そして日曜日。
由の家には秀が遊びに来ていた。この日は天気が良く、窓から差し込んでくる陽光が彼らをやさしく包み込んでいた。由と秀は向かい合わせにソファに座り、まだ昼間だというのに酒を飲んでいるところだった。
『しかし由さんもこれから大変ですね。一人暮らしの準備もいろいろあるでしょう。』
由はウィスキーの入ったグラスを何気なく振って、氷を鳴らしていた。
『色々と揃えなきゃいけないしな。電話にテレビ、冷蔵庫。来週あたり街に出て、見てこようと思っているよ。しかし、まさか俺が単身赴任するなんて全然考えていなかったよ。』
『当然、週末にはこの家にかえって来るんですよね。』
由は隣に座っている妻の方を見ながら、笑いながら言った。
『どうだろう？長年こいつと一緒に暮らしてきたからな。一人暮らしして、自由を満喫するかもしれんぞ。週末は愛人と楽しいひとときを過ごしているかもしれんな。』
由の妻は、そんな挑発を軽く受け流してしまった。
『どうぞご自由に愛人でも作ってください。そんな度胸があればですけどね。この人はこうみえてずいぶん気が小さいんですよ。会社じゃずいぶんいばっているようですけど。』
『そうなんですか。うすうす感ずいていたんですけどね。やっぱり奥さんの方が格上なんですね。』
酔いもまわってきた秀は、饒舌になって言葉を続けた。
『でも工場じゃ由さん、自分は亭主関白だっていっているんですよ。』
『まあ！やっぱりね。でもそういうことにしておいてくださいよ。職場でしか威張れるところがないんですから。』
『そういうお前の方はどうなんだよ。え？秀。お前なんか俺以上にかあちゃんに弱いんだろ。』
『すぐそうやって僕の方に話を振るんですから。』
由はここで一気に話題を変えようとした。
『おまえのかあちゃん、今日は用事があって来れないなんて言って、実はお前が連れて来たくなかっただけなんだろ？』
『違いますよ。本当に用事があるんですよ。』
『本当か？用事ってどんな用事だよ。』
妻は、調子に乗ってきた由を制するように言った。
『そのそんなふうに、からかうもんじゃありません。ごめんなさい、秀さん。この人は自分が優位に立つと、すぐに調子に乗るんですから。』
『いえ、いいんですよ。そういう由さんには慣れていますから。』
『なんだよ俺が悪者かよ……なんか、いつもこうなるな。』
『どうみてもあなたが悪いんです。』
妻にそう言われて、由はふてくされたようにグラスを口に運び、一気に飲み干した。よく見ると彼の顔は既にほんのりと赤くなっている。
『そういえば、娘さんどうしたんですか？』
『志穂なら、友達とどこかに遊びにいきましたよ。』
妻の返答を聞いて、由はいまいましそうにつぶやいた。
『あいつは休みになると、いつも家にいない。まったくどこをほっつきあるいているんだか。』
『志穂さんも年頃ですからね。大学もきまって、一安心していろいろと遊びたいんでしょう。』
『遊びすぎだよ。先週なんて帰ってきたの夜中過ぎだぞ。高校生のくせに。俺が高校の時代なんて……』
その時、奥の方から電話のベルが鳴った。
『あら、誰かしら？』
彼女は電話を取りに居間を出ていった。
しばらく間が空き、由はタバコを取り出すと火をつけた。煙は不規則に渦まきながら部屋の中を漂っている。秀は一瞬煙を眺めたあとすぐ目をそらし、自分もタバコに火をつけると、深く煙をはき出した。
『……でも、寂しくなりますね。由さんがいなくなっちゃうと。』
『しょうがないさ。思えば、ずいぶん長くあそこにいたな。』
『いろんなことがあったでしょう。』
『ああ……いろいろな……本当にいろいろあったよ。でもこれからもいろいろあるんだろうさ。きっと……』
『でも、由さん抜けた後、新しい人を補充する予定も無いらしいし、どうなるんでしょうね、うちら。』
『あんまり重要視されていないからな、うちらの仕事。多分今より少ない人数でやっていけると上の方は考えているんだろう。でも大変だろうけど、なんとかなるさ。お前はもう全く心配ないし、健二はたまにポカやるけど、最近はなくなってきたし、もともと要領がいいやつだからお前を助けてくれるだろう。ただ意外に気が弱いところがあるから注意しないといけないぞ。あと義孝は以前に比べて大分コツを覚えてきたな。最初あいつはおぼえが悪くて本当に困ったよ。その頃を考えると、ずいぶん進歩したよな。』
『あとは高橋さんですね。』
『あいつはずっとあの調子だろ。昔からああいう奴だったよ。でもあいつを見てお前達が…………まあ、いいか。』
秀は由の言おうとしていることが分からなかった。
『え？何言おうとしたんですか？』
『さあな。ともかく、みんないろいろと役に立っているということさ。』
由は質問をはぐらかし、グラスを口につけたところで妻が戻ってきた。
『おとうさん。健二さんから。』
『お、健二か。』
『これから出かけるみたいだから、早く出てあげたら。』
『じゃあちょっと、出てやるかな。』
『またそんなこという。』
妻はあきれたように言いながら、秀の隣に座った。由は、タバコを灰皿に押しつけ、居間を出ていった。
美術館では、義孝が高橋の家族と一緒に芸術を堪能していた。作品の展示数はかなりの量で、画家の習作時代から晩年に至るまでの作品を、順を追って展示されていた。彼らは最初から丁寧に観賞しすぎたためか、晩年の作品群のところでは集中力を失ってしまった。義孝たちと高橋の妻は一つ一つの作品を流すように観賞し、しまいには疲れ果てて展示場の隅に設けられている椅子に座り込んでしまった。義孝は工場での休憩時の癖で、座った瞬間胸ポケットに手をやったが、ここが禁煙なのを思いだしその手を離した。いつもと勝手が違って手の置き場に困り、しかたなく両手を組んで、横に座っている高橋の妻に話しかけた。
『しかしこんなに絵の観賞が疲れることだと思いもしませんでしたよ。』
『わたしも。いままで美術館なんて行ったこと無かったし。でも疲れても観る価値はあったと思わない？』
『本当！そう思いますよ。芸術のたぐいは詳しくなく、よく分からないんですけど、なんかこう……満足感っていうんですか？そんな感じがありましたよ。』
『でしょ。でも最初は不安だったのよ。もしつまらなかったらどうしようって。わたしたちはいいんだけど、義孝くんを無理にさそっちゃったし……』
『……僕は前から高橋さんの家にある絵に興味持っていたんですよ。そんなとき、この展示会の紹介をテレビでやっていて……だから高橋さんに誘われなかったら、一人で行こうとしていたんです。』
義孝のその言葉を聞くと、彼女は横目でいたずらっぽい笑みを浮かべて彼を見た。それは彼女が普段からよく見せる表情で、義孝は彼女のその表情が大好きだった。
『一人で？本当は彼女と行こうとしてたんじゃない？』
義孝はからかわれて、恥ずかしそうにしていた。
『い、いや。一人なんです……寂しいけど。』
『本当かなぁ？実は彼女いるんでしょ？』
『ざんねんながら。』
『正直に正直にいっちゃいなさいよ。』
『いや、本当に。』
『じゃあさ、好きな人はいる？』
『……うちの職場、女っ気ないから。』
『へえ、もったいないわね。義孝くん二枚目なのになぁ。』
そのセリフは彼を喜ばせるのに十分なものだった。
『そうっかなあ？』
『そうよ。そうだ！サッカーやっているんでしょ？だったら女の子も観にくるんじゃない？』
『何故かうちらの試合観に来るのは男が多くて。女が来ても誰かの彼女だったりするし。』
『誰かの彼女でも、その彼女の友達だってきているんじゃない？』
『そうかもしれないんだけど……』
『もっと自身もちなさいよ。どんどん自分から声かけちゃいなさい。』
『そういうのって苦手だし……』
しばらくの間があった後、彼女は義孝に対し急にかしこまった調子になった。
『でも本当に義孝くんみたいな人が職場にいて良かったわ。これからも主人のこと、よろしくおねがいしますね。』
義孝は、対応にこまってしまった。
『い、いや。僕のほうこそ……あ、そういえば高橋さんこないですね。』
『ずいぶん作品が気に入ったみたい。篤と一緒にゆっくり観ているみたいだから。もうじき来るでしょ。』
『体力あるなあ。』
『まあ、それだけがとりえだから。』
『そんなこと言っちゃって。あとで報告しますよ。』
『ご自由に。普段からいっていることだから。あ、そうそう、この建物って美術館の他にもいろいろ遊ぶところがあるみたいだから、これ終わったらみんなで行ってみない？食事もここでとろうよ。』
『いいですよ。暇ならあまるほどあるし。』
『そんなの全然自慢になんないぞ。あ、やっと来たわ、親子して。こうしてみるとやっぱり似ているわね。あの二人。』
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『……じゃあ、秀さんにもよろしく言っておいてください。--------え？結局なんの用だったって？別に用は無いです。秀さんとどんな風に盛り上がっているのかなって思って。--------ええ、来週当たり遊びに行きますよ。じゃあ、もう出かけますんで--------はい、失礼します。』
健二は電話を切り、後ろでじっと待っていた妻の方を向いた。
『じゃあ、出かけようか』
既に二人とも外出の準備は整っていた。狭いアパートの玄関で窮屈そうに靴を履き、夫婦は外に出た。
『秀さんいた？』
『うん。いるみたいだよ。話さなかったけど。』
『高橋さんは？』
『あの人は今日美術館だよ。家族そろってね。義孝も一緒じゃないかな。』
『へえ。高橋さんってそういう趣味あったんだ。』
『っていうか、この前奥さんが絵を買ったらしいんだ。で、その人の展示会が今やってるらしくて、せっかくだからということになったらしいよ。』
アパートの階段を下り、二人は駅に向かって歩いた。日差が街路に優しく降り注ぎ、街の彼方には真っ白な雲の群が風に吹かれてゆっくり流れていた。そんな晴れた日の中、さまざまな光景が彼らの目に映った。道路脇で無邪気に遊んでいる子供たちや、鼻歌混じりに洗車している中年男性。バイクにまたがり友人と話している若者もいた。そんな風景が、休日のささいな幸福感を的確に象徴しているようだった。
『そういえば高橋さんの奥さんって、すごいかわいいって話じゃない？』
『うん、２，３度見たことあるけど。たしかに可愛いよ。年より若く見えるんもんな。』
『へえ、一度合ってみたいな。』
健二は思いついたように妻に提案してみた。
『今度遊びに行ってみないか？』
『うん。いこう、いこう。高橋さんにお礼もしなきゃいけないし。この前の件についてさ。』
彼女は自分の夫が高橋に対し、好意的な気持ちを抱き始めたことにうれしくてならなかった。
『おまえまで、そんなことする必要ないよ』
『だめ。あたしもちゃんとお礼を言うの。この前は主人がいろいろとご迷惑をおかけしまして……ってね。いままでさんざんバカにしてきたんだから、それくらいのことしないと。ね、そうでしょ？』
『そうだよな。確かに……しかし、おまえのかしこまった言い方って、似合わないよな。』
『なによ。失礼ね。あたしだって、それくらいのことできるんだから。あ、それから明日は由さんたちにその件についてちゃんと話してよね。』
『明日は言わないとな。この前は由さんの移動のことで、きっかけなくしちゃったからな。でも由さんたちなんていうだろうな。』
『なんか言われるだろうけど正直にいわなきゃ。艱難汝を玉にするってね。』
『なんだそれ？おまえよくそんな難しい言葉知ってるな。』
『つらいことを乗り越えて成長するって意味。テレビで覚えたの。すごいでしょ。』
やがて二人は、駅についた。人で賑わっており、駅前にはたくさんの自転車が停められていた。駅のホームはこれから街に出ようとする家族連れが目立っていた。
『今夜はどこかでゆっくりとしたいけど、健二は明日仕事なんだもんね。』
『いきなり思いださせるなよ。ああ……明日からまた仕事か……』
『ま、そんなくらい顔しないでくれたまえ。』
既に電車はホームに到着し、ドアが開いていた。
『なんだよ、えらそうに。』
『だってあたし、えらいもん。』
ベルの音の後ドアはしまり、二人を乗せた電車はホームを離れた。
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夕方も過ぎ、外はすっかり暗くなっていた。秀は時間を気にしてそろそろ帰ろうとした。ちょうど居間に戻ってきた由の妻がその姿を見て言った。
『あら、もう帰るの？夕飯、召し上がっていけばいいのに。』
『ありがとうございます。でも家で夕飯の仕度しているんで、もう帰らないと……』
由は酔いも冷めてきて、ソファにのけぞるように座って立ち上がった秀を見た。
『飯、食ってけよ。ちょうど準備しているところだしよ。』
『すいません……うちのやつに、夕飯までに帰るって言っているんで……』
『おまえは本当に、女房によわいな。』
『本当にすぐに準備できますから。かるく食べていってくれません？』
彼女の言葉に対し、秀はすまなそうに２人に言った。
『本当にすいません。家の用事もあって……また来ますから。』
『そうか。じゃあ仕方がないな。今度はゆっくりしていけよ。』
『ええ。今度は２人できて、遠慮なくゆっくりしいきますよ。じゃあ、今日は本当にごちそうさまでした。』
『いえいえ。なんのおかまいもできなくて。』
由の妻はそう言った後、奥からコートを持ってきて着せてあげた。
『じゃあ秀さん、奥さんによろしくお伝えください。』
玄関先で彼女がそういうと、秀は再び慇懃に挨拶をして家を出た。
外は街灯が淡く道路を照らし、明かりがともされた窓からは由が秀の方を見ていた。秀は軽く会釈して家を後にした。
『ちょっと遅くなっちゃたな。まにあうかな？』
ポケットから携帯電話を取り出し、いままで切っていた電源を入れた。
『あ、俺だけど--------今から行くから。多分間に合うと思う--------うん、そうだよな。実はそのことについていろいろあるんだけど、着いたらちゃんと説明するよ。あ、それとあと……』
秀は足早に歩き、電話の声と共に仄暗い灯下の向こう側に消えていった。由はしばらく窓の外を眺めた後カーテンをしめた。
一方、美術館の外では、高橋達がこれから帰ろうとしていたところだった。高台にあるこの場所からは、街並みを見下ろすことが出来た。夜気が心地よく彼らを刺激した。
『義孝くん、ごめんね。こんな時間までつきあわせちゃって。』
『いえ、べつにかまいませんよ。有意義な一日だったし。』
『そういってもらえるとうれしいわ。でも、たまにはいいでしょ。』
『そうですね。芸術したなって感じで、高尚な人間になった気はしますよ。また誘ってください。』
そんな会話がなされているとき、篤が母親の服を引っ張った。
『おしっこしたい。』
『おしっこ？なんで早く言わないの。もう、しょがないわね。２人ともちょっとまっててね、すぐ戻るから。』
彼女はそういって、篤をつれて館内に戻っていった。
先ほどから高橋は義孝達の会話をにこにこしながら聞いていたが、心はどこか遠くにあるようだった。義孝はポケットからタバコを取り出し火をつけた。高台からの景色を見下ろすと、至る所から灯りがこぼれている。義孝は高橋に向かって話しかけた。
『明日はいろいろありそうですね。由さんも移動するみたいだし、今後のことで……』
しかし高橋を見て途中で言葉を止めた。じっとこの夜の情景を眺め、感慨にふけっている高橋に、話しかけるのが悪いような気がしたのだった。義孝は近くにあるベンチに腰掛けた。再び街並みを見下ろしたとき、ふと高橋の家にある絵を思いだし、不思議にこの情景が身近なものに感じられた。暗闇に包まれた空と街。空に煌めく光と地上の優しい灯りは、どちらも淡く夜にとけ込んでいた。義孝は一瞬、この夜の情景が闇と光だけで創られているような錯覚にとらわれた。しかしどこからともなく聞こえてくる車の通り過ぎゆく音が、すぐに彼を元の世界へと引き戻した。彼はだらんとベンチでだらしなくからだをのけぞらせ、高橋をじっと見ていた。
『高橋さん、じっと空なんか見ちゃって、なに浸っているんだろう。絵を観て芸術に目覚めたちゃったのかな？まさか、そんなことないか。たった一回美術館に足を運んだくらいで。明日、工場に来たときにはいつもの高橋さんに戻っているだろう。そんな簡単に変わるものじゃないもんな。』
高橋の姿は現実との羈絆が解かれ、意識を彼方に漂よわせているように見えた。
彼が実際に今、なにを感じ何を思っているのか、そして明日からの工場での日々はどのようになるのか……触れて見たい誘惑に駆られるが、このあたりでやめにしよう。
『どう？満足した？』
戻ってきた妻が背中をポンとたたいた。彼はなんだか照れくさそうにわらって答えた。