高橋には小学校の高学年になる、篤という息子が一人がいる。容姿は母親似だが、性格は父親同様おっとりとしていた。子供に対して高橋はかなり厳しく接していた。父親の威厳を見せるように。しかし、もともと温厚な彼である。そこにどうしても不自然さが出てしまう。彼の厳しさは、どことなく的はずれのところがあるのだ。彼の子供を叱りつける所を見たものは、恐らく何故このような事で怒り、肝心なところで何も言わないのだろうと思うであろう。
子供としてもそのことに何となくではあるが、気づきはじめていた。
『分かったよ、お父さん。』
篤は最近父親に説教されると、その年に相応しくない大人っぽい面倒くさそうな口調できまってこう言った。それは父親に対し威厳を感じなくなってきたことの現れでもある。反抗期に入ったら思いやられるなと、父親は思っていることだろう。
高橋の妻は、若い頃はそこそこ奇麗であったらしく、今でもその頃の可愛らしい面影を残していて、実際よりも若くみえた。高橋は彼の世代では珍しく、３０過ぎの晩婚だった。彼の母の知り合いの紹介で１０才近く年下の彼女と見合いをし、結婚した。
彼女が高橋のどこが気に入ったのか、彼女自身いまもって不明である。なぜあのような取り柄のない男と自分が結婚したのか、自分に問いかけることがある。自分にはもっと違った人生が、少なくとも今よりはもっと良い人生の道があったのではないかと思わずにいられないのだ。
『決して自惚れているわけじゃないけれど、私にはもっといい選択肢があったんじゃないかしら。あの人の他にも男性は沢山いたのに。』
しかし、人生の道筋が安定した後というのは誰しもが、過去の自分の可能性を過大に考えるものだ。
『もし、あの時....』
彼女の口癖であるが、自分の選んだ道をいまになって運のせいにするのは人の身勝手さというやつであろう。しかし真剣に別れようとは微塵も思っていないあたり、単なる表面上の愛すべき後悔なのであろう。
高橋の家にはごくたまにだが、会社の人間が遊びに来る時がある。彼の妻は、自分の夫がが会社でどのような立場でいるか、およそ察しがついていた。だから来客の際は、できるだけ夫の家庭における威厳の高さを感じさせるように努めていた。
『昨日、主人に怒られましたの。』
『主人がね、課長の奥さんはやさしくてしっかりしている。お前も見習ったらどうだ。なんて、それはもういつも言うんですよ。』
時には篤を利用する事もあった。
『篤、そろそろ部屋に戻って勉強しなさい。お父さんにまた怒られるでしょ。』
それは稚拙な演技ではあるが、あまりにも正直なものであるため憎めないものであった。しかし、こういう接待は疲れるものである。高橋の数少ない、本当の友人以外は常に気を張っていた。出来れば来客はご免だと彼女は思っている。
その友人達というのは、高橋が以前配属されたことのある部署の人たちで、そこで彼は、非常にみんなとうまくいっていた。高橋は、たまにその時代のことを懐かしむときがある。しかし彼が属していた事業部はリストラでつぶされてしまい、みんなばらばらになってしまた。そして移動などで次々に遠い所に行ってしまい、今では招かざる客が主流になってしまった。しかしまだ彼の家に来る客は、高橋に対しやさしさを持っている方である。由などは一度も彼の家に遊びに来た事などないのだから。
ある日、彼女はある絵を購入した。夫同様芸術を解さない彼女であったが、少しでも普通の家庭と同じくしようと思ったのである。
『そうよ、普通の家庭にはこういうものが一つはあるわ。私達の家庭にも絵が無ければおかしいじゃない。』
購入にあたっては、ある程度高価なものにした。美術に造詣の深い彼女の友人に選んでもらった作品は、モノト−ンの古い版画だった。彼女にすれば、人の目を引くポップア−トの方が良いのではないかと思ったが、友人にこういう版画の方が今の時代は目立つと説得されてしまったのである。『ともしび』というタイトルのこの作品は、人一人いない閑散とした住宅街と星空を描いたもので、よく注意しなければどの部分が家なのか分からないほど、全体が曖昧なコントラストで描かれている。逆に家々の窓からこぼれる灯、街灯、それと星の光が暗い背景の中で強調されて表現されていた。
作品は彼女にはすこしも感動を与えなかった。ただ彼女にとっては高価なものということで、金額的にその価値を認めていた。高橋は、妻を盲目的に信じていたのでなにも言わなかった。
彼女からすれば、居間にかけておくことで、少しでも接待中の話題作りになればという考えもあり、事実これは効果があった。
『ほう、随分と渋い趣味ですね。』
『ええ、最近こういうのに興味持ちまして。ほら、最近の版画って原色をふんだんに使って、派手じゃないですか。ですから逆にこういう白黒の版画に新鮮味を覚えるんですよ。私はあんまり芸術は分からないんですが、何かこの作品って、一見地味ですが引かれるものがありましてね。なんでも、人物を描かないことによって逆に街にすむ人たちの生活を想像させて、それと忘れちゃったんですけど、星空がなんとかという効果をだしているらしいんですよ。あんまり難しいことは分からないんですけどもね。』
この作品に関する解説書を読んでのことだった。どことなくちぐはぐな感じを受けるが、彼女にしては上出来と言えるだろう。来客も見栄のためか納得する振りをしていたので、それなりの形式的な会話が成り立っていた。夫の方といえば、ただ妻と客の会話ににこやかな顔をして頷いているだけであった。高橋は、工場と同様に、家庭内においても自分の役割を知悉していたのである。しかし家庭には、ささやか幸福感があるのだが....
このように高橋は平凡な部類に入る、平和な家庭を築いていた。
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朝礼後、事務職、管理職を除くほとんどの人たちが、事務所を出て、工場へと向かう。高橋は帽子を被り、由達のあとについていく。
彼らにとってまた同じ作業がこれから始まる。