二人の靴を流路の方へ向けてきちんと並べた。

「おいおい、心中じゃないんだからさ」

昭彦は並んだ靴の方を見て笑った。

川の水は決して暖かくはなかった。昭彦は流路の中心あたりでふくらはぎのあたりまで水に浸かりながら、腕組みをして「冷てー」と叫んだ。

昭彦はそのあたりをうろうろしながら「案外浅いな」と言った。

「あと一メートル向こうに行くと、たぶん腰まで水に浸かることになるさ」

「ほんとか？」

「川っていうのは真ん中がいちばん深いとは限らないのさ」

昭彦はおそるおそる向こう岸へと近づいて行く。

「ほんとだ。ここらへんから急に深くなってる」

「危ないから、戻ってこいよ！」

「そうだな」

昭彦はじゃぶじゃぶと水を漕いで、岸へ上がってきた。

「ああ、冷たかった！お前、タオル持ってないか？」

ザックを開け、中からタオルを出して昭彦に放る。

「サンキュー」

それから河原に二人で並んで座って、川の水がひたひたと岸を洗うのを眺めた。

「どうして水から上がった後って、足の裏がほかほかするんだろうな。なんか、このほかほかがすごく懐かしい感じなんだよな」

それを聞いて、ほたるやきららと一緒にどこやらの川に遊びに行ったときのことを思い出した。もちろんほたるの父母も一緒だった。ほたるの父親はさる高名な──その頃は新進気鋭の、だったのだろうと思う──地質学者で、よく家族と僕を連れてあちこちにピクニックに出掛けていたのだった。

いすゞベレットセダンの前の座席にはほたるの両親が、後部座席には姉妹と僕が乗った。僕は二人に挟まれてとても幸せだった。しかし時としてピクニックの帰りにどういうわけか普段は車に酔ったりなんてしないはずの姉妹が揃って泥酔して、両側から同時にゲロを吐きかけられたなんていう不幸に見舞われたこともあったのだった。

ほたるの父親は、河原でお弁当を広げながら川向こうに立ちはだかる高い崖に見える縞模様についていろいろ説明してくれたりしたものだった。家族はそういう状況をいつでも受け入れた。つまり、喜んで彼の話を聞いていた。もちろん僕もそれにならっていたけど、はっきりいって退屈だった。

「あの露頭は見てわかるように砂泥互層で、もちろん第三紀のものだ。じゅうぶんに固結していないから簡単に侵食されてしまう。非常に短い期間にこれだけの露頭が作られたのも、そのせいなんだ。なぜ短い期間にできたかということがわかるかというと、崖の従順化がじゅうぶんでない、それから、この川が穿入蛇行しているからなんだ。つまり、もともと平地を流れていたときの川の形がそのまま保存されているということだね。だから崖も切り立ったままなんだ」

今になって思えば、その場所はピクニックに適した場所ではなかった。むしろＫ川のこの場所の方がずっとその目的にかなっていると思う。なにしろ、南側は高い崖で、足元にはどろどろした川が流れていて、あたりは草ぼうぼう、見掛ける人はといえば、道路から河原の手前まで広がっている段々畑にやってくる農家の人くらいで、バーベキューをする人はもちろん、釣り人さえいなかった。

みんなで座るビニールシートを広げるには、まず草を刈って石ころをどけて平らな場所を作らなければならなかった。しかし整地が終わりシートが広げられるとその上に籐のバスケットから出された食器やサンドイッチなどが広げられ、優雅な昼食となるのだった。姉妹とその母親はアーリーアメリカン調の服と帽子で、父親は作業服と作業ズボン、それから小汚いズックのショルダーバッグ携えていた。そしていつも岩石ハンマーを手元に置いていた。食事が終わると娘たちや僕を伴って、目欲しい場所を探しに行く。目欲しいといっても、川の水がきれいであるとか、湧き水があるとか、化石が見つかるとか、そういうことではない。良いサンプルの取れそうな場所を探すのだ。サンプルというのはすなわち岩石のことで、ほんとはこんな場所は何度も来ているはずなのに、ほとんど条件反射でそういうことをしてしまうらしかった。たぶんそれが彼女達の父君における家族の愛し方であったのだ。二人の娘たちはその父親が崖を岩石ハンマーでぶっ叩くのを嬉々として眺めていたし、母親はあきらめたような笑顔を絶やさなかった。「さあ、フレッシュな砂岩だぞ」と父親の差し出すほんのり湿った岩石の塊を、二人の娘は四つの掌で大事そうに受け取り、そのざらざらした感触や重さを楽しむのだ。父親がその岩石が堆積した時代や、この地域の地質構造について娘たちに説明すると、娘たちは岩石を手にしたまま、うっとりと父親の話に耳を傾けるのだった。

「この岩石は指で触ってもざらざらして、簡単に崩れるだろう？ハンマーで割るのは容易だ。この地域の岩石はみんなこんなものだ。できてから日が浅いから、じゅうぶんに固結していない。だから、叩いても硬い音がしないだろう？なんだかぼそぼそしていて。この近くのＩという地層はほぼ完全な砂層なのだが、ほとんど固結していない。つまり、砂場の砂を押し固めたようなものだ。だからコンクリートの材料としてよく使われている。それから、あの地層には見事なクロスラミナが見られるだろう？それにあやかって君達のうちのどちらかに『らみな』という名前を付けようとしたのだけど、君達のお母さんに反対されて断念したのさ。このことはお母さんには内緒だからね」

ひとつの露頭──地層の見える崖──を見終ると、私たちは次の露頭を目指した。お昼を挟んでだいたい数ヶ所の露頭を観察するのが常だった。彼らはそれを「ピクニック」と呼んでいたのだけど、つまり巡検だった。

川に入ったのは、そのときではなかった。あれは確か栃木県あたりの川だったと思う。その川は穿入蛇行していたわけではなく、ブレイディング、つまり網状流だった。そこは扇状地の中央あたりで、季節のせいか水は完全には伏流してはいなかった。川はとても浅く、車で渡河できるほどだった。私たちは素足で冷たい水のなかに足を浸し、大きな礫を踏みしめながら川を渡ったのだった。渡りきったところで適当な大きさの礫を見つけて座り、足を別の礫の上に乗せると、ほかほかして眠たくなるような懐かしいような心地良さを感じたのだった。

昭彦の言葉を聞いて、そんなことを思い出したのだが、なんだかほたるがずっと前に死んでしまった人のように感じられた。それどころか、目の前の昭彦さえも記憶の中だけに生きている人物のように思われたのだった。

昭彦はそれとは関係なく、僕の隣に座って空を眺めていた。そして突然「写真撮ろうぜ」なんて言い出したのだった。僕は嫌だと言ったのだけど、結局昭彦に説得されてしまった。カメラをしっかりした石の上に載せ、セルフタイマーを作動させ、昭彦は僕の隣に転がり込むように座って僕の肩に腕をまわして抱き寄せた。

「はい、チーズ！」

お昼を食べてから、今度はＫ川を下流へと移動した。ある地点までは台地を刻んで流れているのだが、そこから先は広い平野へ出て、ある大きな河川と合流する。研究対象のフィールドはそこまでだ。

そして今度は再びＫ川に沿って上流方向へ移動し、その流れが細々と山地を流れ下るところまで遡る。

おもむろに車を止め、指の部分のない皮の手袋をはめる。それから、靴を底の薄いものに履きかえる。そのほうが、クラッチの振動が足によく伝わるのだ。

「またかよ」と昭彦がうんざりしたように言った。

「まただよ」と僕は笑いながら答えた。

川に沿った道路と直角に交差している道路は、川沿いの集落を抜けるとじきに急な上り坂になる。そこをゆっくりと登っていき、いくつかの集落を抜けると、そこから先は滅多に対向車と出くわすことのない峠道だ。制限速度は時速三十キロ。羊腸のようにくねくねした道をその倍のスピードで駆け抜ける。カーブでタイヤが軋み、急な加減速のたびに体に大きく加速度がかかる。カーブミラーを頼りに対向車を予測し、シフトレバーとアクセルとハンドルですべての車輪に自分の意思を伝達していく。標高が高くなるに従って、木々のあいだから、はるか下界の様子が垣間見えたり、あるいは遥か天空が覗いたりする──空はすみれ色に暮れなずんでいる。

急な坂道を登り詰めたところが峠だ。休日だったりもっと早い時刻だったりすれば、たくさんの車がひしめいているのだろう。しかし、今は我らがベレットと、もう一台、ブルーバードSSSが止まっているだけだった。SSSの主は「走り屋」さんかと思ったらそうではなく、恋人同士と思しき若い男女だった。たぶん、夕日を見に来たのだろう。彼らは新参者の存在を気にしながら、遥か西の山々に沈み行く夕日を眺めていた。こちらは男二人、並んで夕日を眺めた。

「侘しいぜ」と昭彦が笑った。それから両手で顔を被って「ちょっと酔ったかもしれない」と言った。

「羊腸のようなカーブの連続だったからね」と僕は答えた。

「じゃあ、おれは羊のうんこだな」

昭彦は木製の手すりに凭れてはるか西方を見た。

太陽はついに山の端に隠れた。SSSはベレットが登ってきた方へと降りていった。急に寒くなってきた。空の色は、すみれ色から藍色へと移りつつあった。夜が近づいてくる。

下りも、慎重且つ大胆に、ときどきタイヤを鳴らしながら下る。

疲れたなと感じたその一瞬が油断を生んだのかもしれなかった。アクセルとハンドルのタイミングを誤り、カーブを曲がりきれずにガードレールに向かって突進する。おもいっきりブレーキを踏んだが、路面に砂の感触がしてずりずりと滑っていき、ガードレールにどすんとぶつかった。しかしじゅうぶんに減速していったので、そのままガードレールを飛び越えることなく停止した。

「やれやれ」

昭彦がつぶやいた。僕は少しむっとした。でもまあ二人とも怪我がなくてよかった。外へ出てぶつかったところを見ると、右側のヘッドライトがつぶれ、それからバンパーもぐにゃりと曲がっていた。ほんとにやれやれだ。

ガードレールも大きく変形していた。とにかく、このままトンズラすることに決めたが、ガードレールが曲がったバンパーに引っ掛かっていて、そのまま車を発進させるのは難しそうだった。

昭彦に手伝ってもらって、なんとかガードレールをバンパーからどかす。それからヘッドライトとバンパーと、ボディの一部がつぶれている以外に壊れているところがないのを確かめると、すぐに車を発進させた。

「おれ、思うんだけどさ、さっきの場所が崖っぷちで、しかもガードレールを突き破って谷底に転落してたら、しばらく誰にも発見して貰えないんじゃないかなあ」

そう言う昭彦を無視して、僕は黙って車を走らせた。車を運転しない昭彦には、僕がどれだけショックを受けているのか見当も付かないのかもしれなかった。