捕鯨母船は見渡す限りの大海原を航行していた。海は大荒れというほどではなかったが、いたるところで波頭が崩れて、白く泡立っていた。鉛色というよりも鼠色の海面はそれと似たり寄ったりの空の色を反映しているに違いなかった。ただし空のほうがずっと明るく、全体としてはほとんど白に近かったが、ところどころ影になったところが海の最も明るい部分と同じくらいだった。
ぼくは捕鯨母船の解剖甲板の手摺にもたれて海に向かって吐いていた。船は揺れるし、それ以上に解剖甲板に染み付いたにおいがたまらなかったのだ。ぼく以外の四百二十七名の乗組員達はそんなにおいがすることさえ忘れていたに違いない。だからぼくが吐いているのを見ても、船酔いしているんだな、というようにしか思わないのではないだろうか。
ぼくは胃の中の物を大抵吐き出してしまっていた。もうこれでだいじょうぶのような気がした。なんだか空腹すら感じて来た。ぼくはズボンに挟んであったタオルをで口のまわりをぬぐった。タオルは酸っぱいにおいがしていた。ぼくは四つ折りにしてあったタオルを手探りで広げた。胃液や吐いたものが目に入ると、それだけでまた吐きたくなるだろうと思ったからだ。それから今まで表になっていたところを内側にして四つに畳んだ。それを顔に近づけるとやはり酸っぱいにおいがした。これはもう、タオルを洗うか取り替えるかしかない、と気付いた。
ぼくは手摺を離れると船室に向かった。だが、どうにも足下が覚束なかった。甲板に胡坐をかいて煙草を吸っていた数人の船員がぼくを見て笑っていた。彼らのそばを通り過ぎるとき、不意に煙草のにおいがしたが、それがぼくの胃液を逆流させようとした。ぼくは急いでもと来たほうへ引き返すと、手摺から乗り出すようにして胃液を垂れ流した。胃の中が空っぽでもまだ吐くことができるんだ、ということをはじめて知った。後ろからはどっと笑う声が響いて来ていた。
一息付いて顔を上げると、海面から斜めに吹き上げる、噴水のようなものが見えた。すぐ目と鼻の先だ。"There she blows!-There she blows!A hump like a snow-hill!"と叫ぶ声が聞こえたような気がした。しかしその鯨はモービィ・ディックに似ているわけでもなんでもなかった。だいたいぼくはモービィ・ディックを見たことがあるわけでもないし、それどころか鯨を見るのはこれが始めてだった。鯨は大きな尾びれを空中高く振り上げるとすぐに見えなくなった。
解剖甲板の上ではたくさんの乗組員達が右往左往していた。ぼくは手摺にもたれてそれを眺めていた。ここ数日探鯨船やキャッチャーボートは一頭の鯨も発見できなかったということだが、それが大胆不敵にも捕鯨母船の間近に一頭の鯨が現われたのだ。足下からディーゼルエンジンの振動が伝わってきた。捕鯨母船は鯨を追跡するつもりらしかった。
次に鯨が姿を現したのはやはりぼくの目の前だった。ぼくは船員達に邪魔にされたのでウインチ台を潜って前部左舷に移動していた。そこでぼんやり海を眺めていたとき鯨はぼくめがけて潮を吹いた。距離があったので直撃はまぬがれたが、飛沫をいくぶん浴びる羽目になった。鯨はぼくの真下で水中に潜った。間もなく右舷のほうから声が上がったところを見ると捕鯨母船の下を潜っていったらしい。
鯨は再び姿を消したが、その間にキャッチャーボートが到着した。キャッチャーボートは捕鯨母船に寄り添うように接近してきた。船員達は何か大声で話し合っていた。ぼくはそれを甲板の反対側の手摺にもたれて他人事のように眺めていたが、あのキャッチャーボートがさきほどの鯨を仕留めれば、ぼくもそれを解体しなければならないのだ。
そのときぼくのすぐそばに並んで手摺に寄り掛かっていた初老の男がぼくに話し掛けて来た。
「さっきの鯨を見ただろう、若いの」
「ええ」
「あの鯨は殺しちゃなんねえな」
ぼくはその男を見た。陽に焼けて、しかも海風に長いことさらされたためと思われる荒れた肌。白いものの混じった無精髭。落ち窪んだ目。伸びきった眉毛と鼻毛。禿上がった額。少し開いた口の中はかなり歯こぼれしていた。ベージュの作業服の左胸には「鋤桑」と紺色の糸で刺繍されていた。ぼくはそれが彼の名前であると察した。
「なぜですか？」とぼくは言った。ぼくは生まれてはじめて見たあの鯨に親しみを覚えていた。だからぼくはできることならあの鯨を殺したくはなかった。しかしすでに数え切れないほどの鯨を屠ってきただろう鋤鍬氏が、なぜそんなことを考えるのだろう。
「ぼく達は鯨を殺すためにここまで来てるんじゃないんですか？」
「お前の意見なんか聞いちゃいない」
彼はぼくの言ったことを一蹴した。
「お前は俺の言うとおりにすればいい」
「何をしろというんですか」
「操舵室へ行って船長に伝えて来い。あの鯨は殺しちゃならないって」
ぼくはすっかり閉口していた。厄介な奴に捕まったものだ。ただその厄介さが、わけの分からないことを言って絡んで来るというだけのものであるならまあ許せるのだが、問題は彼の口臭であった。彼が口を開くたびにその臭気は吐息とともにぼくの顔に吹き付けられたのだ。しかも彼は自分の口臭には気付いていないか、気付いていても気付かない振りをしていたか、さもなくば利用しようとしていた。ぼくはにおいに耐えかねて少しづつ後退りしていたが、彼はぼくが一歩下がるたびに一歩ぼくに近寄ってきた。やがてぼくはあからさまに鼻をつまんだりするようになったが、彼はそんなことは少しも気にしていないように見えた。
ぼくは彼が歯槽濃漏で胃病でその上一週間も歯を磨いていないのではないかと勝手に判断していた。その予想は一部ははずれて一部は当たっていた。
ぼくは鋤鍬氏は少しおかしいのではないかと判断した。彼の身分はおそらくぼくと似たり寄ったりで、いずれにしても操業に対して口を挟む立場にはなかったはずだ。ぼくはこれ以上口臭攻撃にさらされるのも嫌だったので適当にお茶を濁そうと考えていた。
ぼくはもう一度「なぜあの鯨を殺しちゃ駄目なんですか？」と聞いた。答えは変わらなかった。
「それはお前が知らなくてもいいことだ」
「分かりました、行きましょう」
「最初からそう言やいいんだ」
彼は満足そうだった。
「でも、船長は私風情の者に会ってくれるでしょうか」
ぼくは船長に会う気など毛頭なかった。ただ、もし鋤鍬氏がこの場で彼の言っていることがいかに無謀であるかということに気付いてくれさえすれば、彼を騙す必要すらなくなると思ったのだ。だが、彼は自信を持ってこう答えた。
「その心配はない。亜疾土船長は誰にでも会って話を聞いてくれる人だ。俺が保証する」
どうせ解体作業が始まるまでは用がないのだから、船室にいることにした。
ベッドに横になったとき、船酔いが直ってしまっていることに気付いた。それはたぶん鯨を見た頃からのことだろう。そういえば、鯨と二度目に出会ったとき、確かに目があった。
船長はどんなときでも煙管を手放さない、と鋤鍬氏は言っていた。煙管といっても全体が金属でできた太さ二センチメートルくらいの代物らしい。ぼくは急に船長を見てみたくなった。
操舵室の扉は開いていた。そっと覗くと偉そうな船員達が海図らしきものを眺めながら話をしていたり、計器を覗きこんだり、双眼鏡でどこかを眺めたりしていた。彼らは皆活気があって動きもすばやく、会話もはきはきしていたが、そういったものとは全く異質な空間が操舵室の隅のほうにあるのに気が付いた。
こちらに背を向けて大きめの藤のゆり椅子に深々と腰掛けて、というよりもゆり椅子によってようやく体を床から離れた空間に保つことができる、という様子だった。その老人は帽子ばかりは威厳を保っていたが、背凭れの上に覗いている両肩はすっかり下がってしまっていて、この場にそぐわない感じがした。肘掛けに乗せられた右手にはフルートのような銀色の棒が握られていた。しかも棒の先からは煙が立ち上っていた。
鋤鍬氏の言ったとおりだとすれば、それが船長であるに違いなかった。なにしろその人意外にはもちろんだれも煙管なんか手にしてはいなかったし、それどころか誰も煙草さえ吸ってはいなかったのだ。それもその筈だ舵輪の上の壁には大きな赤い文字で「禁煙」と書かれたプラスチックの板が張り付けてあった。「船長」はどうやら例外らしい。
海図を広げているあたりに視線を移したとき、ちょうどこちらを向いて立っていた船員と目があってしまった。ぼくは咄嗟に逃げ出そうとしたが、「待ちなさい」という声が追いかけて来た。ぼくは扉から三メートルも離れないところで凍り付いてしまった。
恐る恐る振り向くと、彼は戸口のところに立っていた。きちんと帽子をかぶったすらりと背の高い男だった。
「何のようだね」
彼は戸口に寄り掛かりながら優しく尋ねた。
「船長に会って頼みごとをして来いと言われたもので・・・」
ぼくはすぐにそう言ったことを後悔した。「いえ、なんでもありません」とか、「ドアが開いていたのでちょっと覗いて見ただけです」とか何とか答えるべきだったのだ。しかしそう言ってしまったからにはいまさら何でもないと否定するのはもっと不自然だった。だが彼はぼくの心配をよそに「はいりなさい」と言ってぼくを促した。
彼はぼくをゆり椅子の老人のところへ連れていった。やはりこの人が船長だったのだ。ぼくをそこへ連れて来てくれた船員は「船長、この事業部員が何か話があるそうです」と船長に話し掛けた。しかし船長は何の反応も示さなかった。船長は煙管を右手に持ったまま、遥か前方を見やっているようにみえた。ぼくは船長が何を見ているのか分からなかった。というのも、船長の位置から窓の外にみえるのは空ばかりであるはずだからだ。船長はゆり椅子からほとんどずり落ちそうに座っていたが、そのため、目の位置は下側の窓わくよりもずっと低かったのだ。しかし船長は目を細めて、一心に何かを見つめているようなようすだった。ぼくは船長が見つめているらしいあたりを眺めたが、カモメ一羽飛んではいないのだ。ぼくはこの人がこの船の船長であることに不安を感じた。
成り行きであろうと船長と話をする機会を得たのだから鋤鍬氏の依頼を果たそうと思った。船長に会って話をしたとあれば、結果がどうあれ義理を果たしたことになると思ったのだ。ぼくは「船長」と思い切って声をかけた。船長は首だけゆっくりこちらに向けた。ぼくは船長と目を合わせようとしたが、うまくいかなかった。船長の視線は一体どこを捉えているのかぼくにはよく分からなかった。
「ある人に頼まれたんですが、いま追いかけている鯨がいますよね、あれを獲るのをやめてください、ということです。理由は教えてくれなかったので分かりません」
船長は首をゆっくりと回すとまた窓のほうを向いた。ぼくは思わず、失礼であるということさえ失念して、船長の顔の前に右手をかざして上下に振った。「やめたまえ」という声とともにぼくの右手首を掴んだのはぼくをここに連れて来てくれた船員だった。ぼくはすぐに謝った。しかし、予想どおり船長が何の反応も示さなかったことも見逃さなかった。船長は煙管に口を付けていた。
船員はぼくの腕を掴んだまま「さあ、もういいだろう」と言ってドアのほうへ連れて行こうとした。しかしぼくはまだ一言も船長の返事を聞いてはいなかった。
「待ってください。ぼくはまだ船長の返事をうかがっていません。船長は誰にでも会って話を聞いてくれる、そういう人のはずです」
船長の判断力をあてにしていたわけではなかったが、ぼくは鋤鍬氏に言われたことを思い出してそういった。すると船員はぼくの腕を放してまっすぐぼくの目を見た。
「おや、君は美しい目をしているね」といった。
ぼくは思わず顔を背けた。顔が紅潮するのを感じた。彼はぼくの頬に手をやって優しく言った。
「船長は君に会ってくれたし、話も聞いてくれたじゃないか」
彼の言うとおりだった。確かに船長はぼくに会って話を聞いてくれた。
「ええ、あなたの言うとおりです」
ぼくは彼に同意した。彼はぼくのことをドアのところまで送ってくれた。
「誰に頼まれたんだい」
「鋤鍬という人です」
「あいつの息は臭いだろう」
彼はぼくの肩に手を置いていった。ぼくは声をひそめて「ええ」と答えた。悪口を言うのは気がひけたのだ。ぼくは鋤鍬氏に同情的な態度に出た。
「あの人は歯や胃が悪いのですか」
すると二等航海士は一瞬むっとしたような顔をした。
「私はとても胃が悪いのだが、息が臭いと思うかい」
彼は顔を近づけると目を閉じてはーっと息を吹き掛けた。彼の息はミントのにおいがした。ぼくは「ミントの香りがします」と答えた。
「そうだろう。私はいつでもクールミントのガムを噛んでいるのさ」
彼はポケットからペンギンの絵のあるガムを取り出して見せた。
「胃が悪かったり歯槽濃漏になったりすれば口が臭くなりやすいのは本当だ。だが、ちょっとした心遣いがあればそれほど口が臭いということはないのさ。ほら、君も知っていると思うが、口のにおいを消すスプレーなんかがあるだろう。ああいうのを使ってもいい。胃や歯が悪ければ必ず口が臭いというのは君の偏見だ。それに、誰も好き好んで歯槽膿漏になったり胃病になったりするわけではないのだ。先程の君の言葉はそういった人達をひどく傷つけるに違いない」
彼はそこで言葉を切った。ぼくは何か取り返しの付かないようなことを言ってしまったような気がして彼の顔をまともに見る気になれなかった。
「それに」彼は話を続けた。「鋤鍬は胃が悪いわけでも歯槽膿漏でもない。健康診断の結果も全く異常なしだ。私は彼のことには詳しいんだ」彼はそう言うとウインクした。
「奴には少し変わったところがあって、絶対に歯を磨こうとしないんだ。奴は、歯を磨くと歯が擦り減るからいやだというのだが、私は硬い物を食べても歯が減ることに変わりはないと思うのだがどう思うかね」
「歯を磨いたときと硬い物を食べたときとでは歯の擦り減る部分が違うのではないですか」
「おやおや、君も歯磨き反対主義者だったとは」
彼は肩をすくめた。しかしそれは誤解だった。ぼくは歯磨き反対主義者ではなく、ただ単に歯の減り方について意見を述べただけのことだったのだ。だから彼の誤解を解こうとして反論した。
「ぼくは歯磨きがいけないことだとは思いません。むしろ、歯科医や多くの人達と同じように歯磨きは絶対に必要なことであると思います。ぼく自身、食事の後は必ず歯を磨くようにしています」
ぼくは作業服の内ポケットから歯ブラシを取り出した。
「どうです。これが何よりの証拠です」
彼は「どれどれ」と言ってぼくが彼の前に突き出した歯ブラシをひったくった。ぼくはただ単に歯磨き反対主義者でないことの証拠としてその歯ブラシを彼に見せるだけのつもりだったので、彼の手に渡るとは予想もしていなかった。ぼくは歯ブラシが彼の手に弄ばれているのがとても嫌だった。彼が一番最近手を洗ったのはいつのことだろうか。彼は食事の前に手を洗う習慣があるだろうか。彼はトイレから出た後手を洗う習慣があるだろうか。しかし実際のところ、彼が極めてきれい好きで五分に一度アルコールで手を消毒するとしても不愉快であることに変わりはなかった。
ところが彼はその歯ブラシを彼の口の中に突っ込んだ。彼はすぐにそれを口から出してぼくに返してくれたが、ぼくは内心触るのさえ嫌だった。ぼくは柄の一番先端のあたりを左手の人差し指と親指とでつまむと後ろに隠した。彼にそういう持ち方をしているところを見られたくなかったのだ。気が付けば気分を損ねるだろう。
ぼくはもはやそれを使う気にはなれなかった。
「確かに君は鋤鍬とは違うようだ。歯ブラシには歯磨き粉の味が染み付いているし、ブラシも左右に開きかけている。そろそろ新しいのに変えたほうがいいかもしれないな」
「そうですね」とぼくは答えた。ぼくは一刻も早くこの場を立ち去って歯ブラシを捨ててしまいたかったので、「それでは失礼します」と取って付けたように言うと、操舵室を走り出た。
鯨を解体する甲板まで降りて来て歯ブラシを投げ棄てようとしたとき、誰かが後ろからぼくの腕をつかんだ。驚いて振り返ると他の乗組員達と同じように作業服を着て帽子をかぶった女の人が微笑んでいた。
「そんなことしちゃ駄目よ。海はゴミ捨て場じゃないんだから」
その人は微笑みを絶やさずに、しかし毅然として言った。
「それじゃあどこに捨てたらいいでしょうか」
するとその人はブリッジの直下を指差した。
「あそこよ」
そこには五つのごみ箱が並んでいた。
「この船ではゴミは分別収集になっているから気を付けてね。歯ブラシならば、右端の『不燃ゴミ』と書いたごみ箱に入れてちょうだい」