（４）

瑞木は風呂から上がったところだったのか、頭にはタオルを巻き付けて体にはバスタオルを巻き付けていただけだった。ぼくはそれを見てむっとした。風呂を沸かすといっても水を汲んでガスの火を付けるだけだが、たとえそうであってもぼくの沸かした湯に何の断りもなく先に入ったことが不愉快だったのだ。

「人が沸かした風呂に先に無断で入るなんてひどいと思う」

ぼくは瑞木に抗議した。

「だってあんたいつになったら帰るか分かんなかったんだもん」

瑞木は少しも悪びれてはいなかった。それに、瑞木の言う通りだった。しかしそれでも不愉快であることに変わりなかった。というのも体中海水でべたべたして気持ち悪かったのだ。

気持ちが収まらないままぼくは風呂場へ行った。浴槽の蓋を開けると湯は底から三十センチくらいしかなかった。ぼくはうんざりした。ぼくはいっぱいに湯をためた浴槽に体を深々と沈めたとき湯がざあっとこぼれないと気が済まないのだ。しかも残り湯には長い髪の毛が何本も沈んでいたし、瑞木の匂いがしていた。といってもそれは体臭とは少し違う。瑞木の使っている石鹸やシャンプー（瑞木はそれを自分以外の誰が使うことも許していなかった）や化粧品やクローゼットの防虫剤といったものと、瑞木自身の体臭とが入り交じったものであって、それ全体が瑞木の「匂い」を形成しているのだった。

瑞木は自分の部屋にいた。部屋をノックすると「入れば」という瑞木の声がした。中に入ると瑞木はまださっきのかっこうのまま鏡台の前に座っていた。瑞木は振り返らずに

「何のよう？」と不機嫌そうに言った。ぼくは鏡に映った瑞木に向かって言った。

「あんなにお湯をたくさん使ったんなら、水くらい足しといてよ」

「悪い悪い、シャワーが壊れてたから、たくさん使っちゃったのよ」

瑞木が頭を巻いていたタオルを取ると、濡れた長い髪が背中に垂れた。ぼくはブラッシングを始めた瑞木にさらに文句を言った。

「水足して風呂釜に火を付けておくのがあとから風呂に入る人に対する礼儀だと思う。自分さえよければいいって思ってるんだろ」

「分かったわよ。いちいちうるさい奴ね」

瑞木はブラシを床に叩きつけるとぼくを睨んでから部屋を出ていった。ぼくはブラシを拾うと鏡台の上に置き、居間へ行ってテレビをつけた。

しばらくすると後ろからスリッパの音が近づいて来た。振り向くと瑞木がさっきのかっこうのまま立っていた。瑞木の髪はまだ濡れたままで、床の上にぽたりぽたりとしずくが垂れていた。ぼくは風邪を引かなければいいがと思うのと同時に、結局あのしずくもぼくが拭かなけりゃならないんだと思うと少し不愉快になった。しかし瑞木は恩着せがましくぼくに言うのだった。

「水は足しといてやったけど、火はあんたが消しなさいよ。いいわね」

ぼくは瑞木の態度に腹が立った。瑞木が入った湯は、ぼくが沸かしてぼくが湯加減を程よく調節した湯だった。ぼくは返事をするのが嫌になってまたテレビのほうを見た。すると突然後頭部を強打された。頭をさすりながら振り返ると、瑞木は腕組みをして仁王立ちしていた。そして「返事位しろよ」と怒鳴った。ぼくは「ごめん、聞こえなかった」と返事をしなかった理由を適当にごまかそうとした。しかし間髪入れずに「嘘付け」と言われてしまったのでそれ以上何も言い返せなかった。

「いいか、風呂の火くらい自分で消せよ！」

瑞木は拳骨でぼくの頭を小突きながら言った。ぼくは「分かった、分かりました」と答えるしかなかった。「よし」と言うと瑞木は居間を出ていった。

しかし結局ぼくは風呂の火を消すのを忘れていた。といのもテレビをつけたまま居間のソファの上で居眠りしてしまっていたのだ。ぱたぱたぱた、というスリッパの音が居間の外を通り過ぎたときやっと目を覚ました。寝転んだまま時計を見上げると風呂の火を止めるべき時刻を二十分以上過ぎていた。ぼくは飛び起きると浴室に急行した。

浴室では瑞木が浴槽の湯を湯桶で汲み出しながら水道の蛇口から勢いよく水を出して浴槽に汲んでいた。ぼくは最初に熱い湯を汲み出して、その後で水を汲むようにしたほうが効率良く湯の温度を冷ますことができるのに、と思った。水を汲みながら湯を汲み出すのでは、せっかく冷めた湯まで汲み出すことになる。それに、浴槽の上のほうの湯は熱く、下のほうはぬるくなっているのだから、熱い表面近くの湯だけを汲み出すほうがずっと効率はいいのだ。瑞木は湯桶で湯を対流させて、全体の温度を均一にしようと努力しているようにみえた。しかし、ぼくは風呂の火を消さなければならないのに消し忘れたために、瑞木の手をわずらわすようなことをしてしまったのだから、とてもじゃないけどそんなことを言う勇気は持てなかったし、言うべきでもないと思った。

ぼくは瑞木の背中に向かって「ごめん、つい居眠りしちゃったものだから・・・」と言った。瑞木は振り向きもせずに「別に謝らなくったっていいわよ」とそっけなく言った。

熱い湯に冷たい水を汲んだせいか、湯気が大量に発生していた。その湯気は浴室の天井に溜まり、やがてあふれて浴室の戸口の上のほうから流れ出し、パウダールームの天井を這うようにして廊下へと流れ出していた。それらの湯気は冷たい天井や壁に触れればそこに水滴となって留まるであるだろうと予測された。それはきっと家を傷めるだろう。ぼくは浴室のドアを閉めようとした。すると瑞木が振り返って「暑いから閉めないでよ」と投げ付けるように言った。ぼくはドアを閉めるのをあきらめその場で瑞木の仕事を見守った。

やがて瑞木は肘まで湯の中に入れると「これでよし」と言って浴槽の蓋を閉めた。そして振り返ると「これで文句ないでしょう」と笑った。瑞木はかなり不機嫌そうだった。ぼくは黙って肯いた。

風呂に入る前にトイレに入ろうとしたらドアが開かなかった。誰か入っているらしい。ぼんやりトイレの前にたたずんでいると、瑞木が通りかかって言った。

「何してんの？」

「ドアが開かないんだ。誰か先客がいるらしい」

「なに寝ぼけてんのよ」

そうなのだ。父も母も留守なのだ。家の中には瑞木とぼくしかいないのだ。それじゃあトイレに入っているのは誰なんだ。しかし瑞木がドアのノブを回すとドアはあっけなく開いた。

「開くじゃない」

しかし中では瑞木が手を洗っているところだったのであわててドアを閉めた。ぼくはドアの外に立っている、ぼくのために風呂の水を足して、火を止めて、湯加減まで見てくれた、瑞木を見た。瑞木は怪訝そうな顔をしていた。瑞木はぼくの顔を覗きこむようにして言った。

「どうしたの？」

瑞木はぼくの行動に驚いているようだった。

「中に人がいる」とぼくは答えた。

「誰がいるって？」

瑞木は再びドアを開けた。すると中からブレザーを着た瑞木がぼくのことをいまいましそうに睨んだ。

「誰もいないじゃないの」

ドアの外の瑞木が言い終わるか終わらないかのうちに、ぼくはまたドアを閉めた。それから瑞木を押しのけて今度は自分でドアを開けようとした。だが、いくらノブを回そうとしても、鍵が掛かっているのか多少の遊びを残してそれ以上は回らなかった。しかしそうしていればいつかは鍵が外れるような気がして、何度もがちゃがちゃとノブを回そうとした。

そんなことを繰り返しているとき、「どうしたっていうのよ」と言う瑞木の声を聞いた。その直後、鍵を空ける音がした。ぼくは「しめた」と思ってノブを回すと勢いよくドアを開けた。すると中からさっきのブレザーを着た瑞木が出てきて、ぼくのことも、ぼくのすぐそばに立っていた瑞木にも一瞥もくれずに玄関のほうへ歩いていった。ぼくはその後を追った。後ろからスリッパの音が追いかけて来るので振り向くと瑞木と目があったのでぞっとした。

玄関の電灯は消えていた。だが、廊下からの光がまわりこんで来るのか、薄明るかった。ブレザーを着た瑞木は靴を履こうとしていた。そのブレザーは瑞木の通っている高校の制服だった。振り返るとまた瑞木と目があった。瑞木は口を開きかけていた。再び玄関のほうを向くと靴脱ぎのところにブレザーを着て立っている瑞木は上がり框に立ったもう一人のブレザーを着てエプロンをした瑞木から鞄を受け取っているところだった。鞄を受け取ったほうの瑞木はエプロンをした瑞木に「それじゃ行ってきます」と言うと、エプロンをしたほうの瑞木は「行ってらっしゃい、気を付けてね」と答えた。

ぼくは振り向くと玄関の方を指差して、ぼくの後ろに立っていた瑞木に聞いた。

「あれが見える？」

「何が見えるって言うの」

瑞木は何が起こっているか全く知らないか、そうでなければ知らない振りをしているに違いなかった。

「今ぼくと話している瑞木を含めて、全部で三人の瑞木が見える」

すると玄関の二人の瑞木がぼくのことを蔑むように見た。ぼくが救いを求めるように振り返ると、瑞木は馬鹿にしたようにぼくのことを見下すのだった。