登校拒否を初めてから二十六日目の夕方、姉の瑞木はぼくの部屋に入ってくるなりそのときちょうど読んでいた「モービィ・ディック」を取り上げるとこんなの読んでる場合じゃないでしょと床に叩きつけた。ぼくはベッドからできるだけゆっくり起き上がると、できるだけゆっくり「モービィ・ディック」を拾い上げ、できるだけゆっくりベッドに腰掛け、瑞木に言った。
「これ読んだことないでしょ」
「読んだよ」
「信じられない」
「どうして」
「異様にきれいだもの」
「きれいだとどうして読んだことにならないの」
「読んだことにならないんじゃなくて、読んだようにみえないだけのことだよ」
「読んだようにみえないから読まなかったと断言するのは論理の飛躍ね」
「そうかもしれない」
「瑞木はぼくが学校に行かないのが気に入らないわけ？」
ぼくが登校拒否を初めてから一週間ほど経った頃から瑞木は妙にいらいらしてみえた。
「おかしいよ。父さんだって母さんだって全然気にしていないのに、保護者でもない瑞木が心配するなんて」
「心配なんてしてないわよ。ただただうっとうしいだけ。あんたが、平日も休日もずっと家にいるかと思うと、それだけで気が変になりそうよ。もういいかげん学校に行きなさい」
瑞木は再びぼくの手から「モービィ・ディック」をもぎ取ったが、今度はいらいらとページを繰るばかりだった。さっき床に叩きつけたことを後悔しているのかもしれない。
「どうして学校に行きたくないのよ」
瑞木は「モービィ・ディック」のどこかのページを開きながらいった。
「その質問にはもう何度も答えました」
瑞木とぼくの視線が一瞬交錯した。
「薬物自殺図られるより、うっとうしいほうがなんぼかましでしょ」
ぼくはそういってから微笑んだ。瑞木は「モービィ・ディック」をぼくに突き返すと黙って出ていった。
それから毎日、瑞木は夕方になると僕の部屋にやってきてはごちゃごちゃ言って出て行くということを繰り返した。
さて、それから数日後の午後、ぼくはようやく「モービィ・ディック」を読み終えた。なんだか、全身海水まみれのような感触があったので、まあ風呂にでも入ってゆっくり海の垢でも落とすかと風呂を沸かしたところで少し眠くなってきたので自分の部屋に戻ってベッドに横になっているうちにうつらうつらしてきて、はっと気がついたら窓の外はすっかり暗くなっていて、暗澹たる気持ちで居間へ降りていくと瑞木がぼくの読んでいた「モービィ・ディック」を読んでいた。
瑞木はスリッパを履いたまま脚をテーブルの上に投げ出してふんぞり返っていた。もし母がこの場にいたら激怒するに違いない。
「やっぱり読んでなかったんじゃないの？」とぼくがいうと、瑞木はふふんと鼻で笑った。
「ちょっと読み返してただけよ。でも、あんた私のこと言えないわね。だって読んでないみたいにきれいだもん。本当は読んでないんじゃないの？」
でもぼくは寝起きでひどい頭痛がしていたものだから、それには答えずに瑞木の向かいのソファに体を投げ出した。
「この連中が日本にやってくる鯨をみんな獲っちゃったから日本の沿岸捕鯨はすたれちゃったらしいわね」
ぼくは一度だけ食べたクジラの肉の味を思い出して吐きそうになった。
「日本が捕鯨を再開する必然性なんてないね。だって誰も鯨の肉なんて食べないんじゃないの？」
「私は食べるけどな。おいしいし」
「そう？二度と食べたくないけどな」
ぼくはこめかみを押さえながら答えた。そういう瑞木の着ていたＴシャツには鯨の絵がプリントされていて、たぶん英語で何か書いてあった。
「そのＴシャツってクジラを殺すなとかそういうんじゃないの？」
ぼくがそう指摘すると、瑞木は初めて気付いたように、あるいは本当にはじめて気付いたのかもしれないが、Ｔシャツを引っ張って模様と文字をひととおり眺めてから「おお、君の指摘は正しい！」と言った。ぼくは「主張と行動が一致していない」と瑞木を追い詰めようとしたが、「今回は大目に見て欲しい」と少し頭を下げた。ぼくが「いけません！私ごときに頭を下げられるとは！どうぞ、どうぞお手をお上げ下さい！」というと、スリッパで頭をはたかれた。
話はいつのまにか「モービィ・ディック」へと移っていった。ぼくが「博物学的傑作」と自分でもわからない主張を繰り広げると、瑞木は「饒舌で、同時に退屈なめったにない代物」と反論した。議論が白熱してくると瑞木はだんだん暴力的になってくる。これは間違いなく母譲りだと思う。母も怒ると金属製の軽いものだが灰皿を投げたり、相手を蹴飛ばしたりする。犠牲になるのはぼくの知る限りでは父と母の弟たるおじさんである。
このときもぼくが瑞木の言うことに異を唱えると、瑞木は右足を蹴りあげ威嚇しようとした。ところがスリッパだけは威嚇だけでは気が済まなかったとみえ、放物線を描いてぼくの頭上を飛び越えるとソファの後ろに落ちた。もう少しスリッパの描く軌道が違っていたら、後ろのカップボードのガラスを突き破っていたかもしれない。
ぼくは話を続けた。
「最初に鯨取りの話に出会ったのは小学二年のときだったよ、確か。担任のエンドウ先生が朗読してくれたんだ。その話は、鯨を取りに行って遭難する話なんだけど、たぶん紀伊半島の太地の浜のあたりの話だったんじゃないかな。日本の捕鯨って言うのは『モービィ・ディック』狩りみたいなんじゃなくって、鯨が浜に近づくと、たくさんの人がたくさんの小さな船に分乗して、よってたかってその鯨を仕留めるんだ」
「知ってるよ」と不機嫌そうに瑞木が言った。
「それで、銛を使うのはピークォド号と同じだよ。それで何十本という銛を鯨に突き立てて弱ったところで息の根を止めるんだ。そして仕留めた鯨を船につないで浜まで引いて来て、解体するんだ。ピークォド号の場合と違って鯨は少しも無駄になるところがないんだ。
それでその話なんだけど、あまりよく覚えてないけど、確か鯨を仕留めたまでは良かったけど、その後潮に流されて漂流するんだったと思う。それでどうにかして助かるんだけど、どうやって助かるんだったかは忘れちゃったけど、ずっと遠くの浜に打ち上げられるんじゃなかったけな。みんな何日も飲まず食わずだったから急に水をたくさん飲ませたりすると死んでしまうのというので、赤土を混ぜた水を飲ませるんだよ、変だけど。記憶違いかもしれないけど」
瑞木はソファの上に胡座をかいた。目が据わっている。
「その話は聞いたことがない」
「そりゃ、瑞木に話さないことだってたくさんあるさ」
「あんたが小学生の頃、どんなつまらないことでも私に話すって約束したじゃない」
そりゃ無茶だよ、とぼくは心の中でつぶやいた。
「それでさあ、この話をもとにして図工の時間に絵を画かされたんだよ、確か。物語の絵を画くとかいって」
「そういえばあんたのへたくそな鯨の絵を見たことがあるような気もするな。だけど、先生に読んでもらった本の中身なんてよく覚えてるわね」
「だってエンドウ先生は本を読んで聞かせるのが上手だったから」
「そう？」
エンドウ先生は瑞木の担任の先生でもあった。エンドウ先生は瑞木を担任した後、新入生のぼくの担任になったのだった。エンドウ先生は若い女の先生で、あれからずいぶん経つから、もうあまり若くないかもしれない。
「私のときも何か本を朗読してくれたことはあったけど、退屈だったよ。私、思わず居眠りしちゃったもん」
ぼくはエンドウ先生のことが好きだったが、瑞木は嫌いだった。瑞木がそう言っていたのだから間違いないと思う。
でもぼくは今でもエンドウ先生のことが好きだったから、エンドウ先生の朗読を聞きながら居眠りする瑞木のことをひどい奴だと思った。そして、小学生のガキになめられていたエンドウ先生を可哀想だと思った。
瑞木はぼくがどう思っているかなんていうことにはお構いなしに続けた。
「今から考えても、ほんっとにエンドウ先生って最低だったな。ひいきはするし、知識はないし。先生が『でんでん虫のでん子さん』ていう歌を音楽か何かの時間に取り上げたとき、私がでんでん虫には雄も雌もないからこの歌はおかしいって言ったら、『そんなはずはないわ。虫にも雄と雌はあるはずよ』とかいって一歩も譲らないのよ。私がいくら説明してもそんなはずはないって。参っちゃうわよね。次の日、図書室で図鑑を探して先生のところへ持っていったら、『あらそうだったの』とひとこと言っただけで、私の顔も見ないで図鑑を突き返したわ。それでも、みんなの前で『でんでん虫には雄も雌もなくて、瑞木ちゃんの言ったことが正しくて、先生の言ったことが間違ってたの』とか言ってくれるのかなって期待してたけど、結局何にも言ってくんないの。最低の女だよね。ああ、あの態度！思い出すだけでも腹が立つ！」
そう言うと瑞木はテーブルの上にあった「モービィ・ディック」をぼくに投げ付けてきた。ぼくがさっと身をかわすと後ろでガラスの割れる音がした。おそるおそる振り返るとカップボードの扉のガラスが割れていて、カップボードの中の母の自慢のウエッジウッドやロイヤルコペンハーゲンのコレクションも大きな被害を被っているようだった。破壊神「モービィ・ディック」はガラスと陶器の破片にまみれてカップボードの前に落ちていた。
ぼくはうつむいて「誰にだって間違いはあるさ」とつぶやいた。瑞木は腕組みしてぼくの後ろの惨状をじっと見つめていた。
「あんな母親恐くも何ともないわよ」と瑞木はうそぶいていた。母と娘の対決はそもそも無関係なぼくや父のことも巻き込むかもしれなかった。
「そりゃ、間違いはあるかもしれない。私にだってあるかもしれない」
瑞木は誰にいうでもなくそう言った。
「問題は、自分の信じていたことが間違いだって分かったとき、それを素直に認められるかどうかっていうことよ」
ぼくは瑞木が矛盾していることを知っていた。それはなにも瑞木がカップボードの破壊に関して確信犯であったということではない。
それは瑞木がエンドウ先生をやり込めたよりも少し前のことだが、カタツムリが雌雄同体であるということを瑞木に教えたのはこのぼくだったのだ。「でんでん虫のでん子さん」という歌を瑞木が歌っていて、その間違いを指摘したのはぼくだった。瑞木は自分が間違っているということをなかなか認めようとしなかったが、図鑑を見せたらそれ以上何も言わなくなったし、「でんでん虫のでん子さん」という歌も歌わなくなった。しかしぼくに「あれは間違いだった」と詫びたわけでもなかった。つまりぼくと瑞木の間でなされたやり取りはそのまま瑞木とエンドウ先生の間でもなされたわけで、瑞木はそのことについてはまるで無反省なのだ。瑞木が最初から反省などするようなやつでないことは十何年かきょうだいをやっていればわかることだが。
ぼくは瑞木がエンドウ先生と反りがあわなかったことは知っていたが、こんなことをしていたのなら、先生に嫌われても仕方のないことだと思った。
だがぼくは、瑞木がエンドウ先生にそんな仕打ちをしていたということよりも、それがぼくの瑞木に対する仕打ちであったことの方がショックだった。なぜなら、間接的とはいえ、自分の好きな先生にひどい仕打ちをしていたことになるからだ。そのころはまだエンドウ先生がぼくの担任になるなんてことさえ知らなかったとしても。
瑞木自身はカタツムリが雌雄同体であるという知識をいつ誰から得たのか、なんていうことはすっかり忘れていたようだ。さもなくば自尊心の強い瑞木がぼくにこんな話をするはずはなかった。
ぼくはそれを瑞木に言って、鼻柱をへし折ることもできなくはなかったが、そんなことをすれば、瑞木はさらに不機嫌になって話の論点をずらしながら再びエンドウ先生を攻撃するに違いなかった。ぼくは瑞木の言葉によってエンドウ先生が汚されるような気がしていたので、エンドウ先生を渦中から救い出さなければならない、と感じていた。ぼくは再び鯨取りの話に話題を戻そうとした。
「話はもとに戻るけど、赤土を混ぜた水を飲ませるっていうのはどういうことなんだろう」
「それは体験してみなければわからないことよ。あんたも捕鯨船にでも乗って、遭難して、泥水でも飲んでみることね。そうすれば、学校が限りなく天国に近いところだってわかるはずよ」
ところがそこへ父がとんでもない話をぼくに持ち帰ってきた。
父は破壊されたカップボードを見て顔色を変えたが、何も言わなかった。父は本当に賢明な人だと思う。
父が持ち帰った話というのは捕鯨母船に乗らないかという話であった。どういう人なのかしらないが父の友人という人が調査捕鯨にかかわっていて、息子が登校拒否をしてという話をしたらじゃあいい機会だから捕鯨母船に乗せてやろうということになったらしい。
なにがいい機会なものか。
しかし瑞木もこの根性無しを鍛えなおすにはまたとない機会ねというし、そこへ帰ってきた母はカップボードの惨状を見て「ぎゃー」と大声を上げ「誰がやったのよ」と物凄い剣幕でぼくにつかみ掛った。本当はだれがやったか判っているのだ。しかしいきなりそこへ行ってしまうと流血の大惨事になりかねないのでとりあえず無抵抗なぼくを血祭りに上げボルテージを下げてから瑞木に向かって「あんたね。壊したんなら片付けなさい」というが早いかその場を立ち去ろうとする。そこへ父が捕鯨船の話をする。「あらおもしろそうじゃない、乗せてもらいなさい」と言い捨てて居間を出て行く。これでぼくの捕鯨船乗船は決定だ。ぼくには拒否権も何もないのだ。
瑞木はほうきとちりとりを持ってくると黙ってぼくに渡した。瑞木の意に従ってガラスや陶器の破片を片付けていると瑞木が絞ったぞうきんを持ってあらわれぼくが掃いた後の床を黙って拭いた。ぼくの小犬の心臓は瑞木のこんな「優しさ」に弱い。
でも本当は「優しさ」なんかじゃなくて「疾しさ」なんだろうけど。
そんなわけでぼくはちょっとばかり捕鯨船に乗ってみることにした。