由が戻ってきたとき、秀はこのことを黙っおき自分が謝罪に行こうと一瞬考えた。しかし、それはかえって彼を怒らすことを思い出した。由はそのような舞いをもっとも嫌うのだから。秀は覚悟を決めて、おそるおそることの次第を報告した。
『由さん、実は……さっきマシンをいつもの所……あの製造部の所に移そうとしたんですよ。で、高橋さんと健二に作業させたんです。それであそこに、いま連続運用テストをしているマシンがあるじゃないですか。それを高橋さんが……』
『落としちゃったのか。』
『は、はい。あそこの分電盤、複雑ですからね。僕でもいまだに間違うし……それに、むこうの主任にぜんぜん関係無い仕事を手伝わされたみたいで、そのときの出来事みたいなんです。でも僕がマシンを運ばせるように言ったことが悪いんですけど……すいません。』
秀は、由の表情を伺うように言った。しかし由の反応は予想外に素っ気ないものであった。
『そうか……』
秀はその意外な反応に驚いた。由はそんなことにかまわず言葉を続けた。
『済んでしまったことは、しょうがないさ。俺が後で謝りに行くよ。なあに、俺たちの方が奴らの面倒をいろいろ見てやっているんだ。大きな問題にはならないだろう。いざとなれば俺が責任とればいいんだしな。』
『そんな、今管理していたのはこの僕です。由さんが怒られることはないですよ。』
『そうだな。さっきまでは秀がリーダ代理だったな。でもこれは俺が負わなければならない責任だ。俺が実のリーダだからな。おまえも将来、そうなるんだから、今からつらい責を負うことはない。』
由と秀のやりとりを聞いて健二は耐え切れなくなった。
『あ、あの……由さん……』
このとき高橋は、健二を肘で突っついて言葉を遮った。義孝はその動作を見逃さなかった。
『健二さんだ。マシンをおとしたのは。それを高橋さんが、自分のせいにしたんだ。』
義孝はそう確信した。
『でも何で……健二さんをかばったんだろう。自分のことを嫌っている健二さんを。』
由は、秀を制して、
『製造部のところに行って、謝ってくるよ。』
といって歩いていった。
秀はそんな由の様子を変に思った。
『なんか由さん変だな。会議でなにかあったんだろうか。でも高橋さん、ちょっと今回はしゃれになっていないですよ。勘弁してくださいよ。』
秀は、ずっと黙っている高橋にいらいらしながら文句を言うのをやめなかった。
一方、ここは彼らの工場から離れた建物にある事務所の事業部長席。由たちの事業部の事業部長と部長代理は人事に関する話をしていた。部長代理は今回の移動の件について確認をした。
『じゃあ、それでいいんですよね。今回は。』
事業部長は打ち合わせも一段落し、椅子に深く座ってタバコに火をつけ、落ち着いた様子でいた。
『ああ、ちょうど総務部が人を欲しがっていてな。あそこの事業部長は私の大学時代の先輩なんで断れないんだ。彼にしてみても悪くはない話だと思うよ。それにこれは内緒なんだが、近いうちあの品質検査も製造の人間にやってもらおうという上の方針があるんだよ。これからは担当が専門の製造から評価まですべてまかなうようにするらしい。言ってみれば一人一人がスペシャリストになる。もうそう言う時代だよ。半年後には評価の専門部門はなくなるだろう。』
『じゃあ、あのグループの人間もいろいろな所に振られるんですね。』
『グループというより、部全体がそうなるだろうな。まあ、そんな大きな部じゃないし、それに景気も回復してきて、部署によっては人が欲しいところも多いから人事はスムーズに行くだろう。』
部長代理は手持ちぶたさにネクタイを締め直しながら余裕のある表情で部長に言った。
『定時後、彼がここに来たら、その結果を伝えましょう。でもショックでしょうね。いままであのグループを一生懸命取り仕切っていたのに。部下からもかなり信頼あついみたいですよ。由さん由さんっていわれて。』
事業部長は由という名前を、一瞬分からなかったようだ。
『由さん？武田君の下の名前は、由というのか。』
代理は、確認するように資料を再び見た。
『いえ、正確には由蔵と言うみたいですね。』
事業部長は、そんなことを気にせずに話を進めた。
『まあ、どうでもいいことどよ、名前なんて。武田君もクビを切られないだけ、ほっとしているだろう。だいたい人間性なんてのはその時のグループの状態の中で造りあげられるものだ。グループが変わればその人間の役割だって変わる。彼がいなくなれば自然に誰かが代わりに役割を担うだけだよ。いままでもそうだったし、今回もそうだろう。それはそうと、さっきの件、あれからなにか連絡入ったか。』
部長代理は触れたくない話題を持ち出されて、今まで保っていた余裕を失ったようだった。
『あ……はい……ユーザ先に出向いている人間から、連絡入ったことは入ったんですけど……どうも原因が突き止められていないようです。いままでなかったんですけど……あんなトラブル。』
部長は、荒い調子の言い方になった。
『今までのことなんてどうでもいいんだよ。ユーザの反応はどうなんだ。』
『すいません……かなり良くない状況のようです。あのマシンのトラブルで作業が停止してしまったみたいですし……でも再現パターンが確定しかかっているみたいなんで、見通しはたっていると思うんですけど……』
『ユーザ対応している担当は大丈夫なのか？』
『え、ええ。かなり出来る人間みたいですから。』
『しっかりしてくれよ。あのユーザは以前にも違う件で一回トラブルがあって、問題になったんだからな。君の方でも正確な状況把握はできているんだろうな。担当の人間には定期的に進捗報告させてくれ。あと、私のところにも逐次状況を伝えるように。』
『はい。わかりました……』
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『健二さん。ちょっと。』
義隆は、作業場から少し離れたところに健二を誘った。健二は義孝が自分を呼んだ理由の見当がついていた。義孝は秀に聞こえないように声の大きさに注意しながら健二に言った。
『健二さんでしょう。やったのは。』
『やっぱり、おまえにはばれていたか……』
『なんで高橋さんのせいにするんですか。』
『いや……高橋さんが自分がやっとことにしようっていうから……』
健二の普段みせている自信ありげな表情は、すっかり消えていた。
『それを承知したんですか！健二さんってそんな人だったんですか。』
後輩に言われて、健二は開き直ったのだろうか。
『うるさいな。お前の言いたいことは分かっているよ。そうだよ、俺は最低だよ。それでいいだろ！』
『ねえ教えてくださいよ、本当のこと。どういういきさつがあったんですか？』
ちょうど義孝が健二に問い詰めたとき、秀が義孝たちに怒鳴った。
『なにやっているんだよ、そこで。早く仕事に戻れよ！』
秀はかなりいらついているようだった。
『たのむよ、みんな。違う部との間に関わる問題は、全部由さんに責任が行くんだからさ。』
しばらくして由は戻ってきた。相変わらずその表情は曇っていた。
『本当になにがあったんだろう。』
秀が作業中もずっとそのことを考えていた。義孝の方は高橋のことをずっと考えていた。
『あれじゃ高橋さんがかわいそうすぎる。しかし本当に……なんであの人は、自分のせいなんかにしたんだろう。』
『ブーーーー ブーーーー』
１７：３０。終業をしらせるブザーが鳴った。作業も一通り終わり、由はみんなに言った。
『一段落したことだし、今日は終わろう。わるいが、おまえたちは先に戻ってくれ、俺はこれから部長のところに行って来る。呼ばれているんでな。俺を気にしないで帰っていいからな。』
由はそう言って作業場を離れた。秀は心配になって由の後を追った。高橋たちはしばらくその場に立ちすくんでいたが義孝が、
『どうします？』
と聞くと、健二が暗い表情で答えた。
『俺たちは事務所に戻ろう……』
事務所に戻ると、彼らはそれぞれのロッカーの前で着替えた。義孝は、作業着を脱ぎ、ジーンズにネルシャツという、出勤時の服装になった。横では高橋が入社時からずっとそうだったスーツ姿に変わるところだった。今日の彼のスーツは、妻が最近選んだ３つボタンの流行を取り入れたものだった。義孝はその似合わない彼の出で立ちをいつもとは違った思いで横目で見ていた。そんな時、後ろから健二の声がした。
『義孝、さっきのことなんだけど……マシンのこと。実はまずかったんだ。俺がやったことになると……お前がここに来る前、俺はあそこで同じようなミスをしでかしたことあって……それで高橋さんが……』
健二はそのあとの言葉に詰まっていた。まだ着替えておらず、作業着のままで立ちすくんでいる。義孝は健二の様子を見て、だいたいの事情を理解したようだった。
『わかりました。そういう事情があったんですね。もう、いいんですよ。僕も事情をよく知らないくせに、生意気な口きいてすいませんでした。でもこれでもう、高橋さんには頭が上がりませんね。』
健二は若干気まずそうに高橋の方を見た。高橋の方は義孝たちの会話を聞いていて、そんなこと気にもしていないというそぶりを見せていた。義孝はロッカーにかけた作業着の匂いをおもむろに嗅いでつぶやた。
『そろそろ作業着、洗濯したほうがいいな。』
健二はしばらく沈黙したあと、２人にこう言った。
『これから飲みに行かないか？高橋さんも……俺におごらせてください。』
『でも健二さん、今日予定があるんじゃないんですか。奥さんと公団の件について、話し合うんでしょ？』
『それは明日にするよ。でも一応電話、入れて於いた方がいいかな。』
２人は飲みに行くことに同意はしたが、義孝は由たちのことも気になっていた。
『由さんたちも待ちます？なにがあったか気になるし。』
『いや、なんか長引くらしいっていっていたから。３人で行こう。明日になれば分かることだし、それに……なんか気まずいよ。２人には明日事情を話すよ。』
着替えが終わると、３人は事務所を出た。その組み合わせは非常に珍しいものだった。義孝ははしゃぐようにして健二に言った。
『健二さんがおごるなんて滅多にないですからね。高橋さん、たくさんおごってもらいましょう。』
『お前なぁ。高橋さんにならともかく、お前にそこまでおごる義理はないんだからな。』
高橋は、にこにこしながら、２人のあとについていった。そして健二に気づかれないようこっそりと財布の中身を確認した。こうして３人は正門をでて工場をあとにした。
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事業部長席から離れたところで待っていた秀のところに、たった今由が戻ってきた。
『どうだったんです？』
由は無理して平静を装っていた。
『やっぱり移動だよ。今日の会議で課長にほのめかされたとき、そうなることは確信していたけどな。』
『でも、ずいぶん急なことじゃないですか。普通前もって連絡するはずなんですけどね。で、いつなんですか？』
『来月からだということだ。』
由たちは外に出て、彼らの事務所へと歩いていた。すっかり日が短くなったこの季節、既に空にはうっすらと星が煌めいていた。敷地内のいくつかの工場では、薄汚れた窓から照明の灯がこぼれている。
『うすうすは分かっていたんだけどな。』
歩きながら由は、タバコをくわえた。
『でもあんな遠いところまで、家から通うのは無理ですよね。』
『会社の方でアパートを借りてくれるらしい。単身赴任ってやつだな。うちの奴らがきいたらなんていうだろうな。』
『うちの母親は移動の件で心配していましたよ。あんたは由さんの下でないとやっていけない、なんて言うんですよ。ぜんぜん信用してないんだよな。』
『大丈夫。おまえはもう十分一人前だよ。おまえの母親だって、わかっているはずさ。』
事務所にはすでにだれもいなかった。室内の照明は２人しかいないこの空間の中で不自然なほど明るく感じられた。
『でも明日、みんなこのこと聞いたらびっくりするでしょうね。』
『高橋は何も言っていないと思うからな。』
『え？高橋さん知っているんですか。このこと。』
『部長代理が言っていたよ。高橋にはそれとなく伝えているって。あいつもうちらの中じゃ俺に次いで長いからな。』
秀はなにか言おうとしたが、思いとどまった。
事務所を出ると、秀は由とこのまましばらく話を続けていたいと思った。
『由さん。帰りに、ちょっと一杯やりません？』
『いや。悪いけど今日は止めとくよ。うちのかあちゃんに報告しなきゃいけないしな。そうだ、週末家に遊びに来いよ。』
正門近くにまで来たとき、由は振り返って工場を眺めた。彼の目には窓からこぼれる明かりがいつもより鮮明に映っていた。