（３）

歯ブラシをそこに捨てると右舷を通って船首に向かった。鋤鍬氏は左舷のさっきの場所で待っているに違いないと思ったからだ。

鋤鍬氏を避けたのは、彼の依頼をうまくし果せたようには思えなかったからだ。確かにぼくは鋤鍬氏の言うとおりに船長にあの鯨を仕留めないように頼みに行きはした。確かにあの廃人のような、あるいは本当に廃人かもしれない亜疾土船長はぼくの話を聞いてくれはした。だが、それだけだ。ぼくには鋤鍬氏がそれに満足するようには思えなかった。そうすればきっと彼は前にも増してぼくに文句を言ったり罵詈雑言を浴びせたりするかもしれない。ぼくにはその言葉に比例して彼の口臭がひどいものになるように思えてならなかったのだ。

船首にはいつのまにか銛撃ち機が据えられていた。キャッチャーボートがどこかへいなくなってしまったためだろう。銛撃ち機の前には銛撃ちが鯨の浮上して来るのを待ち構えて仁王立ちしていた。彼の肌は赤銅色に焼けて、海の男にふさわしかった。

銛撃ちを見ているうちに、船長はぼくの話を了解したともしていないとも言っていないということに気が付いた。もしかしたら船長はぼくの伝えた鋤鍬氏の話を聞いただけで一切了解していたのかもしれないのだ。それでぼくを下がらせた。もし、鋤鍬氏と船長の間だけで何か通じ合うものがあるとすれば、そんなことをいちいちただのメッセンジャーであるぼくや、彼の部下である二等航海士に説明してやる義務はないのだ。だから、もしそうであるとすれば船長はあの鯨を捕獲することを中止することをすでに決めているかもしれないのだ。もしそうなら、胸を張って鋤鍬氏に報告することができると思った。

ぼくはそういう命令が銛撃ちに伝わってきていないかと思って聞いて見た。

「船長から何か連絡はありましたか？」

「何だって？」

ぼくはもう一度繰り返した。

「船長から、今追っている鯨について何か言ってきませんでしたか」

彼はぼくのことを穴の開くほど見つめた。

「いいや」

彼は吐き捨てるように言った。

「それに、あの船長には漁に口出しする権利はない。奴さんの仕事は船を動かすことだけさ」

彼はそう言うと腕時計を見た。やけに立派なダイバーウォッチをしていた。彼は咥えた煙草に火を付けながら聞き取りにくい発音で言った。

「今では船を動かすこともろくにできやしねえがな」

ぼくは、鋤鍬氏の企て自体が全く無意味であることを悟った。つまり、漁の権限は銛撃ちにあって船長に何を言っても無駄である。さらに、船長は見たとおりの廃人で、彼に何を言っても全く無駄であるということだ。ぼくは咄嗟にこの銛撃ちに鋤鍬氏の「忠告」を伝えて見たらどうだろうかと考えた。

「あの鯨を仕留めちゃ駄目だっていう意見があるんですけど」

「なんだって？」

「あの鯨を仕留めちゃ駄目だっていう人がいるんですけど」

「それはどこのどいつだ」

「鋤鍬って人なんですけど」

「鋤鍬？お前鋤鍬の何なんだ？」

「別に知り合いというわけでもないんですが、偶然頼まれたんです」

「何て？」

「あの鯨を仕留めちゃ駄目だっていうことを船長に伝えて来いって」

「お前それを真に受けたのか。馬鹿な奴だなあ」

彼は高笑いをした。辺りにいた人達もぼくのことを指差して笑い転げていた。ぼくはなぜこんなに笑われるのかよく分からなかった。しかし、鋤鍬という人物があまり人々から信頼されていないらしいと推測された。しかし奇妙なのは、ぼく自身がよく知りもしない鋤鍬という人物の言ったことを自分でも十分に納得したわけでもないのに、それを何とか実現しようとしたことだ。

そのとき船首前方百メートルほどのところに鯨が突然現われて潮を吹いた。飛沫は甲板に降り注ぎ霧が立ちこめたようになった。銛撃ちは銛撃ち機に取りすがってじっと鯨を見据えた。鯨は抹香鯨ではなく、長須鯨だった。

鯨は捕鯨母船に気付いたらしく、慌てて前方に逃げようとした。だがどういうわけか、潜水しようとはしなかった。気が動転していたのかもしれなかった。そこへ待ってましたとばかりに銛撃ちは銛を打ち込んだ。すると銛の刺さったところから鮮血が吹き出し、洋上にたなびきながら後方へと広がっていった。

鯨はのたうちながらもがいていた。銛を抜こうとしていたのかもしれない。だが、返りの付いた銛がそう簡単に抜けるはずもなかった。もがくたびに傷口からは鮮血が吹き出していた。ぼくはその傷口に海水がいかにしみるかということを考えてぞっとした。船首からは次々とロープが繰り出され、鯨の後を少し遅れて追っていった。

鯨が苦しそうに横倒しになったとき、腹が妙に膨れているのが見えた。ぼくはその鯨が雌で、妊娠している事を察した。鋤鍬氏が言ったのはこの事だったのか、とぼくは悟った。ぽんと肩を叩かれて振り返るとその張本人がいた。

「長年この仕事をやっていると、潮の吹き方ひとつで鯨の種類、雄か雌か、身体の具合なんかがみんなわかるんだ」

「それならそうと説明してくれればよかったじゃないですか。説明もしないで何でぼくにあんなことを頼んだりしたんですか」

ぼくは彼に食ってかかった。

「船長は誰にでも会ってくれるし話も聞いてくれる。それが分かっただけでもじゅうぶんじゃないか」

「でも船長には鯨を仕留めるかどうかの決定権はないそうじゃありませんか」

ぼくはなぜか船長が廃人だということを口にしたくはなかったのでそれについては何も言わなかった。

「お前にはまだ俺の親心が分からないのか」

彼は穏やかに、しかし諭すようにそういった。

「腹ぼての鯨を殺すなんて、あんまり酷いと思わないか」

しかしそう言ってから彼はにやりと笑うのだ。

ぼくは船首のすぐ先でしだいに弱っていく鯨を見た。「その鯨を殺しちゃ駄目だ！」と叫びたかった。しかし、すでに甲板の中央では火が焚かれ、みんなそのまわりで輪になって踊り狂っていた。銛撃ちは輪の中心で銛を振り回しながら黒田節を踊っていた。鋤鍬氏もいつのまにか上半身裸になって輪に加わっていた。彼は踊りながらぼくに向かって怒鳴った。

「もう帰んな、若いの」

ぼくは黙って肯いた。