食事も終わり高橋は居間のテレビで野球中継を見ていた。８：００、家に戻りこのくらいの時間までが、彼にとって一番幸せな時だった。深夜になるに連れ、会社のことが嫌でも頭を過る。それにしても、一生懸命さゆえに失笑を買ってしまうとしたら、その人間はなんと不幸なことであろう。高橋は由たちをどう思っているのであろうか……
隣に座っている息子の篤は、野球を見ながらいろいろと選手のこと、プレーについて、しきりに高橋に聞いてきていた。
『このピッチャーって去年まで違うチームにいたよね。どこだっけ？』
『ねえ、なんで今のアウトになっちゃうの？おかしくない？』
彼はそんな子供の質問に一つ一つ丁寧に答えてやっていた。その表情には、ささいではあるが、満足感が見て取れた。
しばらくして、台所仕事を終えた妻がやって来て、高橋の向かい側のソファーに座り、家族全員でのテレビ観戦となる。試合の方は、大量得点を奪われ巨人が負けていた。回は後半に差しかかり、得点差を覆すようにはとても思えず、高橋は今日の試合を諦め始めていた。
『そういえば話し忘たことがあったわ。あの絵のことなんだけど。』
彼女は壁の掛けられている絵を指で刺しながら、夫に話しかけた。
『ミサのこと、おぼえているでしょ？あの絵を勧めてくれたわたしの友達なんだけど。今日ミサから電話があって、その時話に出たんだけど今美術館でこの絵の作者の展示会がやっているんだって。そしてそれが今週一杯までらしいの。ねえ、今週の日曜日にでもみんなで行ってみない？なんか興味あるし、それにやっぱり……ねえ。行かないとおかしいじゃない。』
高橋は妻のことばに多少の驚きを見せた。彼女は高橋同様、この絵に興味を持っていなかったのだ。たしかに彼女の言う通り、自分の家に飾ってある絵の作者の展示会に行かないのは不自然かも知れないが、無理していくほどのことでもない。もともとは、居間の雰囲気がなんとなくもの足りない感じがして、それでミサの勧めるままに絵を購入し、そして虚栄心のみが彼女の心を満たしていたはずであった。だから妻の今の言葉は、あきらかな変化であった。しかし高橋はなにもそのことを問いかけず、妻の申し出に同意した。拒否する理由などなにも無いし、家族でどこかに出かけるのことは高橋も好きであった。早くも彼は美術館を出たあとの予定を考えていた。さぞかし、美術館を早々に出てどこかのレストランで家族そろって食事しようなどと、考えているのであろう。高橋は再び絵の方に目をやった。
同じ頃、秀人の家では彼の母親と妻がサスペンスドラマを見ながら、盛り上がっていた。彼の家族は母親と妻、それにまだ幼い娘と４人家族だった。姑と妻はどういうわけか、お互い息が合っていて、家庭では彼女たちの声が大半を占めていた。秀の母親は昔から勝ち気な性格で、学校で秀がいじめられてきたと知ると、学校に文句を言いに出向くこともしょちゅうあった。秀はそんな強い母親に対し、尊敬と畏怖が微妙なバランスを保ちながら育ってきた。
『あ、多分この人よ。犯人は。』
サスペンスを見ながら妻は何か閃いたようで、姑に話しかけた。彼女はまだ犯人の検討がついてなさそうな姑に向かって、得意げに話を続ける。
『さっき弁護士と二人っきりで廊下で話していて、あの時お前の昔がどうのとかって弁護士が言っていたでしょう。多分脅したのよ。それで困っちゃってあの女が弁護士を殺したんだわ。』
気の強い姑は、負けん気を起こして言い返した。
『あんたなんかが簡単に犯人見つけられるほど、簡単にドラマ造るわけないじゃないの。多分そう思わせておいて、どんでん返しがあるんだよ。黙ってみていなさいよ。』
チャンネル権を奪われた秀は、ナイター中継も見ることもできず、しぶしぶと興味のないドラマに付き合っていた。
『はいはい。本当におかあさんは、口だけは達者なんだから。年寄りはもうちょっと素直なものの言い方するのものよ。おかあさんも年寄りらしく、可愛くなりなさいよ。』
秀はテレビと二人のまるで親友同志のような会話を黙って聞きながら、おもむろにタバコに火をつけた。
『秀、タバコ消しなさい。子供が横にいるでしょ！』
息子のしぐさに、母は機敏に反応し叱りつけた。妻もその言葉に同意した。
『おかあさんの言うとおりだわ。タバコは吸っている人よりも、周りにいるほうが、害が大きいのよ。もうちょっと気を配ってよ。』
『わかったよ……』
秀はそう吐き捨てると、まだほとんど吸っていないタバコを灰皿に押しつけたが、まだ十分長いタバコは途中で折れてしまい、灰皿の上で燃え残っている灰をこまめに消さなければならなかった。煙は一回口から吐き出されただけで、ごくわずかな匂いを残してすぐに消散してしている。
娘は父と母親達を交互に見ていた。その姿をみて、妻は娘に話しかけた。
『アユちゃん。お父さんのタバコ、止めてほしいよね。アユちゃんの方から言ってやりなさい。お父さんタバコ止めてって』
アユはその言葉をただ反復するように、舌足らずな言い方で父親に言った。
『おとうさん、タバコやめてね。』
秀はアユをじっとみつめていた。そのあどけない表情でじっと自分を見ている娘に可愛さを抱きつつも、ふとこんなことを考えていた。
『あと何年かしてアユが年頃になると、俺の居場所は完全になくなるんだろうな。』
そう思うと少し憂鬱にもなった。
『将来、家でも工場でも居場所が無くなるんだったら……本当、最低だな。』
『そういえば、そろそろ移動の時期よね。お父さんどうなっているのよ。』
妻はふと思い出したように秀にたずねた。母親も以前から気になっていたようで、その質問を聞いて突然真剣な面持ちになり、息子の返答を待っていた。
『別になんにも言われていないし、たぶん俺はこのままだと思うよ。健二達も多分、変わらないだろうな。まあ、どこいても変わりはないと思うけど。』
母親は息子の言葉を聞いて安心したようだった。
『変わりないなんてことないでしょ。あんたは今の所が一番なんだよ。違う職場で、ろくでもない上司の下で働くことになったらどうするんだい？会社のなかにも、どんな人がいるか分からないからね。あんたはいい職場に巡りあったんだから、ついていると思わなきゃいけないよ。由さんは本当に立派で、面倒見がいい人だよ。おまえは由さんみたいなてきぱきした人の下でないと、やっていけないタイプでしょ？それに他の人もみんな人のよさそうな人ばかりだし。』
『かあさん、俺を見くびりすぎだよ。俺だってもう３０だし、どこでだってやっていけるよ。あと何年かしたらリーダーでやっていけるかもしれないし。』
そんな息子の言葉を、母親は冷たく突き放した。
『まだまだお前は人に指図する器じゃないよ。年とったからって偉いってもんじゃないじゃないしね。高橋さんみたいに４０になっても……とにかく、あんたはまだまだ由さんからいろいろと学ぶべきだよ。』
秀は母親の言葉に不満をおぼえた。
『かあさんは、俺を高橋さんのようなタイプだと思っているんだろうか。』
そう思うとなんだか自分が屈辱を受けているような気がした。秀が高橋を疎ましく思うのは、自分とに共通点を感じているかも知れなかった。本人はそんなこと気づいてはいなかったが、母親はなんとなくそのことに気づいているのかも知れない。秀の方は由は母に似ていると思っていた。したがって秀人の由に対する思いは複雑なものだった。妻の方は、自分から話題を持ちかけながらもさっさと話を切り上げ、ドラマの続きを見ているのであった。秀はその姿を見て呟いた。
『みんな会社での俺の苦労、分かっていなんだろうな。いまの立場になるのにどれだけ苦労した思っているんだ。それをのんきにテレビなんて見ちゃってさ……』
秀はこの場から離れたくなって、読みかけの本を読みに書斎に行こうとした。
『また読書かい。本当に好きだね、あんたは。ちゃんと部屋明るくして読みなさいよ。暗いと目悪くするから。』
母親のそんな言葉に返事を返さず、秀は居間を出て行った。
秀が部屋を出て行った後、ドラマはＣＭに入った。ＣＭソングとして流れている賑やかな音楽を聴いて、姑は辟易した。
『どうも、こういう騒々しい音楽は苦手だよ。あたしはもっと静かな曲の方がいいけどね。』
『おかあさんは分からないかもしれないけど、今すごく流行っている曲なのよ。あたしはこの曲すきだわ。』
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『あたしこの曲大好き。』
健二の妻は、店内に流れる音楽を聞いてうれしそうに言った。健二夫婦はアパート住まいで、将来マンションを購入するために、夫婦共々働いている。しかし倹約し過ぎる生活も貧乏くさいということで、月一回は夫婦で外食することにしていた。そして今日はその日だった。
『たしか今流行っているんだよな。へえ、お前この曲好きだったのか。知らなかったよ。』
『もう、とても夫婦の会話だと思えないわね。一緒に住んでいるのに。』
『そういえば最近、会社の話しかしてないもんな。』
『それも愚痴ばっかり。』
『たしかに……愚痴でも言わないとやってらんねえしな。本当に仕事つまんねえよ。』
『なにいい年して愚痴こぼしているのよ。もう大人なんだから、がんばらなきゃね。』
健二はまだ二十歳を過ぎたばかりの妻に諭されて、なんだか情けないような気がした。
『俺だってもっといい職場だったら、こんなに愚痴こぼさないさ。人をさんざんこき使っているくせに、給料はわずかだし。こんな給料じゃマンションどころか、子供だって造れしないよ。そういえばもう大分前にもなるけど、言ったろう。飲みに行ったとき、由さんにその事で愚痴こぼしたってさ。でもあの人は俺たちの状況分かってくれているみたいだけど、自分じゃどうしようもないっていっていたよ。まああの人に言ってもしようがないんだけどな。所詮管理職じゃないからなんにも出来ないだろうし。』
ワインを飲んで適度に酔ってきた健二は徐々に饒舌になるのだが、結局話題はいつも通り会社のことになってしまう。
『そういえば今日の夕方、高橋さん部長になにか言われていたな。ずいぶん長く話していたよ。どうせ怒られたか、嫌味を言われたんだろう。あの人はほんとうに要領が悪いよ。一日一回は必ず怒られるんじゃないかな。まあ、俺が見ていてもいらいらする時があるからな。』
そう言って健二は食事をしながら調子に乗り、いろいろと高橋のことをあれこれ言いたい放題言った。
『言っちゃ悪いけどあの人、この仕事向いてないよ。』
『かわいそうじゃない、そんこと言っちゃ。』
妻は高橋を可愛そうに思っていた。夫から高橋のことを聞く度に、まだ会ったことのない彼に同情していた。いや正確に言えば彼女は自分達の結婚式の時会っているのだが、ほとんど憶えていないのであった。
『本当にいらつくんだよ。お前だって、実際職場に来てみればそう思うぜ。』
たしかに夫の言うとおりかも知れない。そう彼女は思った。善良な人間というのは遠くから見ているから、美しく見えるのかもしれない。実際にかかわると疎ましく思うのかもしれない。しかしだからといって、楽しそうに人の悪口を言う夫の姿を見るのは辛かった。
食事も終わり、店を出てバーに寄ることにした。ネオンに彩られた夜の街は、混雑しており、彼女は健二の手をしっかりと握りしめながら、彼についていった。しばらくして信号にひっかかり、彼女たちは横断歩道の前で立ち止まった。隣には彼女たちより少しくらい若い男女が信号を持ちながら、楽しそうに話していた。ネオンと星空の光も、ロマンチックな気分にさせる。彼女は健二にさらに寄り添って、話しかけた。
『ねえ、さっきの話だけど……考えてくれる？』
『さっきの話って公団のことか？』
彼女は今日、公団の入居募集の話を聞いて、夫にその話を持ちかけていたのだった。
『競争率はかなり激しいみたいなんだど、応募してみる価値はあると思うの。だめでもともとだし、それにマンションを買うよりずっと現実的だと思うの。』
『公団か……たしかにそういう手もあるな。俺とお前の給料合わせてもまだまだマンションは先のことだしな。』
『ねえ、真剣に考えてみてよ。それに……公団にしたら子供だって造れるわ。』
健二はしばらく間をあけた後、こう答えた。
『ああ……分かったよ。明日いろいろ詳しく聞いておいてくれないか？それからまた話し合おう。いっそ外で相談するか？おしゃれな店なんかでさ。』
健二はすっかり当選した気になっていたのかもしれない。
『なによ。太っ腹になっちゃって。』
『やっぱり我慢して倹約して生きていくなんて、俺たちにあってないからな。それに公団に住むのなら、そんなにけちけちしなくでもいいだろう。』
『もう、当選するって決まったわけじゃないのよ。本当にすごい競争率なんだから。』
信号は青になり、彼らは歩き出した。
『それにしても家がある奴は羨ましいよ。いっそ、俺たちも秀さんみたいに実家で親と一緒に住むかな。』
『いやよ、あたしは。姑の世話なんてうんざりよ。それに兄さんの家族も同居しているじゃない。気を使って生活するなんてまっぴらだわ。あたしは健二と二人で暮らしたいの。そして子供が産まれたら、三人で仲のいい家庭を築くのよ。』
『俺とお前と子供の３人の家庭か。子供は男の子かな、女の子かな？』
『どっちでもいいわ。きっと可愛い子供よ。』
そんな妻の言葉を聴きながら、健二はショウウインドウに写る自分達の姿をじっとみつめていた。
再び高橋の家に戻るとしよう。時はすでに０時を過ぎていた。
『もう寝ましょう。』
居間でテレビをみながら妻は言った。すでに篤はとっくに寝ている。
『さき行ってるわね。』
そう言うと、彼女は先に寝室に行った。一人になった高橋はふとこの家の事をことを想った。まだローンこそ終わっていないが、自分のような人間がよく一戸建てを購入できたものだと思う。家を購入しようと言い出したのは、妻だった。彼女の親の知り合いに不動産屋がいて、そのおかげでこの物件を安く手に入れたのだった。購入してから今までずいぶん苦労した。しかしその苦労も報われているような気がした。自分がここまで生きてきたのは、こうして家を買って家族と平和に過ごすことを目標にしていたのではないか。そんなことを思っていた。
電気を消し居間を出ようと思った時、窓から差し込む月明かりに照らされた絵に目がいった。『ともしび』というこの作品から、こもれ出る灯と星空。モノトーンの光なのになぜか、本当に明るく感じられた。絵全体からこぼれる優しさにつつまれ、自分がその明かりに吸い込まれているような感じがする。この中の世界はどんなに温かいものなのだろう。この世界は彼のようなものも受け入れてもらえるのだろうか。高橋は不思議な高揚を感じた。
しかしすぐに現実は彼を絵から引き離した。明日、いやもう今日か……あと何時間かしたら、またあの職場に行かなければならない。そう、あの工場に。そう思うと高橋はこの『ともしび』がずっと続いてくれることを願うのであった。高橋が消したテレビからは、ちょうど展覧会を紹介する番組が流れいた……
『なんか退屈だな。』
義孝テレビをぼうっと見ながら、一人むなしくこうしている自分にあきれるようにつぶやいた。家に帰ってから部屋の中でずっと一人でいると、突然寂しさとむなしさが襲ってくる時があるものである。それはふと、一体今自分は何をしているんだろうと醒めて思った時に襲うであろうか。平日は友人たちも忙しく、また自分も仕事が終わって会おういう気も起こらないので、由たちと飲みに行く他はいつもまっすぐ家に帰り、寝るまでの間、何をするのでもなくテレビを見ているのであった。
『彼女がいればきっと今ごろ、デートするなり電話するなりして楽しい夜になっているんだろうな……』
たまに自分が思い描いた恋人の妍姿を想像し、空想に身を浸らせることもあった。
『俺の将来はどうなるんだろうな。まだ若いなんて思っていても、気がついたら年を取っているもんだ、なんて健二さん言っていたな。きっとそうなんだろう。自分は普通の生き方をしないはずだ、なんて思っていても結局みんなと同じ平凡な人生を送るんだろうな。多分……』
義孝は缶ビールをもう一本飲みだした。これで５本目である。酔っ払って彼は極端に物事を考えるようになっているようだった。
今見ている番組がつまらなくなって、リモコンを手にとりチャンネルを変えた。適当にチャンネルを変えていると、画面一杯に絵が映し出された所で義孝の手が止まった。その絵はモノトーンの版画で、雰囲気はそれと違う絵ではあるが、以前感じた雰囲気のものであった。彼はその番組を注意して見た。
『あれ、これって高橋さんの家に飾ってある絵を書いた画家じゃないか？』
番組では、この画家の展覧会のことが紹介されていた。
『結構有名な人だったんだな。そういえば奥さん、かなり高価だって言っていたもんな。でも版画は複製できるんだろうし、油絵よりは安いんだろうな。それにしても高橋さん、展覧会のこと知っているんだろうか。あの人こういうの興味ないだろうから、知らないかもな。あした教えてやろうかな。』
番組はいろいろ画家の生涯などについて語っていたが、酔いがまわっており、しかも眠くなってきたために真剣には聞かず、やがてテレビを消した。
『もう寝よう。あと２日の我慢。そうしたら休みだ……』