工場では、相変わらずの作業が続いていた。そして３：００。今日、この時間に会議が開かれる予定だった。由は会議に出席するために作業場を離れようとした。
『じゃ、これから会議行ってくるから。秀、あとのことは頼むな。いつも通り緊急な用事が会ったら会議室に連絡入れてくれ。』
『分かりました。由さんに連絡しないように切り回してみせますよ。』
健二は、そんなはりきる秀に冷やかしの言葉を投げかけた。
『じゃ、なにかあったら全部秀さんに任せることにしましょう。』
『健二、そんな人を心配させるようなこというなよ。結構プレッシャーかかっているんだからな。』
『さっきと違うじゃないですか。急に弱気になっちゃって。』
由は秀人と健二の二人を見ながら、
『しかし、秀もそろそろ皆を取りまとめていく自信が出来たんじゃないのか？』
と言うと、秀がそれに答える前に義孝は一人醒めたように呟いた。
『でも、そんな緊急なことって、僕たちの仕事じゃあり得ないですよね。ただ同じ作業を繰り返しているだけだし……』
『なに、突然深刻ぶってるんだよ。俺たちは……』
健二の言葉を遮って、由は口調を和らげて優しく言った。
『たしかにな。俺たちの仕事は単純だ。そして俺はもう何十年もこの仕事を続けていた。会議では年下の人間が、また偉そうなことを言うだろう。やつらは学歴だけで、今の立場が当然だという顔をする。そしてろくに事情を知ろうとせず、勝手な注文をだす。でもこれも仕方がないことなのさ。俺も何度か上の奴らとやり合ったことがあったが、結局あいつらの言いなりさ。わかるか？俺たちがどうあがいたって、なんにもならないことなんだ。お前もいつか分かるさ。みんな、お前が思っているようなこと若いときに思うんだ。そう……若いときにな……じゃ秀、後は任せたぞ。』
そう言って由は会議室に向かった。秀人は自分が指揮をすることの満足感と、今の由の言葉で、複雑な気持ちでいた。彼は何を言おうかしばらく考えたが、そのあげくに口から発せられた言葉は非常にありきたりのものだった。
『じゃ、作業を続けてくれ。』
高橋を含め誰一人、秀人が由の代行を務めることに疑問を抱かなかった。健二は由がいなくなったせいか、かなりリラックスしていた。
『なんか最近空調の効き悪いですね。』
義孝を気にしつつも、秀は健二と話を合わせた。
『ちょっと調子が悪いみたいだよ。上の方には修理してくれって由さんが訴えているらしいけど、多分修理は当分先になるだろう。このくらいじゃ何もしてくれないさ。なにしろ金が無いみたいだからな。』
『そういえば、残業規制もいっそう厳しくなるみたいですね。有休とるなら、代休にしろとか言っているらしいですよ。そんなに儲かっていないのかな。でも、違う部署のためには使う金があるんでしょ？結局、俺たちには我慢しろってことなんですかね。』
やがて、工場内に音楽が流れてきた。本来ここで指定されたストレッチ運動をするはずなのだが、ほとんどは申しわけ程度に軽く手足を動かしながら、雑談したりするのであった。健二は手を作業道具から離し、秀に話を続けた。
『そういえば秀さん、実は昨日女房から言われたんですけどね、公団の募集があるらしいんですよ。それで、どうしようかなと思って。』
『なんだ、マンションの夢は諦めたのか。』
『そりゃそれにこしたことないですけど……昨日二人ではなしていたとき、やっぱり今の給料じゃその方がいいかなって思い始めたんですよ。』
『でも抽選なんだろ、あれって。』
『まあたしかに……でもこれがだめでも、いろいろと応募しようかなって思っているんですよ。そんなにいいところじゃなければ、競争率は低いだろうし、そのうちあたるでしょう。とりあえず落ち着きたいな、なんて……。』
『たしかにそうかもしれないな……まあ、とりあえずいろいろ情報集めることだな。いまの段階じゃなにも言えないし。』
『秀さんの言うとおりだ。とりあえず今日帰ったら、二人で相談してみます。うちのかあちゃんが、いろいろ公団のこと調べているんで。それにしても秀さんはいいよな。最初から家があるんだから、こんなことで悩まなくてもいいんだもんな。』
『ばか。俺だって、これでいろいろ大変なんだぞ。』
秀は健二にそう言った後、聞こえないようにぼそっとぶやいた。
『そうだよ。お前なんかになにがわかる……』
『秀さん。今のうちにこのマシン、違うところに移しておいたほうがいいんじゃないですか？』
義孝は思い出したように秀に言った。この機材は、作業のために違う課から借りていたのだが、その作業も昨日で終わり必要が無くなっていた。
『そうだな、今のうちにやっておくか。じゃあ、高橋さん……この大きさじゃ一人じゃ無理かな？あと健二。わるいんだけど、こいつを向こうの方に運んでくれないかな。』
『第二製造部の所ですよね？』
『ああ、そうだ。あそこはかなりスペースが開いているから、大丈夫だろう。ちょくちょく置かせてもらっているしな。』
『じゃあ、ついでにすぐに引き渡せるような状態にしておきますよ。』
『働くねえ、健二は。』
『健二さん、やる気満々じゃないですか。なにがあったんですか？』
『義孝、自覚だよ自覚。社会人としての自覚。』
『ただし気をつけろよ。たしか連続運用試験をしているマシンがあるからな。電源切ったなんていったら、大変なことになるぞ。』
『わかりました。じゃ、高橋さんやりますか。台車持ってきてくれます？』
高橋はいわれた通り台車を持ってくると、二人でマシンを持ち上げて乗せた。健二は
『行ってきますね。』
と行って、台車を押して去っていった。後から高橋もついていった。
秀と、義孝の二人だけになった作業場では、
『健二さん元気だなあ……』
と義孝が不思議そう面もちで言った。
『あいつは今が一番幸せなんだろう。俺も新婚の時そうだったよ。一生懸命に頑張ろうと思っていたよ。』
『それが、今じゃ……ですよね。』
『おいおい、今だって多少なりともやる気はあるぜ。お前はまだ分からないだろうけど、所帯持ったら生きるために働くんだよ。そりゃ、仕事が生きがいってやつも中にはいるさ。でもそんな奴、運や才能に恵まれたやつか、大学出た奴だけの特権さ。由さんの言う通り、俺たちみたいな奴らは上のやつらの言いなりになって我慢して、努力して働くしかないのさ。』
義孝はそんな秀の言いぐさに反感を憶えた。
『それは違うと思いますよ。僕はまだ２０そこそこの人間だし、偉そうなこと言えないですけど、なんか……違うと思うな。だいたいそんな気持ちで、何十年もやっていけるんですかね。それに他の部の人たち、例えば製造やっている人なんてまだ僕たちよりやりがいを持っているように思うんですけどね。』
『所詮最初だけさ。すぐにつまらなくなるもんさ。だいたいここにいる人間なんて、会社から重要視されていない奴等ばかりさ。俺にしろ、お前にしろ。由さんだってそうさ。そうだ、みんなそうなんだ。上の人間からみれば俺たちは高橋さんとおんなじだよ。そして俺たちはどうすることも出来ないんだ。』
そのあと秀は口には出さなかったが、こう言おうとしていた。
『そう考えると俺たちが高橋さんを憎むのは、実に卑しい慰め行為だな……』
義孝の方は、秀のそのような投げやりな言葉に驚いた。
『どうしたんだろう、秀さん。いつもはこんなこと言わないのに。由さんが僕に言った言葉にショック受けたのかな？』
しかし、どうしても秀の意見は賛成できず、反対しようといろいろ言葉を探した。しかし、どうしても自分も秀も納得させられるような説得力ある意見を出せないで、切歯扼腕していた。秀は、義孝を見てこう言った。
『お前はまだ若いからな。まだ可能性があるよ。今のうちだ……』
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その頃、健二と高橋は、マシンを工場の角の方の第二製造部まで、運んでいた。そこには秀の言う、通電試験を行っているマシンが置いたあった。二人は台車から下ろそうとして、適当な場所を探した。床には電源コードなどのいろいろなコード類が、いくつも絡み合っていて、スペースを占領しており、まずこれらを整理する必要があった。
『わあ、すごいなこりゃ。これじゃ置く場所なんてないじゃないか。高橋さん、悪いけどまとめてくれません？この散らばったコード。マシン置くスペース分作ってくれるだけでいいですから。僕は、主任のところに行って許可もらってくるんで。』
そう言って健二は、製造部の主任のところに行った。高橋は床に絡まっているコード類をまとめだした。彼の隣には、動作テスト中のマシンが電気音を発しており、マシン本体には連続運転中と雑に書かれた紙が貼られていた。コンセントにつながれたコードの中には、電源が入っていないマシンのものがかなり多く、それらを見極めて外しながら作業をしていた。もちろん細心の注意を払ってである。外したコードは丁寧に巻いて、マシンの近くに置いた。途中、絡まったコードが一本あり、どうしても外す必要があった。高橋は何度もそのコードをたどった。テストマシンの近くということもあり、十分確かめたつもりでいたが、なぜか外す段階で不安になってきた。万が一、これがテスト中のマシンの電源コードだったら大変なことになる。彼はなんどもなんども目で追って確認した。そうして意を決してコードを引き抜いた。そしてすぐにマシンの方を見た。
……マシンは変わらず電子音を立て稼働している。高橋は大きく息を吐いて安心した。しばらくして、健二が戻ってきた。
『終わりました？あ、こんなもんでいいですよ。じゃ、台車から降ろしましょう。』
二人は、マシンを台車から持ち上げ、そっと下ろした。
健二が秀にいったように、マシンをすぐに引き渡せるように作業していると、製造部の主任がやってきた。
『お、なんとか場所作ったようだな。コードも整理してくれたのか。相変わらず高橋さんはまめだな。』
健二は作業しながら主任の方を見ずに言った。
『ずいぶんぐちゃぐちゃしてますね。テスト中のマシンがあるんですから、もうちょっと整理したほうがいいんじゃないですか？』
『俺もしつこく言っているんだけどな。その時は注意しても何日かすると、すぐにこのありさまさ。うちの人間のだらしなさは知っているだろう。まあ今のところ支障はでてないし、あきらめてるよ。』
『でもこんな状態だと、いつかなんか起きそうですよ。』
そうしているうちに健二たちの作業が終わり、二人は秀たちのもとに戻ろうとした。健二は製造部主任に礼を言った。
『じゃ、僕ら戻るんで。どうもありがとうございます。』
主任は、そう言って帰ろうとする健二たちを引き留た。
『悪いんだけどさ。いそがしくなければちょっと、手伝ってほしいことがあるんだけどな。』
『また始まったぞ。この人はよく俺たちに仕事を手伝わせる。恩を着せるような言い方で。』
そう思いつつも、慇懃な調子で健二は答えた。
『そんな忙しくないんで大丈夫ですよ。なんですか？』
『今度またテストしなければならないマシンがあってな。そのセッティングをして欲しいんだが。』
『あ、それくらいならいいですよ。』
『そう言ってもらえると助かるよ。ここにあるマシンなんだが。』
そう言って主任はビニールに包まれたマシンを指した。
『健二君たちのよく知っているマシンだよ。セッティング方法は知っているだろう。うちの人間はこのマシンのことをよく知らないんでね。お願いするよ。』
『よく言うよ……』
健二はそんなことを思いながら、主任の依頼を諒解した。
『じゃあ、悪いけど頼んだよ。』
そう言って主任は席の方に戻っていった。
健二たちは自分たちの範囲外の押しつけられた作業を行うはめとなった。
『なんかあの人、俺たちにたいして態度でかいよな。そう思いません？』
健二が高橋に問いかけると、高橋ははっきりしないようなうなずき方しかしなかった。
『はっきりしない人だな。高橋さんがとろいから俺たち全員がなめられるんだよな。』
作業を承諾したのは健二の方だったが、そのことで自分を攻めようなんて気は健二の頭の片隅にも無かった……
やがて準備も終わり、健二は電源を入れた。しかし、マシンは立ち上がらなかった。
『あれ、おかしいな。分電盤の電源が入っていないのかな？』
そう言って健二は面倒くさそうに分電盤の方へ行った。
『え〜と、あの電源のスイッチはこれだよな？』
健二は、なにげなくスイッチの一つを選んで、ボタンを押した。
『ブチ！』
不安にさせる音が彼らに響いた。そして今までうなっていた電子音が消えた。小さな音だが、二人にとってはこの変化はかなり大きいものに感じられた。
『ああ！』
健二は途方に暮れたような弱々しい声をあげた。
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『そうですね、今のうちにいろいろ勉強したほうがいいですよね。なんか技術があれば、将来絶対それが役立ちますからね。』
『そうだ。本当にそうだと思うよ。俺も今になって後悔しているよ。もっと勉強すればよかったてな。』
秀と義隆がそんな会話をしているところに健二と高橋が戻ってきた。
『戻ってきたか。』
秀がそう言って健二を見ると、顔が青ざめていることに気づいて、不安げに聞いた。
『健二、どうした。まさかなんかやったんじゃないだろうな？』
健二はおどおどしながらいった。
『僕じゃなく……高橋さんが……』
『まさかテスト中のマシンの電源、落としたんじゃないよな？』
『は、はい……』
健二の返事を聞いて、秀は驚いたように言った。
『なんだって！あれほど気をつけろっていったじゃないか。高橋さんどういうことですか。』
高橋は、ただ謝って頭を下げるだけだった。秀は困ったような顔をした。
『どうしてそんなことをしたんですか。それで製造部の人はどうしたんですか？当然怒ったでしょう。ああ、由さんが戻ったらなんて言えばいいんだ。』
高橋はただただ謝るのみだった。義孝は健二をみて、
『なんだか変だな』
と思った。
そんな時だった。由が会議を終え、戻ってきたのは。