『おい、生産開からの送られてくるはずの部品が遅れてくるそうだ。それまで、ちょっと休んでよう。昨日は終電まで飲んで、疲れがまだ残っているからちょうどいいな。』
９：００、由の声が、機械音に混じって響いた。今日は生産開発部から届けられる製品を検査する予定だった。しかし予定の時間を過ぎても製品は、まだ到着していなく、彼らのもとにはただ事情があって遅れるとの連絡しか入っていなかった。
由達はは休憩所へ行って、時間をつぶす事にした。作業場が禁煙でそこが喫煙所も兼ねているため、壁はヤニで一面黄ばんでいた。中に入りドアを閉めると工場内の作業音が一瞬にして小さくなり、代わって空気洗浄器の無表情な音に包まれた。窓からは、道路越しに建っているとなりの工場の側面が見え、道路と共にコンクリートの無機質な表情にもかかわらず、朝の日をかかげて眩しく不思議な生命感を発していた。同様に窓から差し込んでくる光は、むさくるしく不健康な空間を癒してくれるような気がした。
自動販売機からコ−ヒ−を取り出しながら由が話題を振る。
『昨日の野球みたか。』
『なに言っているんですか。みられるわけないじゃないですか。あんな時間まで飲んでいたのに。スポ−ツニュ−スで結果知りましたよ。』
秀は由の意地の悪い質問に対し、ちょっとふてくされた。
『そんなにすねるなよ。しかしお前巨人ファンだから悔しいだろうな。俺は見なくてよかったよ、あんな試合。巨人が勝ったんだからな。』
『由さんの巨人嫌いは徹底していますね。』
健二はまたいつものやつが始まったという表情でそう言った。
『俺は皆が巨人、巨人と騒ぐのが気に入らないんだよ。すぐ巨人が勝ったとか、巨人が負けたとか騒ぎやがる。』
由は窓際にあるパイプ椅子に座り、缶コ−ヒ−を飲みながらぼやくと、義孝は自分のすきな話題にもっていこうとした。
『それが野球の嫌な所ですね。だから僕は興味がわかないんです。その点、サッカ−はいいですよ。』
義孝は大のサッカ−ファンで、中学、高校とサッカ−部に在籍し、プロの選手になることが夢だった。しかしそれほど目立った活躍もせず、大学からの推薦入学の希望も叶わなかった。彼は高校三年の秋にここに就職が決まった時点でも、まだ夢を捨てきれず、高校卒業間際まで僅かな希望を持ち続けていた。しかしなんら積極的な行動をとることも無くただ夢を抱くのみで、その夢を叶えてくれる誰かが、あるいは運命が訪れてくれるのを待つだけだった。今ではただサッカ−選手を目指していたという過去が、彼の誇りをかたち作っていた。そしてその誇りこそが、不満だらけのこの工場で働き続けることを耐えさせていた。彼はこの仕事を心底蔑んでいた。そしてここで働いている自分も。ここのメンバの中、唯一自分が何かを真剣に目指していたということに優越感だけがささやかな安堵を抱かせていたのだった。義孝は今でも仲間とチームを作り、休日にはサッカーを楽しんでいた。
『みんなは何を目標に生きていたのだろう。健二さんなんかまともな生活ができればそれでいいという感じだし....もっともあの人は新婚だから今は幸福感で一杯だろうけど。俺はそんな風にただ生きていくだけの人生は送りたくないな。それじゃ動物と変わりないじゃないか。俺にはもっと自分にふさわしい生き方がいるはずだ。高橋さんなんかは何を生きがいに生きているんだろう。最初から自分にあきらめているんだろうか。そりゃそうだろうな、こんなにいじめられちゃあ。あの人の救いは、家であんなにかわいい奥さんが待っていることかな。確かに悪い人じゃないけれど、尊敬はできないな。』
義孝はそんなことを思っていた。もちろんそんなこと口に出すはず無いが。
『なにがサッカ−だ。あんなもんすぐに人気が下がるさ。日本人には向かないんだよ、あれは。』
義孝はこんな由の言葉はさぞかし気分を害したであろう。
『また由さんは....巨人が勝ったらいつも憎まれ口をたたくし。サッカーは世界的にメジャーなスポーツなんですよ。』
秀はそんな義孝の気持を察したのだろうか、義孝を気分を和らげようとした。
『秀さんの言うと通りですよ。年寄りは自分が理解できないことをすぐそういう風に言うんだから。』
義孝の故意に遜った言い方は、皆の笑いを誘った。
健二は秀をけしかけると、すぐにのってくる。
『でも昨日の勝ち方は爽快だったでしょう、秀さん。サヨナラですからね。』
『ああ、最高だったよ。飲みに連れていかれたのは由さんの策略だな。俺に試合をみせないように。あ、後で由さんにスポ−ツ新聞見せてあげますよ。どうせ読んでいないでしょうから。』
『まったくお前ら、随分俺に絡むな。実は俺が嫌いなんだろう。まったく若い奴は年上を敬う気持を知らないな。あ、わるい高橋、タバコくれないか。俺とお前だけだからな、ハイライト吸う奴って。』
高橋は由にタバコを差し出し、丁寧に火をつけてやった。由は深くタバコを吸うと閉めてある窓にむかって、まるで外に吐きださんとばかりに煙を吹きつけた。窓に当たった煙は光の中、不規則に渦まきながら消散して行き、高橋はその動きをじっと目で追っていた。
『由さん、卑屈になっていますよ。だいたい"若い奴は"なんていうようになったら、もうオヤジですよ。』
健二は意地悪く言うと、由は後輩たちを委縮させないように気を使いながらも言い返した。
『わかったわかった。お前たちがどう思っているかよく分かったよ。荷が来たら楽しみだな。』
『僕は、由さん好きですよ。尊敬してますから。健二さんたちは違うらしいけど。』
『義孝、お前なあ....なぜ健二さんたちって、俺を代表させるんだよ。』
こうしてかなりの間、会話は続いた。毒舌も愛敬ですまされ、見た目には確固とした信頼関係が築かれているようだった。その中で高橋は何本タバコを吸ったことであろう。
やがて生産開発部の者が由のところにやってきて、部品が届いた旨を連絡した。彼は由達が、ここでいつも休憩していることを始めから知っているのだろう。作業場にいない彼等を方々探したという感じを受けない。由は遅れた理由を聞いたり、不満をいったりしなかった。彼はそれがいかに無駄なことか知っていたのだ。昨日の疲れが残っていたので、休めることはうれしかったに違いないが、自分たちのことを軽く見られているような気がして面白くないという想いは事実あったであろう。しかし彼はただ事務的に諒解しただった。そしてすぐに振り向いて高橋達に今聞いたことを伝えた。
『よし、いまやっと届いたみたいだ。いまから仕事だ。』
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入り口の方から、山積みのダンボ−ルが通路に運ばれてきた。小型のフォ−クリフトが狭い通路に入り込み、荷物を下ろす。
『ダンボ−ルから製品をとりだしてくれ。』
由の一声と共にかれらは一斉にダンボ−ルの箱を開け、製品を丁寧に取り出した。この狭い通路では３、４人が荷物を囲んだ時点で入り込む隙間がなくなる。出遅れた高橋は、一人余された形となった。秀たちの間に強引に入り込む勇気がなく、ただおどおどしているだけである。しかし荷物の量からいってこの人数が適当なところであり、無理して彼が作業に参加する必要性は無い。ところが由は、それでも容赦なく彼に嫌味を言った。
『おい高橋、なにぼけっとしているんだよ。まったく、本当につかえない奴だな。ほかのやつは昨日の酒がまだ残っているのに、一生懸命働いているのによ。お前は本当にさぼるのがうまいな。』
由の発言は言ってはならないものだった。合理的に考えれば、高橋が無理して介抱作業に関わるのはかえって作業を遅延させてしまうだけであろう。もし他の人間が高橋の立場だったなら、由は冗談で叱咤する振りをしたかもしれないが、これほど増悪をこめて言わなかったであろう。特に義孝は由に可愛がれており、高橋なら怒鳴られるようなことでも、彼に関しては由に何も言われなかった。人間というのは人物に対する先入観によって、行動にたいする評価をしてしまうのだろうか。秀人たちは苦笑しながら、作業を続けている。
『高橋さん、今日は残業ご免ですからね。』
健二はここぞとばかりのうまいタイミングで、高橋を揶揄し、他のメンバを笑わしたが、すぐに調子にのりすぎたことに気づいたのであろうか、機転をきかせてこう言った。
『じゃ高橋さん、僕らがダンボ−ルから取り出すんで、それをテ−ブルの上において下さい。みんなで同じ作業したって能率が悪いだけですからね。』
由はその発言に感心するように、
『おまえは本当に賢いな。お前を見ていると、若い奴もまんざらすてたものじゃないなと思うよ、本当に。』
と健二を褒めた。
健二は高校時代、学校に内緒で水商売のバイトをしていたことがあり、そこでの経験が社会に出てからも役に立っていた。カウンタ−越しに、毎晩いろんな客を見ていたせいか、この若さにしてはめずらしいくらい社会を、そして人間を理解していた。しかし自分よりも年上の客や店員の姿に、自分の未来を重ねあわせてしまったのは不幸なことであろう。ある意味健二は年に似合わない分別を身につけてしまったのかもしれない。そのため早い時期に夢を忘れ、代わって打算が彼の将来を設計するようになっていた。今では自分が幼いころどのような夢を抱いていたのか、思い出そうともしなくなっている。高橋は健二の言われるままに荷を受け取り、テ−ブルの上に丁寧に載せる。その姿を見て健二はバイトしていた店にいた、自分よりもずっと年上で高橋と同じようなタイプの男を思い出した。
『あいつもああだった。一体いまはどうしているだろう。人には自分にあった場というのがある。その場に合わなければ、違う所に行けばいいんだ。状況を変えようとか自分を変えようなんてするより、自分にあった場所を探す方がずっと現実的だ。この人もそうすればいいのに。もっとも高橋さんはもう年だし、それにどこへ行っても同じだろうけどな。第一もし辞められたら誰かがあの人の代わりを担わなければならない。まあそれは俺じゃないだろう。さしずめ秀さんかな？』
高橋が一つ一つ丁寧に並べた部品の幾何学模様は見た感じ、素朴な美しさがあった。そのことが作業の効率になんら益があるとは思えないが、高橋にしてみればそれが精一杯、由に対する誠意の現れだったのだろう。
やかて、介抱が終わり作業が始まった。作業自体極めて単純で退屈なものでる。皆慣れた手つきで作業こそ行うが、惰性で行っているという感がし、作業の間いろいろな想いがそれぞれの頭のなかに過っていた。秀人は、先程の由の高橋に対する態度についていろいろ考えていた。
『たしかにあれは言いすぎだ。』
そう思わずにはいられず、高橋を気の毒に思った。彼は子供の頃、おとなしくて気が弱かったせいか、いじめられっ子だった。高校入学を機に秀人は自分を変えようと、つねに周りに溶け込んで明るく振る舞うようにした。必要ならば自分から喧嘩をふっかけたこともあった。中学時代の彼の友人がみれば驚くほど彼は短期間で変わっていった。ただし、いじめられないためにいじめに加わるということは決してしなかった。これはもっとも秀人が褒められるべきことであろう。そして努力の成果が徐々に現れ、ここに勤める時には完全に"普通の人"になっていたのだった。そんな彼だから高橋の気持がよくわかった。しかし自分は変わったという自負心が自分の中に芽生えた同情心を認めがらなかった。
『俺はもう仲間外れにされることはない。変わったんだ。誰だって努力すればそうなれるんだ。喧嘩覚悟で真っ向から向かい合えば、相手も認めてくれるんだ。そうさ、それが出来ないやつがわるいのさ。』
そう自分に言い聞かせた。彼にとって高橋のようになることがなによりまして耐え難いことであった。だから高橋の存在は秀人にとってありがたく、安心できる存在だった。なぜなら、少なくとも高橋のおかげで、秀人は最低の立場におかれることは無いのだから。
由の方といえば、古い演歌を口ずさみながら実に的確な作業をしている。しかし彼とて、作業をしながらいろいろなことを思い描いているのだろう。そんな中で高橋は、昨日の野球のことを思い出しながら、早く昼休みが来ることを願っていた。巨人ファンの彼は昨日の試合がうれしくてたまらなかった。何度もサヨナラの瞬間を自分が実況しているつもりで再現していた。由にいやみを言われて暗くなった気分も、昨日の試合が彼を慰めてくれた。もし休憩所で彼に話題を誰か振ってくれたら、いつもの寡黙さとうってかわって饒舌になっていたかもしれない。しかしあの時は、ただ微笑みながら由は秀人の話を聞いていただけだった。休憩所にはささやかは平和があり、人から見れば取るに足らないものかもしれないが、本人にとっては十分なほどの満足感で満たされていたのだろう。
『ブ−−−− ブ−−−−』
１２：００、昼休みを告げるブザ−の音が工場内の響き渡る。
『メシだメシ、じゃ行こうぜ！』
由の一声と共に、彼らは食堂に向かう。高橋ももちろん後に着いていく。昼休みが始まったばかりというのに、食堂はすでに長い列ができていた。そこに五人ならび、１０分くらい待った後やっと料理の前まで辿り着いた。それぞれ好きな料理の皿をとり、トレイに乗せた。食堂は習慣として工場のほとんどの人間の座る席が決まっており、由達の長年座ってきた席は、壁際のテレビに近い場所だった。隣には仕事では直接関係ないが、この食堂で付き合いのあるグル−プがいつもどうりやってきた。
由達は隣のグル−プと世間話を始める。高橋は休憩所と同様に話に参加できず、一人もくもくと食事をした。それは高橋も由達も昨日までとなんら変わりのない食事風景だった。そして午後からの作業もなんら今までと変わりのないものであろう。人は変化のあるようでも、その日を過ぎて振り返ってみれば今までとさほど変わりがなかったことに気づくものである。事件なんてなかなか起こるものではなく、ドラマ性の無い平坦な物語の中にも私たちはわずかな起伏を感じ取って生きているのであろう。したがって、ここまでの物語はいままで彼らが過ごしてきた工場の一日を総括した物語だといっても差し支えないであろう。