「人形の森」
（ニ）
数日後、東城探偵事務所に、珍しくお客が現れた。この探偵、いつもロクに仕事をしていたためしがない。宗佑と光、二人の生活費はほとんど麻雀と競馬によってまかなわれている。確実に稼いでくるのだから、大したものだと言いたいところだが、本人が胸を張って言うほどのことでもない。いつもその点で、宗佑と光は意見が食い違ってしまう。
「東城さん、お久しぶりね」
にっこり笑って戸口に立っているのは、なんと、小汚い事務所には似つかわしくない美女。整形無しの、ホンモノだ。紅いシルクのブラウスに、皮のジャケットとミニスカート。豊かな胸が襟元からこぼれんばかりにブラウスを押し上げている。
「おや、元気だったのか」
「ご挨拶ね」
「いえいえ、ちょっと口が滑っただけでして」
宗佑もにっこり笑い返すと、デスクから足をおろして、前のソファーを指さして座るよう勧めた。
「で、涼子さん、今度はどんなネタで強請りに来たのかな〜？」
「勘がいいのね、さすがは開成組の組長も一目おいていた・・・」
意味有りげに言葉を切り、微笑む涼子。宗佑は一瞬鋭い目で涼子を睨みつけたが、すぐにいつもの人なつっこい笑顔を浮かべた。
「イヤだわ〜刑事さんったら、堅気の人間をヤクザ呼ばわりしてくれちゃってぇ」
「あらそうだったわね、今はすっかりマジメな探偵さんよね」
「そうそう」
「それも、三ヶ月前から急にマジメ具合に拍車がかかったのよね」
宗佑は、ふざけた女言葉も愛想のいい笑顔も、全て引っ込めて、険のある尖った表情で押し黙り、女刑事を見つめた。一体相手がどんな手札を以て自分と接触しようとしているのか、それを探るように。
「・・・何が言いたい？・・・」
「神宮寺 光」
ぴくりと宗佑の眉が上がる。それまでの宗佑と同一人物とは思えない程の厳しい、凶暴とも言える程の冷ややかな迫力。しかし涼子は気がつかない風に、先を続ける。
「宝生家の傍流で、本家家元より上と言われる役者を多く輩出している家よね。あたしたち警察でさえ、すぐには中へ踏み込めなかったほどの名家」
「・・・」
「あなた、息子なんかいたかしら？結婚すらしていないのにね」
バッグの中から煙草とライターを取り出す。若い女性にしては渋い趣味のライターだ。ブランドものだということだけが、らしいというべきか。
「まあ、そんなことどっちでもいいのよ、あたしにはね」
「引っかき回すのだけは止めてくれ」
「大丈夫よ、そんな深刻な顔をしなくても」
ふうっと細く煙を吐きだし、涼子は妖艶な笑みを浮かべた。
「言ったでしょう、あたしにはもうどっちでもいいの。過去の事件ですものね」
「・・・で？アンタの要求は？」
「そう急がないで。でも意外ね、宗佑、あなたがそんなに光くんに肩入れしているなんて・・・いえ、思った通りというべきかしら」
「どっちでもいいのかもしれんが」
宗佑はさりげなく涼子の煙草を一本抜いた。昨日から、ケチのつき通しで、煙草銭にも困っていたのだ。箱ごとポケットに入れてしまいたいところだが、ここは我慢しておこう。
「あいつの名前はひかる、じゃない。あかり、と読むんだ」
「えっ？女の子だったの？まさか、警視庁の資料が間違っていたなんて・・・」
「間違ってねえよ。男だよ」
「あかりクン、ね・・・変わってるのね。二重に誤解を招く名前だわ」
「で？今更光のことをつつき回しに来たんじゃないとしたら、俺に一体何の用なんだ？」
「そうね」
涼子は気持ちを切り替えるように軽く頭を振ると、長い足を組み替えた。
「実はね、山の手線で、痴漢が多発しているの」
「俺じゃねえぞ」
「わかってる」
苦笑して、涼子は頷いた。
「だって、被害者は男性なんですもの、あなたが犯人とはこれっぽっちも思ってないわ」
「男ぉ？・・・ちょっと待てよ、女だったら疑ったってーのかい」
「それは聞かない方がいいんじゃないかしら？」
数日前、光が口にしたような台詞を吐いて、くすりと微笑む。
「もともと、痴漢が多く出没する線ではあるのだけれど、ちょっと気になるの。今まで男性からそんな届けが出た事なんて、殆どなかったんですもの」
「勘違いじゃねえのかよ？」
「だったら、今までも同じくらいの被害届が出ていてもいいと思わない？」
「むむっ・・・」
「執拗にお尻を撫で回されるらしいの。それも、被害者はみんなハイティーンから二十代の若い男性」
「野郎のケツを撫でて、楽しいのかねえ・・・楽しい奴は楽しいのかなあ」
しきりに首を捻っていた宗佑は、ふと顔を上げて怪訝そうな表情で涼子を見直した。
「それがどうしたっていうんだよ？まさか、俺にその痴漢を退治しろなんていうんじゃないだろうな」
「まさか、その通りよ」
「おいおい、待ってくれよ。そりゃ、確かに俺は余所から仕事を回してもらってるへっぽこ探偵だけどさ、そこまでヒマじゃねえんだ」
「見返りを聞く気はないの？」
ねえよ！そう怒鳴りつけてやろうとして、その寸前、宗佑は思い直して言葉を呑み込んだ。
報酬ではなく、見返り。刑事として頼みたい仕事でも、個人としての支払いならば、「報酬」だ。実際涼子は頼むときにはにっこりと微笑んで気前の良いクライアントの顔をして、いざ支払いとなると、やはり微笑みながら値切り倒した挙げ句に、タダ働き同然の安値で情報をむしり取っていく。全く、ヤクザ顔負けのやり口だと宗佑はいつもぶつぶつ文句を言うのだが、難しい仕事の時には、それなりの報酬も出すし、些かの弱みを握られているのはこちらだから、ある程度は言うことを聞かざるを得ない。
しかし、「見返り」となると、普通の探偵ごっことは事情が違ってくる。堂々と口には出来ない報酬、カネではない、警察の内部情報を涼子が支障無いと判断したときに漏らしてくれる、いわば裏取引、それが「見返り」。当然、涼子も宗佑にはただの探偵以上の「何か」を要求してくる。
たかが「痴漢退治」でそれほどの条件を出してくるはずがない。
「・・・ウラがあるな？」
「それは後で話すわ。とりあえず、あなたには先入観のない状態で取りかかって欲しいの」
「危ない橋を、目隠しされた状態で渡らされるわけか」
「あら、大丈夫よ。私はあなたを高く買ってるの。ホントよ」
「嬉しいお言葉ですね」
宗佑はにやりと笑った。
「言葉だけじゃ足りないかしら？」
涼子も挑発的な微笑を浮かべる。くっきりとした紅い唇から、濡れた紅い舌がちろりと覗く。
「・・・それは今度のお楽しみにとっておくよ」
「そう」
涼子はあっさりと頷くと、さっと立ち上がった。
「三日後、また連絡するわ」
戸口で立ち止まり、ふと振り返る。すぐ後ろには、一緒に立ってきていた宗佑がいる。 「あたしも、楽しみにしておくわ」
「・・・」
無言のまま、どちらからともなく、唇が重ねられる。
宗佑の腕の中から、涼子が外へ出る。扉の向こう側から階段を降りていくヒールの音が響いてきた時、宗佑がぽつりと呟いた。
「・・・タヌキめ」
「アンタはキツネだね」
飛び上がりそうになって、宗佑は慌てて振り返った。人の気配は全くしなかったのに、いつの間に部屋の中へ入ってきていたのだろう？
「光！！お前、いつの間に・・・！」
「たった今」
光は通学鞄を肩に担いだまま、アゴで裏口の方をさした。
「カギ開いたまんまだったぜ。不用心な探偵だな」
「そ、そうか・・・」
「女と男の化かし合い、か。この前も来てた女刑事だろ？」
「まあな」
たった今、なら涼子が口にした神宮寺の名前も、光には聞かれていないはずだ。内心胸をなで下ろしながら、宗佑はソファーに戻った。
「また面倒な用事を押しつけてったよ」
「あんたたちって、変な関係だね」
光は学生服の上着を脱いで、ソファーにぽんと放り出した。
「仲がいいんだか悪いんだか、イイコちゃんぶってるんだか、悪ぶってるんだか・・・」
「さあな、お互いもうよくわかってねえってのがホントのところかもな」
「どれが地でどれが演技だかわかんないってわけ？ますますキツネとタヌキだね」
「・・・ま、そんなとこ」
複雑な表情で頷く宗佑に、光はじっと視線を注いだ。
「で、どうすんの？受けんの？」
「あらぁ、アタシには光ってゆー息子もいるしぃ」
「誰も結婚申し込まれたなんて思ってねーよ、ボケ！」
「あっ、酷いわ、あかりちゃん！」
「カマトトぶってねーで、さっさと働きに行けよ」
「あら、冷たい」
光は無言で紙切れを宗佑に突きつけた。
二枚ともＢ５サイズで、安っぽい更紙のプリントだ。目を落とした瞬間、うっと呻く。
「修学旅行の積み立て費、月々二千円也、高校進学費用、私立校受験費、公立校年間授業料二十四万、制服、学校指定の体操服、その他の諸費用八万以上。親って大変だね、とーちゃん」
「・・・光ちゃん、頑張って都立高校に行ってね、お願い」
「わかってるよ、私立に通わせるだけの甲斐性ないもんね」
「お前の言い方は、人を傷つけるぞっ」
「へえ、傷つくんだぁ」
「ううっ、マジで傷ついたっ！」
「いいからとっとと働きなさい」
「ちぇー」
拗ねたように唇を尖らせ、ジャケットを拾い上げた宗佑が、戸口で振り向いて、笑った。
「お前さ、さっき俺のことキツネって言ったけど」
「・・・？」
「お前だってりっぱな、しかも相当な演者だぜ。たまには油断してみたら？」
絶句した光に、もう一度微笑みかけると、宗佑はひらひらと手を振って出ていった。
「・・・俺は・・・」
力が抜けたように、すとんとソファーに座り込む。小さく溜息を吐くと、目を閉じて俯いた。
「俺は、生まれたときからワキだよ・・・シテにはなれない」