月夜叉
（弐）
櫛形の月が冴え冴えとした光を下界に投げかける。
昼間はぽかぽかと暖かいこともあるが、その光はもう冬のものだ。
どこか冷たく、青白い光が谷を照らす。
そこには五つの屍が転がっていた。四つは一目で盗賊と知れる年齢もまちまちの男達である。皆首筋の一撃で絶命していた。
もう一つは越谷次郎忠孝である。
放っておかれた屍は森に棲む獣達がやがて片づけるだろう。
谷底をちろちろと流れる川を渡り小袖姿の青年が一人、そこへ下りてきた。
「血の匂いがすると思えば」
誰に言うでもなく呟く。
夜の闇のように黒い髪と月の光がこごったような肌の、見たこともないような美しい青年だった。二十歳をいくらも過ぎてはいないだろう。若い。小柄な身体もあってか、女のようにも見える。長い髪は束ねもせず、風が弄ぶのにまかせている。
既に硬直し始めている屍をゆっくりと見渡し、微かに微笑んだ。その微笑みは少し悲しげにも見える。
「死ねるものはよい・・」
もう一度呟いた。溜息をつき、男達に背を向けようとした。
その時。
「おや」
小袖の青年は一つの死骸に目を止めた。五つの中ではもっとも多くの傷を受けている。その男の血の気の失せた指先がぴくりぴくりとわずかに動いているのに気がついたのだ。
青年は男の傍らに膝を突き、のぞき込んだ。造りもののような指を薄く髭のにじんだ男の口元にかざす。
虫の息、というやつだった。途切れがちだが確かに息がある。
驚いたことに忠孝はまだ生きていたのだ。
青年は少し考え込んだ。
放っておけば一刻も待たずにこの男、間違いなく事切れるだろう。
「死ぬ瞬間を見ていてやろうか」
とも思った。
普段の彼なら間違いなくそうしただろう。しかしこの時、彼はそうしなかった。かわりに。
忠孝の腕の太さの半分もない華奢な腕で自分よりも二回りは大きな男の身体をひょいと抱えあげた。
「・・うう・・」
忠孝はうめいた。確かに生きている。
青年は顔色一つ変えず、忠孝の巨漢を抱え谷を後にした。
どこかで狼が遠吠えした。屍体の血の匂いに気づいたのだろう。
忠孝が重い瞼を押し上げるように開いたのはそれから七日後のことだった。かろうじて目を開けたもののあたりは真っ暗闇で何も見えない。身動き一つできないし、自分がどこにいるのかも見当がつかない。
（俺は死んだのか・・？）
心の中で自問する。
弟に言われるまま、根神山の見える谷間で誘われそこでだまし討ちにあったのは覚えている。盗賊をあわせて十四、五人で囲まれた。一瞬の隙に弟の剣を受けたことも記憶にある。
自分が生きているとは思えない。
（とすると、ここは地獄の入り口か？）
「気がついたのか？」
若い男の声だった。囁くようなその声には何の感情も感じられない。
忠孝はその声のした方を見ようとしたが無駄だった。
「まだ動けぬ」
声がもう一度言った。
「・・俺は死んだのではないのか・・？」
自分でも驚くほど嗄れた声だった。
「生きている。今はまだ、な。死にたくなければ大人しくしていろ」
「あ・・」
忠孝の口の中に甘い液体が流し込まれた。忠孝はそれを飲み下す。声の主が口移しに飲ませたのである。
「眠れ」
甘い液体の効き目か、言われるまでもなく、忠孝は深い眠りに落ちた。
次に忠孝が目覚めたときにも、あたりは相変わらず真っ暗闇だった。ためしに体を動かそうとすると寝返りを打つことができた。まるで他人のもののように重いが手足を動かすこともできる。感覚も少し戻ってきたのか、体中が痛いのと自分が藁敷きの急拵えの寝床に寝かされているのがわかった。
忠孝は子供のようにはしゃいだ気分になった。
「まだ起きあがれまい」
少し笑いを含んだ声だった。
「う、うむ」
「傷はふさがったが、それだけだ」
「・・御貴殿が助けてくれたのか・・？」
声は返事をしなかった。戸惑っているのがわかる。忠孝は相手の反応にたじろぎはしたが言葉を続けた。
「私は、南山城の三宅庄の国人で越谷次郎忠孝と申します」
「そうか」
「御貴殿の名を教えてはもらえませぬか？」
「・・・」
返事がない。忠孝は右の手を暗闇に伸ばした。空を掴むだけで何もない。
「越谷殿」
「は、はい」
「傷がふさがっただけだと申したはずだ」
声の主は忠孝の右手首を掴み、押し戻す。
忠孝は相手が自分の傍らに座ったのを感じた。
「薬湯を」
声の主はそう言い、また口移しに薬を飲ませた。今度の液体はこの前ほど甘くはなかったが急速な眠気が襲ってくるのは同じだった。絹のような肌触りの青年の髪がさらしにまかれた忠孝のわずかに露出した素肌をかすめた。
「私は月夜叉という」
「月夜叉・・どの・・」
それから五日もすると忠孝は起きあがれるようになった。恐るべき回復力である。
相変わらず何も見えない闇の中だったがそれがどうやら洞窟か何かの中であるということが忠孝にもわかった。回復と共に痛みが戻ってくるのには閉口したが日に日に身体に力が戻ってくるのが感じられる。
「何故にあかりをいれなさらぬ？」
忠孝はためしに月夜叉にきいた。見えないが自分の近くに月夜叉の気配を感じる。
「不要だからだ」
「暗い中でも目が見えるのですか？」
「そういうことだ」
ぶっきらぼうな返事だった。
「越谷殿には必要か？」
「あ、はい」
忠孝の答えに月夜叉の気配が消えた。真っ暗な中に一人で放っておかれ、一瞬、本能的な不安が忠孝を包む。
「月夜叉殿？」
と、急に明かりが灯った。忠孝の寝床の近くの燭に火を入れたのだ。
それほど強い光ではないのに久しぶりに見る光は闇になれていた忠孝の目をついた。思わず目を伏せ、もう一度ゆっくりと開ける。
そこは思った通りの洞窟だった。忠孝が横になっていた藁の寝床と小さな葛篭がひとつあるだけである。その葛篭の上に燭があった。
そして片膝を立てた紺色の小袖姿の青年がいる。
忠孝は息をのんだ。
背中が泡立つような気がする。小さな炎に照らされた月夜叉は忠孝が見たどんな女よりも美しかった。
「これでよいか？」
返事もできず、ただ頷いた。月夜叉の美しい面から目を離せない。
月夜叉は忠孝の心の中を見すかすように微笑んだ。
「まことに命とは不思議なもの。人とは不思議なものだ。死にかけたばかりなのに」
言いながら月夜叉は岩肌にもたれたまま、金縛りにあったように動かない忠孝の傍らに座った。そしてそっとその逞しいが傷を負った胸に頭を持たせる。
「私は人が好きだ。うらやましい」
「そのような言い方ではまるで・・」
そなたが人ではないようではないか。
忠孝はその言葉を飲み込んだ。月夜叉が唇をふさいだからである。細い腕で忠孝の首を巻きしめ、激しく口づける。
忠孝もそれに応え、月夜叉の細い肩を抱きしめた。細い身体は忠孝の腕にすっぽりとおさまる。
忠孝には衆道の経験はなかったが、月夜叉を抱くのはごく自然なことに感じられた。
愛おしく、狂おしく。月夜叉の華奢な身体を組み敷き、首筋に唇を寄せる。ああ、と小さな吐息を漏らし、月夜叉は忠孝に身を任せた。
それはほんの一瞬のことでもあり、とてつもなく長い間のことのようでもあり。忠孝は月夜叉の肌に酔いしれた。
しばらくして。
「・・傷は痛まぬか？」
藁の寝床から体を起こし、乱れた小袖をなおしながら月夜叉がたずねた。忠孝は興奮の冷めない様子で小さく首を振った。
月夜叉は髪をたばさき立ち上がった。
「薬湯を支度しよう」
いつもとかわらぬ声だった。