「栞」
（三）
連れ込まれた先は、小さな倉庫が手当たり次第、闇雲に並べられたような所だった。元の所有者と地元再開発団との諍いから、そこに目を付けた暴力団が土地を買い占めて三つ巴の争いとなってからは誰も足を踏み入れなくなった、都会の中の忘れられた地域だ。 錆び付いた南京錠を無理矢理もぎ取りかねない勢いでこじ開けてから、中へ入る。一歩足を進めただけで埃が舞い上がる。
「すげえ所だな」
自分の組事務所の所有物件なのだが、登記上所有していることが大事なだけなのだから、たまに下っ端のチンピラに見回りをさせるだけで、幹部はもちろん、構成員でも足を踏み入れることはない。珍しそうに辺りを見回していた男は振り返って、手下の男達に向かって軽く頷いて見せた。
「入れ」
逆らわずに中へ入った光が、思わずくしゃみを二、三回立て続けに放つ。
「どうした、アトピーか？」
「違うけど。デリケートなんだ」
「近頃のガキは贅沢だよな」
「誰だってくしゃみくらいしたくなると思うけど」
「はは、違いない」
男は笑いながらも顔をしかめた。
年の頃は三十を二つ、三つ越したくらいだろうか。彫りの深い顔、浅黒い肌・・・光の父親と比較的雰囲気が似ている。違うところと言えばこの男の方が十近く若いということと、宗佑は「やらかさなかったのはコロシとツッコミだけ」だが、この男はそれも経験済みだろうと思わせる、どこか暗く淀んだ雰囲気を身に纏っている所だろう。それが、決定的に二人を分けている。
「もう一度だけ、聞く。お前の所属は？」
「・・・」
「家はどこだ？オヤジの職業は何だ？」
「オンナッタラシ」
「なに？」
「ジャン荘とパチンコ屋がねぐらの代わり、職業はスケベオヤジ」
「ふざけるな！」
チンピラが吼えて拳を光の腹に叩き込んだ。髪を掴み、顔をねじ上げて今度は顔面を叩き潰そうとしたが、軽く腕を男に押さえられて、ぎょっとしたように振り返った。
「よせよせ、お前の手が痛くなるだけだ、時間と労力の無駄だよ」
「け、けど、淵神さん」
「チビでも根性のあるヤツってのはいるんだよ」
支えていた手を放され、崩れるように座り込んだ光の顔を陽気に笑いながら覗き込む。
「そんなに言いたくないか？」
言えば、宗佑は助けに来てくれるだろう。この程度のチンピラヤクザが相手では、完全に宗佑の方が上手だろう。だが、少しでもこちらの正体の手がかりを与えてしまえば、面倒なことにまた巻き込まれてしまう可能性の方が大きい。できれば、宗佑の手を借りるのは、最後の手段に取っておきたい。
「淵神さん、こんなガキ、一時間もありゃ口を割らせて見せますぜ」
腕を押さえられた男が不満そうに口を尖らせたが、淵神は嘲笑うような笑みを浮かべた。
「まだ言ってるのか。俺がこんなガキにただ手こずっているだけに見えるか？」
「そ、それは・・・」
「こういう手合いは強情なんだ。止めてくれとも、助けてくれとも言わない。口を割れば消されることを知ってるんだよ」
「こんなガキが・・・？」
「こんなガキでも、な。オマエらよりはずっと見所があるくらいだ」
そして、光を振り返って、にっと笑う。
「なあ、そうだろう？」
光は男の目をじっと見返した。目をそらしても、見返しても、どちらにしてもこちらの出方を読まれている。それなら、弱いところを見せるよりは、精一杯反抗して見せた方が得だ。
「アタマもいいし、な」
淵神は立ち上がり、一人のチンピラの肩をぽんと叩いた。
「葉っぱをごちそうしてやれや。一週間も喰わしてやりゃあ、充分だろう」
黙ってチンピラが頷き、注射器を取りだした。
「煙草で吸わせてやりたいんだが、本当に吸ったかどうかがわからないからな」
「わざわざ溶液を用意してくれたのか。ご苦労様」
押さえつけられて、袖を上げられる。針が刺さったときに少し眉を寄せただけで、光は怯えた様子も見せずに淵神を見上げていた。
「葉っぱ自体はどうなっても良かったんだがな。元はと言えばかっぱらいのガキにアレを取られたこいつのせいなんだ、恨むならこいつを恨めよ」
光を殴りつけた男を指さし、肩を竦めてみせる。光は目を閉じて、ぐったりと横になった。微かに震えているのは、身体が注入された異物を排除しようと抵抗しているからだろうか。
「行くぞ。今度は逃げられるなよ」
光を倉庫に残し、男たちは出ていった。麻薬を注射されて、まともに逃亡を企てられるような中学生など居るはずがない。埃まみれの倉庫より外の車を選んで、チンピラ達は光を手錠で柱と繋いだだけで安心して出ていった。
・・・男たちが出ていった数分後。死んだようにぐったりとしていた光が、ぱちっと目を開いた。
「・・・さすがに吐きそうかも」
麻薬のおかげで殴られた痛みは消えているが、代わりに激しい嘔吐感と倦怠感が全身を包んでいる。
「二、三回経験があるだけじゃ辛いなあ」
口の中の唾を吐き出すと、辺りを見回す。錆び付いた太い針金がそこいら中に散らばっている。
「脱獄天国じゃん」
ぽつりと呟き、手を伸ばす。気怠そうな表情で、針金を手錠の穴へ差し込んでがちゃがちゃと引っかき回す。五分後、手錠は虚しく床へ転がされていた。いろいろとワルいことは経験しておくものである。
ゆっくりと立ち上がった光は、そっと辺りを見回した。一体何に使われていたのか、雑多なものが埃を被って転がっている。その中に、あの栞のように加工された大麻が袋に詰められて二つ三つ、積み上げられていた。その中から一掴みをポケットに入れておく。
「さて、どうやって逃げ出そうかな・・・」
まともに正攻法で行ったところで、すぐに見つかって連れ戻されるのがオチだ。下手をすればさっきのチンピラにボロ雑巾のようにされるかもしれない。携帯電話などという便利なものも持ち合わせていないし・・・孤独な抵抗もここまでか、とあきらめかけたとき・・・・・
「使えるかな？」
光が拾い上げたのは、大きな、直径が十五センチはありそうな天眼鏡だった。柔らかなビロードの袋に入れられていたところを見ると、ずっと以前の倉庫の所有者の持ち物だったのだろうか。
倉庫の上の方の光取りの窓から、柔らかな午後の光が差し込んできている。光は大麻の栞の袋を運んでくると、そこへ太陽の光を集めだした。
「おぼっちゃまだから、暖房もないところで人質なんかやってらんないっての」
つまらない軽口を叩きながら、床の埃をひとつまみ、焦点とおぼしき所へ落とす。細い煙から、うまく小さな炎になってくれれば、・・・そんな甘いことを考えていた光は、突然悲鳴を上げた。
「うわっ、なんでいきなり燃え上がるんだよ？！」
もう少しで前髪を焦がしそうになって慌てた光は、煙が上がった途端に大きな炎となって燃え広がりだした実験の成果を呆然と見つめていた。やがて、手にした天眼鏡に目をやった。
「・・・さすが、お天道様の威力・・・自然の力は偉大だな」
一緒に運び込まれた鞄の中に天眼鏡を突っ込み、光はさっと立ち上がった。ぐずぐずしていると、本当に自分の出した火に捲かれかねない勢いにまでなっていた。