午前六時五十四分、目覚ましのアラームを鳴り出す直前に解除、さっさと着替えを済ませてキッチンへ。冷蔵庫から菓子パンを取り出し、それを頬張りながらそれよりも小さくしたら聞こえないという音でテレビを付ける。景気がよくないとかどこかの会社の幹部が贈収賄事件で逮捕されたとか、どこぞで火事があって一家三人が死亡したとかいうような日常的なニュースを、朝だというのに沈鬱な顔をしたアナウンサーがたんたんと報告しているその背後に、ようやく桜の開花した青森県は津軽のあたりの風景が映し出されていた。あとひと月もすれば、りんごの花も咲くだろう。去年の夏、幼い子と妻、いや、奥さんを抱えていたにもかかわらず、いやそれだけでなく一向にはかどらない卒論さえも抱えたまま、津軽平野の巡検に参加してしまったのだった。さらにひどいことに、巡検が終わった後も弘前が地元のニ年生の女の子が岩木山の開析扇状地を卒論で取り上げたいのだけど、いろいろとアドバイスをしてくれないかというのでその子の家に数日間厄介になったりしていたのだった。もちろんそのことは奥さんには内緒だ。でももしかしたらバレているのかもしれない。まあ、いいんだけど。
そのときは、その子と寝たりはしなかった。その子の両親が生活している家でそんなことをするなんてまっぴらだった。かといって車の中でっていうのは好きじゃないし。
彼の地を離れようかという日の夕方、山小屋風の小さなレストランでその子と夕食を共にした。その日は朝から観光ばかりしていたので、泥まみれの格好でなかったのがよかった。現地調査ということで草をかき分けたり崖を登ったりすれば、とてもじゃないけど小ぎれいな店に入れるような格好でいることはできない。
彼女は奥さんに比べたらぜんぜん見劣りがしちゃうのだけれども、薄暗い照明の下ではどんな女の子だって魅力的に映る、たぶん。
何気ない風を装って、いやいつもよりずっと気取って食事をした。そういう気取りは彼女を気詰まりにさせる。というのも、彼女はナイフとフォークを使うのが下手だったから。でも彼女の気詰まりに気付きながらも気取るのをやめない。だって、そういうのってすごくいいじゃないですか。おお！我が青春！
愛車のいすゞベレットの助手席には奥さん以外乗せない、という決まりになっていた。でもそんなのは東京から遠く離れた彼の地では通用しない。彼女は当然のように助手席に座る。さっき飲んだワインは、甘すぎた。
「私、先輩のことが好きです。奥さんがいることはよくわかってます。でも好きなんです」
そらきた。
「ありがと」
シフトレバー越しにリンゴのほっぺにキスをする。それだけ。だからときめくんだって。
とまあアナウンサーの背後の岩木山を見て、そんなことを思い出した。ちょっとだけ甘美な思い出。奥さんも幼児もまだ寝てる。
できるだけ物音を立てないように静かに家を出て、愛車ベレットを駆ってＫ川へ向かう。天気は上々だ。窓を開けてすがすがしい朝の空気を入れる。どうして朝の空気は環八でさえもすがすがしいんだろう？そして、朝のＦＭ放送の女性アナウンサーの声もすがすがしいし、掛かる音楽もすがすがしい。当然街路樹もすがすがしいし、ジョギングしているおばさんもすがすがしい。こんなことが許されるのだろうか？
西武線の踏切りだけがすがすがしくなくて、ほっとする。
そしてもう一度弘前産の彼女に思いを巡らす。彼女はちっとも美人じゃない。でも二目と見られないほど不美人というわけでもない。まあ、可愛いといえば言えなくもない。それになんといっても処女だった、あのときは。いや、確認したわけじゃないけど、彼女自身がそう言っていた。で、いつのまにか、知らないうちに処女じゃなくなっていた。それも、彼女自身が言っていた。
彼女のからだのパーツを思い描いてみる。小さくて、形もちょっと、という乳房。ちょっと寸胴の腰。でも妙にコケティッシュな唇。そう、たぶんあの唇に惹かれたのだと思う。それから、陰毛。ちょっと一瞬げんなりしちゃうような、そういう感じ。気をつけないと、萎えちゃう。それからまあ、あのへん。とにかく、奥さんと比較しちゃうと全部いまいち。いや、ほんとは比較になんない。
女のからだのパーツの分析はすがすがしくなくって、ほっとする。しかしあたりはどんどんすがすがしくなっていく。それまでありとあらゆる人口的建造物に押し潰されんばかりに、あるいは健気に排気ガス渦巻く、あるいは悪名高い環八雲たなびく大気の中にせいいっぱい枝葉を伸ばしていた欅は、いまや我が物顔に雑木林のいちばんいい場所を占領していた。つい先だってまで黄緑色だった若葉も、今日はもう青々としている。そして空の色も青々としていた。ゴールデンウイークくらいまでは寒気が上空に入ってくるとこんな空の色になる。すがすがしいというよりも、物寂しい。
彼女の乳房。触ると適度な弾力があって、乳首は舌先でころころ転がすのにもってこいだ。でも、乳房自体のボリュームは小さい。それ自体は欠点でも何でもない。ただ、仰向けに寝転ぶと、それは山というよりも丘だ。いや、それよりも盾状火山と言ったほうが当たっているかもしれない。女の子の多くは、どういうわけか火山地形をやりたがる。うちの大学には専門家がいないから、あまり深く掘り下げることはできないかもしれないとアドバイスしても、結局それを卒論で取り上げて、揚げ句の果てに見るも無残な論文ともいえないような代物をでっち上げることになる。もちろん枚数と形式さえ整っていれば卒業させてくれる。「まともに審査していたら、半分も卒業できないだろう」と某先生はぼやいていた。まあ、学部学生はそれでもいいのだ。
女の子が火山に興味を持つのは、もしかしたらその乳房のゆえかもしれない。横臥すれば盾状火山。立ち上がれば円錐火山。いや、ちょっと違うか。溶岩ドームか。
昭彦はベレットに乗り込むなり「音量を下げてくれ」と怒った。怒っている昭彦には恐くて逆らえないので、従うことにする。
でも、ツェッペリンは大音量で聴くものだ。
「なんだってこんなに寒いんだ！」
昭彦はとにかく怒っていた。しかしその怒りは僕に向けられるべきものではない。なぜなら三十分も早く到着したのは昭彦自身の責任によるものであって、僕のせいではないからだ。
しかし昭彦に同情しないでもない。なにしろ待ち合わせの駅には待合室もなく、道路に面して切符の自動販売機があるだけ。改札は自動で無人。もちろん駅の建物はあるけど、それは乗客のためにあるわけではない。乗客はみんな車で迎えに来てもらう。よほど酔狂な人以外はみんなそうする。バスはめったに来ないし、歩いていけるほど近くに、家なんてほとんどないのだ。
駅の近所には大きなパチンコ屋が一件だけあって、案外繁盛している。以前一度だけ入ったことがあるけど、そのときは一万円くらい勝った。たしかそれでキース・リチャードの本を買ったような気がする。いや、キース・リチャードっていったってローリングストーンズではない。そういう学者がいるのだ。
もし昭彦がパチンコをするのなら（しかもじゅうぶんに金を持っているなら、という条件が付くが）、そこで寒風を防ぐこともできただろう。しかし昭彦はパチンコなどしないのだ。
さらに、駅のまわりには建物はおろか樹木さえもろくにない。いや、街路樹があることはあるのだが、まだじゅうぶんに成長していない。ということで、風を防ぐようなものもあまりない。
つまり、今日の天候──よく晴れて風が強くて肌寒い──と、昭彦が予定の時間よりも早く到着してしまったということが、必然的に昭彦の不幸をもたらさざるを得なかったということなのだ。
昭彦はもちろん助手席に座った。規則は常に処女膜のように破られる定めにある。
「また例の川か？」
三十分もすると昭彦の機嫌は直っていた。からだが暖まったのだろう。そういうやつなんだ。車内にはガラス越しに太陽の光がさんさんとさし込んでいた。
ウミイグアナのようなやつ。ウミイグアナは体が冷えると動けなくなる。だからときどき日光浴をして体を温め、動けなくならないようにするのだ。
「川なんてどこが面白いんだ？」
昭彦はいきなり変なことを質問する。僕は川には面白いから行くのではなく、それは一種の義務なのだと答える。もちろんでまかせだ。ほんとは自分でもよくわからない。なんで川へ行くのだろう。論文を書くためには違いないが、それ以前にどうして川で論文を書こうなんて考えたのだろうか、ってことを考えなきゃならないだろう。
地形学的な意味の川にはまったく興味などない昭彦を誘ったのは、ひとりじゃなんだかうんざりしそうだったからだ。かといって、奥さんと子供を連れて行く気にはなれなかった。子供が大きくなっても、川でバーベキューをするなんてことはしないだろうと思う。それに、うちのお子様はアウトドアは好きそうじゃないし。小さな蝿一匹で逃げ惑うくらいだから。ちなみに、蝶も嫌いだ。あるときなど、蝶を捕まえて瓶の中に入れて持ち帰ったら脅えて泣き出してしまったくらいだ。
Ｋ川の、いちばん好きな場所へ行く。もちろん研究対象としての河川に好きも嫌いもない。いや、好きも嫌いもあるのだけど、そんなことを言っていては研究にならない。もし全流域を調査する（そんなことは不可能だ！）のでなければ、必ずいくつかのポイントを決めてその場所で簡単な測量をしたり、堆積物の粒径を調べたり、河岸に露出している岩石から周囲の地質を判断したり、というようなことをしなければならない。その場所は地形図や地質図や空中写真などから当たりを付け、しかる後に現地に足を運んで適当かどうかを判断するのだ。
しかし地形図上の状態と現況が異なるのはよくあることで、もし当たりを付けた場所に工場や住宅地なんかができていたら、調査はかなり困難だ。私有地に入るのは難しいこともあるし、それに、大規模な地形改変が行われていたりしたら万事休すだ。
その場所は地形図で見たときから何か感じるものがあった。流路の両側には「荒れ地」があり、右岸にはかつてそこを河道がさかんに側方侵食をしていたであろう半円形の低地があり、その低地の周囲は崖で囲まれていた。また、左岸はやはり崖で区切られていたが、右岸ほど周囲の土地が高くないので必然的に崖の高さも低い。そしてその両岸の崖で区切られたささやかな低地は、下流側の、距離にして数十メートルの「峡谷」で区切られていた。それは地形図から判読する限りではいわゆる峡谷とは程遠いものであったが、そこだけ流路の両側の低地は姿を消していて、おそらくはそのあたりによく見られる結晶片岩が顔を覗かせているのではないかと推測された。
また、その場所よりも上流の部分はほとんどが「峡谷」になっていて、谷底の低地はほとんど存在しない。そして、そこからさらに一キロも遡ると、山地を刻む本物の峡谷になるのだった。
その場所を初めて訪れたのは大学３年の夏休みのことだった。今日と同じようにいすゞベレットを駆って、狭い県道からさらに狭い横道へ、そして小さな橋を渡ったところにあった無料の駐車場に車を止めた。そこにはすでに二台の車が駐車してあった。
その日は朝から天候が不安定で、時折雨が降ったり止んだり、また、雷が鳴ったりしていた。Ｋ川は地形図を見て想像していたよりもずっと小さな河川だった。多少の危険を覚悟すれば、歩いて渡ることもできなくはないだろう。
地形図で見た通り、駐車場は河原と崖で隔てられていたが、その崖はせいぜい三メートルの高さしかなかった。崖を降りて左岸の河原に降りてもいいのだが、とりあえず右岸の低地が気になるので橋を渡って川沿いの道を降りていく。
右岸沿いには丈の高い草が生い茂っていて、河道に近づくのはやや危険そうだった。というのも、右岸は攻撃斜面になっていて、地盤的条件によっては河道が河岸の下を大きく抉っているということだって考えられる。だとすれば足をついたところが陥没して、そのまま川に流されるということだっておおいに有り得る。ひとりで来ているときに危険を避けるのは野外調査の鉄則だ。
上から見ると三日月形をしたその低地は、建設資材置き場として使われているようだった。コンクリートパイルとか、土管とか、そんなものが野積みになっていた。いちばん奥の方にはパワーショベルやブルドーザーなどが置かれていて、その奥に崖が見えた。
崖は、それによって切られている地盤の地下構造を知るために極めて重要な手がかりを与えてくれる。だから崖が見えたら何をおいてもまずそれを見に行かねばならない。幸い資材置き場には誰もいないようだったので強行突破も可能そうだった。柵を乗り越え、深く轍の刻まれた道を歩いて行く。その道は崖のほうへは向かっていなかったので、途中から草むらの中を強行突破しなければならなかった。両手で草をかき分け、ときどき石ころやら何やらに躓きながら、崖のあるとおぼしき方向へ進んで行く。いつの間にか大汗をかいていた。虫が耳元を掠めて飛んでいく。
突然視界が開け、ブルドーザー１台、パワーショベル３台がテニスコート数面分の空き地に置かれていた。そこへ至るまともな道もあるようだったが、帰りもそちらを通るわけには行くまい。管理者と鉢合わせをしたら何か言われるに決まっているから。目指す崖は、そこから二百メートルほど向こうに見えていた。表面は案外風化しているようだ。あるいは上半分はつい最近の体積物かもしれない。礫層か？下のほうは、結晶変岩か？
そのとき突然雷鳴が轟いた。空を見上げると、ちょうど真っ黒な雲が太陽を飲み込もうとするところだった。その雲は、それまでに見たどんな雲よりも黒くて、しかもとてつもない速さで動いていた。突然強い風が吹きはじめ、雷鳴が間断なく鳴り響きはじめた。
迂闊なことに、草むらをかき分けることと崖のことしか考えていなかったために、天候のことなどまるで眼中になかったのだった。身を隠すようなものはパワーショベルくらいしかなかった。しかし運転席にはたぶん鍵が掛かっているだろう。ブルドーザーには屋根がなかった。
他にいかなる方策も考えつかなかったので、とにかくもと来た道を戻ることにした。再び草むらに分け入り、汗だくになりながら草をかき分け、虫に刺され、躓いて転びながら、それでも運よくあの深い轍の道に出ることができたのだった。
見上げると、空はほとんど暗雲に覆われてしまっていて、あたりは薄暗くなっていた。まだ午前中だというのに、夕方みたいな光が差していた。
どうにか橋の上までたどり着いた頃には、空はなんとも陰惨になっていた。風もますます強くなってきていた。ベレットに転がり込んですぐにエンジンを掛け、ほっとため息をつく。背中が汗でぐっしょり濡れていた。シートに持たれると、それが気持ち悪かった。駐車場の他の二台の車は消えていた。
液温が上がってきたところですぐに車を発進させると、程なく雨滴がフロントグラスにぶつかりはじめたが、すぐに篠突くというかバケツをひっくり返したというか、とんでもない豪雨になった。ワイパーはまるで効かないし、視界もまったく利かない、ということで、仕方なく車を道端に寄せて止めた。雨の音と雷鳴以外、何も聞こえなかった。
不安を紛らわすためにテープを掛けたが、まったく聞こえなかった。ボリュームを二時半くらいまで上げたところでようやく聞こえてきたのは、ツェッペリンの「レイン･ソング」だった。
今は僕の奥さんとなっているほたるとはじめてキスしたときのことを思い出すとき、なぜか「レイン･ソング」がＢＧＭとなっているのだった。そのときに「レイン･ソング」が流れていたわけではない。「レイン･ソング」を初めて聴いたのは、原書講読のために辞書を引くのもいい加減嫌になっていたときのことだった。ＢＧＭに掛けていたＦＭ放送から、それは流れてきた。そしてそのときから、無関係だった二つがどういうわけか僕の中で結び付いてしまったのだった。
ほたるとのキスは、僕にとってのファースト･キスでもあった。ほたるもそうだったと主張しているが、本当かどうかは知らないし、どうでもいいと思う。ほたるの父親のいすゞベレットの後部座席で、僕たちはキスをした。雨が車の天井や窓やボンネットに当たって凄い音を立てていた。そして雷鳴も轟いていた。僕たちのほかに誰も車の中にはいなかった。でなけりゃリアウインドウを滝のように流れる雨水の様子を身を寄せあって観察したりはしなかっただろう。ふとリアウインドウからほたるの横顔に視線を移した瞬間、たぶん僕はほたるに恋をしてしまったのだと思う。細い首や長い睫毛や少し尖った顎を、はじめてきれいだと思ったのだった。それはまったく新しい光景だった。僕はバカみたいにほたるの横顔を眺めていた。ほたるはしばらくそのことに気付かないか、あるいは気付かないふりをしていたのだが、突然顔の向きを変え、僕の目をまっすぐ見た。普段だったらそこで笑い出すところなのに、笑い出さなかった。そして、目を開けたまま僕にキスをした。
もしあのとき、一緒に車の中にいたのがほたるの双子の姉のきららだったら、きららに恋してしまったのだろうか、とときどき思う。
それはほたるの家族と一緒にあちこちにドライブに行った頃のことだった。そのとき、あとの三人は土産物屋か何かにいて、雨が止むまでそこにいたのだったと思う。ほたるの父は、「車に落雷しても大丈夫だから」と、ほたるの母やきららの心配を余所に、悠然と構えていたらしい。
三十分ほどで雨は上がった。あたりはひどい水浸しだった。雲の隙間からときどき日の光が差していた。
県道に出ると、信号機は軒並み消えていた。落雷の影響だったのだろう。