彼の名前は高橋という。
下の名前は残念ながら不明である。ここの工場の人間のほとんどが知らないか、あるいは知っていたとしても既に忘れている。ゆえに私達としても、あえて知る必要は無いであろう。
高橋の働く工場は、会社の中でも一、ニを争うほど生産性が良い工場であり、これはひとえに優れた管理者による、巧みな人事配置の効果が大きい。彼はそこでもう何年も、一生懸命働いてきた。高橋にはこれといった趣味が無い。スポ−ツは苦手だし、想像力が豊かで無いために芸術を全く解さない。しかし、それで非を浴びることなどなんであろうか。やさしさと、一生懸命働くことしか能がない男だが、そういう人間ほど愛されるべきではないのか。
高橋の持ち場は、この工場で生産された電子部品の品質検査を行うところで、彼の属するグル−プは、リ−ダ−の由蔵(よしぞう)を始めとする５人で構成されている。由蔵の年の頃は４０才を過ぎたあたりで、高橋の２つ上にあたる。気が荒く、多少強引な所はあるが強力な統率力を持っており、部下から由さんと呼ばれて尊敬の念を持たれていた。ただ若い頃かなりの苦労を背負い、それを屈強な精神力と才能で乗りきったためか、自分の経験に対し絶対的な自信を持っていた。それ故に自分の意見を過剰に押しつけ高慢ともいえる自分勝手な解釈、評価をする嫌いがあった。若い者にはそれが信念を持っている故と、錯覚してしまうらしい。
他の人間は高橋よりもずっと年下で、年齢と勤務年数から言えば高橋は、このグル−プでＮｏ.２であるべきだった。しかし現在、彼の立場はあまりいいと言えない。会社からの評価も低いし、後輩からの印象もよくない。もちろん、後輩達も最初は彼を慕っていた。しかし慣れるにつれ、徐々に高橋を見下すようにぞんざいな態度をとるようになってきた。特に由からは忌み嫌われている。彼にとって、高橋のようなぐずぐずした人間は許せないらしい。愛すべき人間は、皆このように扱われるのだろうか。
この日、高橋はちょっとしたへまをしでかした。新しく導入された検査装置の使い方がよく分からず、人に聞く勇気もなく逡巡してその結果、今日までに終わらねばならなかった作業を、定時まで終わらせることが出来なかったのだ。そのお陰で彼のグル−プの者全員が定時後も残って、作業の手伝いをしなければならなくなった。この高橋、もともと機械には弱い。何故彼をこの職場に配置したのか、優れた管理職のいるこの工場にて、私達には疑問が残るところである。
高橋以外の者、言われのない残業を強いられてかなりいらいらしているようだ。それは彼らからすれば至極当然なことである。暫く彼らの会話に耳を傾けてみよう。
『高橋、なにもたもたしているんだよ。はやくやれよ。全く、ぐずぐずしやが って。』
『高橋さん、これはね、このキ−を押すんですよ。そうするとほら、ディスプレイに結果が表れるでしょう。こういう表示がでれば、この製品はＯＫということになります。もし操作を誤って、わかんなくなったら呼んで下さい。決してパソコンのリセットキ−押さないで下さいね。設定し直さなきゃいけないんで。』
『義孝、そんなに親切にする必要ないって。まったく後輩に教えてもらって、情けないと思わないのか。誰のせいで残業になったと思っているんだ。おい健二。』
『は、はい。』
『テスト項目表の方、どうなっている？』
『だいたい書き上げました。まあ、３０分もすれば終わりますよ。』
『さすがだな。さあみんな、もうちょっとだぞ。』
９時を過ぎ、ようやく作業は終わった。すでに工場にいるのは彼らだけである。広い工場内に彼らの声が響き渡る。
『ふぅ−、やっと終わったな。みんな頑張ったな、おつかれさん。健二、どうだいこれから一杯？』
『あ、いいですね。行きましょうよ。秀人さんもどうです？』
『そうだな。じゃ、行くか。でも、かあちゃんがうるさいから早めにお開きにしようよ。』
『まったくお前は、女房に弱い奴だな。俺と飲みに行くってことな、終電まで飲むっていうことだぞ。』
『ち、ちょっと、勘弁して下さいよう。もう、由さんはいっつも強引なんだから。』
『秀人さん。諦めたほうがいいですよ。由さんが終電までと言ったら、終電までなんですよ。』
『ははは。健二の言うとおり。秀、そういうことだ。』
『わかりましたよ、もう....』
彼らの横を義孝が帰る素振りをしながら、わざとらしくあいさつをした。
『それじゃあ....お先に....』
『おい！ちょっと待て。義孝、おまえも来るんだよ。』
『由さんの言うとおりだ。どうせ家に帰っても一人なんだろ？』
『健二さんそんな言い方、ひどいですよ。健二さんだってついこの前までは僕と同じ独り身だったのに。』
『でも俺はすでに今のかあちゃんと付き合っていたぜ。お前は２１にもなってまだ彼女なしだろう。』
『ひどいなあ。一番傷つくんですよ、そういう言葉は。』
『まあまあ、続きは飲みに言ってからだ。この由さまが、公平に裁きをしてやろう。お、高橋帰るのか。おつかれ、明日は頼むぞ、もうこんな残業なんていやだからな。』
『高橋さん、お疲れさま。』
高橋、寂しげに帰っていく。誰一人も彼を誘ってやろうとは思わなかったのらしい。しかしこれはよくあることだった。高橋が誘われるのは、ほとんどが忘年会、新年会等といった会社の公式な宴会のみであった。
『高橋さん、誘ってほしかったんじゃないですか。』
義孝は多少の哀みをかけて、高橋が工場を出たことを確認してから、そっと言った。しかし由は余計なこと言うなとばかり、彼の意見を突き放す。
『いいんだよ。酒の席まであいつがいたんじゃ、いらいらしてしょうがねえ。さ、行こうか。だいたいあいつ暗いしな。』
『....じゃ俺、女房のところに遅くなるって電話してきますね。』
秀は小走りに、女房のところに電話をかけに行った。
『秀のやつ、まったくお前は女房に怯えやがって。健二お前はこうなるなよ。』
『うちは、由さんとこのように亭主関白ですから....って実はさっき、僕も残業でおそくなるって電話入れんですけどね。』
『なんだよ、お前もか。まったく、最近の若い男はどいつも軟弱だな。』
暫くして秀が戻ってきた。彼らは工場を出て、酒場へと向かう。工場にはこれで完全に人がいなくなった。照明が落とされ暗く閑散とした中、どこからともなく聞こえてくる、終夜運転の機械の微弱な音が工場内に染み渡っていた。
次の日の朝。
『秀、かあちゃんは怒ってなかったか。』
『たいへんでしたよ。またあんたは午前様かい、なんて嫌み言われて。由さんに誘われたからしょうがないんだって言っておきましたからね。』
『結構、結構。俺の名前出したなら、お前のかあちゃんもなにも言えんだろう。』
『でもこれから先、何度これが通じる事か....あ、高橋さんおはようございます。』
高橋は事務所に入ってきて、由と秀の視線を避けるように事務所の隅にあるロッカ−まで行き、そそくさと作業着に着替えようとした。やがて健二と義孝の二人も現れる。二人とも由達の話に加わろうと、作業着に袖を通しながら急いで彼らの元に行く。メンバがそろって由たちの会話は一層の盛り上がりを見せた。秀が絶えず時計を気にしながら飲んでいたこと、新婚の健二が、今の給料じゃとても子供も造れやしないと愚痴こぼしていたこと、最年少で唯一の独身の義孝が、隣に座る若い女に酔った勢いでちょっかいだしていたこと、そしてそんな彼らをからかう由のこと、４人とも楽しそうに昨日の談義に花を咲かす。それは、まるで高橋に聞かせるように話していたと言ったら、言い過ぎであろうか。
高橋は寂しげに事務所の隅のロッカ−の前で、ゆっくりと作業着に着替えていた。始業時刻の８：３０まではまだ５分ほどある。それまでの手持ちぶたさを避けるため、彼はロッカ−の方を向いて何度も作業着のボタンを留め直していたり、ロッカ−備え付けの鏡をみたりしていたのである。さもボタンの付け具合が良くない、髪型が気に食わないといった表情をしながら。彼にとっては疎外感を避ける、精一杯の慰めの演出だった。由達は無論そんな高橋の気持など察するはずがない。
『ブ−−−− ブ−−−−』
まもなくして、やっと高橋が待ち望んだ始業時刻を告げる電子ベルの音が鳴った。事務所内全員が中央に集まり、朝礼が始まる。
それは工場の一日の始りであった。