月夜叉
（参）
それからさらに日が経ち、忠孝が忠明にだまし討ちにされた日から二月たった。
忠孝の傷もすっかりと癒え、木の枝で剣術の稽古ができるほどに回復した。
あれから何度も月夜叉と肌を重ねるうちに、忠孝は月夜叉と離れたくないと思うようになっていた。言葉数も少なく、謎めいた青年だが月夜叉も忠孝といることを楽しんでいるように思えた。
月夜叉は昼間は洞窟の外へ出ようとしないが、日が暮れると忠孝のためにどこからか獲物をとらえてくる。兎や鹿、山鳩や木の実などである。それを忠孝は料理し食う。ただ、忠孝がいくら勧めても月夜叉は、
「もう食した」
と言って、何も口にはしなかったが。
だから忠孝も昼間は月夜叉と共に眠り、夜になると剣術の鍛錬に励むという日々を送っていた。
弟に殺されかけ、帰るべき屋敷もない忠孝であったから、このまま根神山に月夜叉と共に暮らしていても何の不都合もない。
はずである。
しかし、回復するにつれてあかねのことが思い出された。
自分の子供を身ごもった女である。ひょっとしたら忠明に殺されてしまったかも知れない。そう思うと居ても立ってもいられないような気がする。
そしてついにある日、忠孝は月夜叉にそのことを打ち明けた。月夜叉は黙って忠孝の言葉を聞き、そして言った。
「ここを出ていくというなら、止めはせぬ。だが三宅庄へ戻るのはやめた方がいい」
「何も命の恩人のお前を捨てていこうと言うのではない。俺はここにいたいと思う。しかし男としてのけじめだけはつけたいのだ。もしもあかねが死んでいたなら、弟を、忠明を生かしてはおけぬ」
「・・生きていたら？」
「子が産まれるのだ。たとえ俺がいなくても後の暮らしが成り立つようにしたやらねばなるまい」
月夜叉は冷笑を浮かべた。
忠孝が初めてみる月夜叉だった。まるで死神か何かのように冷たい笑い。忠孝は恐ろしくなった。急に根神山に棲む鬼の話が思い出された。
「とにかく、明日、俺は屋敷へ戻る」
「好きにするがいい」
そう言って月夜叉は森の奥へ消え、その夜はそのまま戻らなかった。
翌早朝。
今にも雨が降り出しそうな曇天である。いや、冷え込みも厳しいから雪になるかも知れない。
忠孝は身支度を整え月夜叉の洞窟を出た。支度とはいっても紺の着物に古びた太刀が一つきりなのだから簡単である。前に月夜叉が教えてくれたので山を下りる道はわかる。
（何もかも月夜叉の世話になっておいて、このような別れ方をするのは気がひける）
忠孝は心からそう思った。
しかしあかねのことが気がかりなのも本当である。
洞窟を出て深々と礼をした。ここを去れば月夜叉とはもう会えぬかも知れない。そんな思いが脳裏をよぎる。
忠孝は何かを振り切るように走ってそこを離れた。
根神山の山頂に近いそこから三宅庄までは忠孝の健脚でも半日かかった。あの日、鋤を預けた辻堂まで来たのは昼過ぎだった。このあたりの者が雪起こしと呼ぶ遠雷が聞こえる。
通い慣れた道である。忠孝ならこの辻堂から越谷屋敷までなら目をつぶっていても歩いていける。
忠孝の畑はすっかり雑草に被われており、誰も耕していないことが見て取れる。それに気づいてあたりを見渡すと、どの田畑も忠孝のところと同じような有り様だった。
（これは一体どうしたことか・・）
だいたい、今頃の時刻なら村のものが畑の仕事に来ているはずである。確かに冬場で農閑期ではあるが、畑には冬の間に実るものを植えておくのが普通だからだ。
（戦でもあったのかも知れぬ）
丸三月も留守にしていたのだ。何があってもおかしくはない。
忠孝は越谷屋敷へ急いだ。
三宅庄の柵は開いたままだった。
村は死んだように静まり返っている。子供の声もしない。忠孝はすぐ側の家を覗いた。そこは太作という名の男が老母と妻と二人の男の子と共に暮らしているはずである。
土間に男がうつ伏せに死んでいた。背中に刀傷がある。奥にはその母と太作の子供達が倒れている。乾いた血はどす黒く、死んでから何日も経っているようだった。
愕然として忠孝はすぐとなりの吉三の家を見た。同じだった。何軒かの家を見て歩いたが、どこも同じように斬り殺された屍体が転がっているだけだった。これでは村が静まり返っているのも当然である。
忠孝は村の一番奥にある屋敷へ走った。
（斬り殺されているのは男と年寄りと子供ばかり。女達はどうなったのだ？）
その疑問は越谷屋敷に着くとすぐに解けた。
真昼だというのに女達の嬌声がする。
忠孝は広い裏庭へ回り、隠れて屋敷の様子を窺った。
屋敷中いたるところに酒の匂いがする。むさ苦しい男達が昼間から酒をくらい女をなぶっている。男達のほとんどに見覚えがなかったが、あのとき、忠明が言った言葉からすれば根神山に隠れていた盗賊達なのだろう。おそらく忠孝をだまし討ちにした後、庄を襲い村の男を殺し、女を奪ったのだ。
（あかねはどうなったのだ？）
忠孝は歯がみした。
己のふがいなさが腹立たしかった。我知らず、熱い涙がこみ上げてくる。右手で刀の柄を握りしめた。その手が震えている。
怒りで我を忘れ、忠孝は震える手で白刃を抜き一番近くにいた薄汚れた具足の男を斬り殺した。
「な、なんだぁ！」
盗賊達のすみかと化した越谷屋敷は突然の忠孝の出現に大騒ぎとなった。女達が悲鳴をあげて逃げ出し、かわりに男達が手に手に獲物を取って庭へ出てくる。
忠孝は舌打ちした。
数が多い。ざっと見て三十はいる。
「えいやっ！」
忠孝は飛びかかってくる盗賊を一人二人と斬り伏せた。それを見て忠孝を手練と悟ってか盗賊達は回りを囲み、じりじりと間合いを詰めてくる。
さすがに忠孝、怒りにまかせて考えもなく斬り込んだことを後悔した。
「ほほう、これは驚いた。兄上ではないか」
どこから手に入れたのか守護職の武士のような派手な大鎧を身につけた忠明が奥から現れた。これまた派手な造りの白い太刀をもっている。
「生きていたとは驚いたが、わざわざ死にに来ることもないだろうに」
あのときと同じく、喉の奥でくくと笑う。
「忠明、貴様、あかねをどうした！」
「何かと思えば、女に血迷うておったか」
「答えよ！」
「あわてるな」
忠明が言うのとほぼ同時に空を切り、一本の矢が忠孝の背後から足下へ落ちた。
忠孝が刀を構えたままそちらを見るとそこには弓をつがえた女がいた。女の腹は目だつほどに大きく膨らんでいる。
「あ、あかね・・？」
「馬鹿な次郎さま。あたしがほしいのはいい着物、上手い食事をくれる男」
そう言って今度は忠孝の胸をめがけて乙矢を射た。忠孝はほとんど反射的にその矢をたたき落とした。
「まさか、あの日の矢もお前が・・？」
「そうよ」
こともなげに女は答えた。そしてひらりと身軽に縁をあがり、忠明のそばへ寄りそう。
「この子が生まれる前に本当の父親と一緒になりたかったのよ」
「そういうことだ、兄上」
忠孝は気が遠くなった。
賊に囲まれていることも忘れてしまうほど衝撃的な言葉だった。妻が弟と密通していただけでなく、夫である自分を殺そうとしたとは。元来、正直者でまじめに生きてきた忠孝には信じられないことだった。
前に忠明に斬られた傷が癒えたばかりの脇腹に熱い痛みが走った。
賊の一人が斬りつけたのだ。
その痛みに忠孝は我を取り戻した。
と、同時に身体の奥底から怒りがわき上がってくる。それはこれまで彼が生きてきた中で初めて感じる怒りだった。三宅庄の滅んだことも含めてすべてが許せなかった。
「うわああぁ！」
叫び声をあげ、忠孝は囲んでいた盗賊達に斬りかかった。もはや自分の命のことになど思いも及ばなかった。ただ、自分を裏切り、村を滅ぼした忠明とあかねを生かしておけない、それだけだった。
まさしく、鬼神の如く。
憤怒に燃えた忠孝は間合いに入った盗賊達を片っ端から斬り捨てる。型も構えもなく自分が斬りつけられても構わず、ただ刀を振り下ろした。癒えたばかりの身体から血の気が失せるのを、どこかで自覚はしていたがどうでもよかったのだ。
忠明はさすがにひるんだ。屋敷の奥へ向かって叫ぶ。
「皆のもの、出て参れっ！」
騒ぎをききつけてか忠明の命令を聞いてか、さらに賊が数を増した。すでに深手を負っている忠孝には荷が勝ちすぎる。傷よりも出血が多いため、すでに立っているのがやっとという状態なのだ。
それでも気力で何人かを叩いた。斬るというよりも撲殺しているようなかんじだった。すでに刃も血にまみれ斬れなくなっているのだ。
忠孝に斬り殺された男達の死骸が転がる血に染まった庭先で勝ち誇ったように忠明が笑った。
「さあ、あの世へはお一人でどうぞ、兄上！」
あかねが矢をつがえ、
「せめて、あたしが殺してあげる」
と言った。
忠孝も観念した。
一度は心の底から愛しいと思った女の手にかかって死ぬのが村を守れなかった自分に相応しいのかも知れないと思った。
あかねは薄笑いを浮かべて矢を放つ。それほどの距離ではない。しかも正面、万に一つもはずれまい。忠孝は片膝を付いてそれを待った。
矢は忠孝へ届かなかった。忠孝の目の前に誰かが立ちふさがった。手に持った細身の刀がひらめき、矢はたたき落とされた。
「勝手に死ぬな」
「月夜叉・・、お前」
月夜叉だった。
忠孝を背中に庇い、いつもの紺色の小袖姿で立っている。そして振り返り、うずくまった忠孝に嫣然と笑いかけた。
忠明をはじめとして、一同は息をのんで月夜叉を見た。その美しさに見とれ、身体が動かない。
「取引をしよう、忠孝」
「取引・・」
苦しそうな息で忠孝は聞き返した。
「そうだ。お前がこのままずっと、私と共にいるのなら、私がいいというまでともにいてくれるなら、お前を助けよう」
「共に・・」
「取引に応じるというならばこの刀を取るがいい。そうしたらお前は私と同じになる」
「同じ？」
月夜叉は刀をその場に差した。
最初に我に返ったのはあかねだった。自分よりもずっと美しいその青年に本能的に危険なものを感じたのかも知れない。
「共にだと？ならば一緒に死ね！」
立て続けに月夜叉めがけて矢を射た。
矢は雨のように月夜叉の背中に命中した。にもかかわらず青年は平然としている。それどころかうるさそうに身じろぎをすると、刺さっていた矢はばらばらと音を立てて地面に落ちた。
「無駄なこと。私は死ねぬ」
あかねは半ば狂乱状態で矢を次々に放った。いくつかは命中したが月夜叉は顔色も変えずにそれを身体から抜き捨てた。そしてひょいと跳ね、薄い板塀に悠然と立った。
「さあ、どうする、忠孝」
忠孝は月夜叉の刀の黒い柄を握った。
「お前が何者であってもいい。人の皮を着た鬼どもよりもずっとまともだ」
と、どうだろう。いくつも受けた刀傷の痛みが気にならなくなった。
「み、皆のもの、敵はたった二人ではないかっ！」
忠明が叫んだ。
その言葉に盗賊達も我に返る。
忠孝の背後にいた一人の男が斬りつけてきた。忠孝はそれを振り向きながら横様に斬り捨てた。まるで空を切るように手応えもなく、男の首がはね飛んだ。
恐るべき切れ味。
「斬れ、斬れ、斬れっ！」
取り乱し、わめき散らす忠明。
忠孝は再び刀を振るいだした。不思議なことに刀をいくら振るっても疲れない。刀の切れ味も鈍らない。いや、疲れないどころか、一人斬る度に力がみなぎってくるような気がする。
さらに、二人、三人を切り倒す。傷が癒えてゆく。
盗賊は恐れを為した。
「化け物だ・・」
「鬼だ・・・」
「根神山の鬼だ・・」
口々にいい、我先に逃げ出す。忠孝はそれを追わなかった。
かわりに忠孝はゆらりと縁にあがった。血塗れの兄に大鎧姿の弟は追いつめられるように後ずさる。
この庭で二人で雀を追いかけ、木切れで剣術をまねたのはそれほど遠い日ことだったのだろうか。冬場に里へやってくる山鳥のために残した柿の実を欲しいと言って泣いた忠明はどこへ消えたのだろうか。
「忠明、残るのはお前と、あかねだけだ」
その言葉は事実だった。命が惜しいものはすでに逃げてしまっている。後は累々と転がる屍体だけだ。
「じ、次郎さま！」
あかねが忠孝の足下にすがりついた。とっくの昔に弓も捨ててしまっている。
「わたくしは三郎さまに脅されただけなのです！お許し下さいませ！」
「あ、あかねっ！裏切るのかっ！」
忠明が叫ぶ。
「うるさいっ！あたしは次郎さまの妻だよ！」
忠孝は冷たい目であかねを見た。こんな女に惚れていたのかと思うとぞっとする。醜く浅ましい。
忠孝は女を振り払い、弟に切っ先を突きつけた。あかねは縁から転がり落ちた。
「抜け」
凍った声だった。有無を言わせぬ力のこもった声だった。
忠明は白い太刀を抜いた。
「きやぁぁあっ！」
奇声を上げ、太刀を振り上げかかってくる。忠孝はその刃を正面から受けとめ、弾いた。忠明の太刀が刀身の半分のところで折れた。折れた半身が板敷きの床に突き刺さる。
忠明は腰が抜けたのか、その場にへたりこんだ。
「死んで村の者に詫びるがいい」
「ひ、ひぃぃぃっ！」
忠孝は血肉を分けた弟の左の肩から右の脾腹へ袈裟掛けに斬った。断末魔の叫びをあげ、忠明は事切れた。
それを見届け振り返る。
あかねがいた。落ちていた刀を拾い、構えている。気丈な女だ。
「あ、あたしも殺すのか？女を斬っても平気なのかい？」
忠孝の顔の迷いの色をあかねは見逃さなかった。声を大きくして叫ぶ。
「ここには子供がいるんだ。子供ごと女が斬れるかい？」
正気を失った目の女は腹を突き出した。そして大声で笑い出した。
忠孝は月夜叉を見た。相変わらず微かに笑みを浮かべたまま、おもしろい見せ物でも見るように忠孝を見ている。
月夜叉はさっき盗賊の誰かが言った通り、『根神山の鬼』なのかもしれない。そうでなくとも人ではあるまい。忠孝は月夜叉とあかねを見比べた。
あかねは大声で笑っている。恐怖に気が触れたのかも知れない。
忠孝はそのあかねに背を向けた。
「月夜叉。この刀の鞘をくれ」
青年は小さく頷き、黒漆の鞘を忠孝へ投げた。忠孝はそれを受け取りぱちんと刀を収めた。
その瞬間をあかねは待っていた。弓を持って夫を殺そうとしたほどの女である。渾身の力を込めて忠孝の背後から脳天めがけて刀を振り下ろした。
ざん
水の入った袋が破れるような鈍い音がした。
そして、女が、声もなく倒れた。
忠孝の右手には黒漆の太刀が握られている。抜きざま斬ったのだ。
「あかね・・・」
忠孝の目から熱い涙がこぼれた。
「忠孝」
月夜叉が風のように軽やかに、死に染まった朱色の庭へ下りてきた。そして新しく得た仲間である忠孝の首を巻きしめ、乾いた唇に唇を重ねた。
真新しい屍体の山の中、抱き合う二人はこの世のものではなかった。
暗くなった空から、ちらちらと白いものが落ちてきた。
「忠孝、雪だ」
「ああ」
「忠孝？」
越谷屋敷に残っていた自分の着物に着替えた忠孝は月夜叉と共に三宅庄を後にした。根神山へ戻るでもなく、二人は小雪の舞う中、都へ続く道をゆっくりと歩いていた。
「月夜叉」
「何だ？」
「俺はすべてを失った」
「ああ、そうだな」
「何もかも、失った」
「・・・・・」
月夜叉は忠孝の顔を見た。真意を測りかねたのだ。
「名も捨てたい」
「そんなことか。捨てたくば捨てるがいい。お前の勝手だ」
「そうか。この刀、何という名だ？これほどの業物、銘がないわけではあるまい」
忠孝は連れだって歩く月夜叉に黒漆の太刀を見せた。
「それか。『羅刹丸』という」
「羅刹丸、か。修羅道に落ちた俺に相応しい名だ。その名、名乗ってもよいか？」
「かまわぬさ」
月夜叉は微笑んで答えた。
その微笑みは妖しく、美しかった。
忠孝、いや、今は羅刹丸と名を変えた男はほんの一瞬、来た道を振り返って。
そしてまた、歩き出した。