月夜叉
（壱）
空の青は淡く、魚の鱗のような形をした真っ白な雲がゆったりと流れてゆく。山々は紅葉の晴着を身につけ、冬将軍の到来を待っているようだ。
男は小春日和の日だまりとなった己の屋敷の庭に面した縁側で黒鞘の太刀を抜いた。
まだ若いその男は鎌倉の仏師の造る仁王像のように逞しい。あちこちを繕った、ぼろ布と紙一重の粗末な着物に無造作に束ねた蓬髪。小汚い格好をしてはいるが、どことなく大人物の風格の漂う若者である。
鈍く光る刀身は何人の命を奪ったのか、妖しげに煌めく。
研ぎ済まされた刃を見つめる男の厳しい表情はのどかな遠景とはおおよそ不似合いだった。
ここは山城国、三宅庄。小さな庄である。もとは畠山政長の所領だった。
しかし。
十余年に渡って都を焼き尽くした応仁の乱。その口火を切った畠山政長・義就という従兄同士の相続争いは、細川方と山名方の和睦と新将軍の宣下でも収まらず、あちらこちらで戦を繰り返していた。中でも都に近い山城の所領を巡っての両者の対立は根深かった。この地が元々の所領であったことと、山城を押さえた方が有利であることからだ。
さすがに幕府としてもこれを放ってはおけず、将軍の生母であり、事実上の最高権力者とも言える日野富子が中心となり何度か仲裁をしてはいたが、全くの徒労に終わっていた。
なかでも一昨年の暮れの合戦は大きかった。それぞれの大将を戴いた大軍が山城の国に三月に渡って辺り構わず斬りあいを繰り広げたのだ。
やっと実った作物も、家も何もかも焼き払われた農民達はたまったものではない。そもそも政長・義就のどちらが守護となっても彼らには大して差はないのだ。どちらにしても搾り取られるだけだからだ。
その争いに何故、巻き込まれなければならないのか。理不尽な争いに彼らは国人たちを中心にして蜂起した。
結果、政長・義就も軍をひかざるを得ず、山城は束の間の静けさを取り戻した。
そして年が変わった。
しかし、彼らが国主としてある限りいつ何時同じことが起こるのかわからない。
それではだめなのだ。
老いも若きも男も女も、皆で集まれば何でもできるのではないか。現に畠山氏の大軍を追い払ったのは我々ではないか。
その自信が山城の農民達をつき動かした。
後の世に言う「山城の国一揆」である。田おこしも終わらぬ二月、手に手に鋤や鍬を持ち武装した南山城の農民達は宇治平等院に集まり、国人の指導のもと「国中掟法」という自らで国を治めるための法を立て、自治を宣言した。
当初、幕府はこれを軽く見た。
所詮は烏合の衆、武家にかなうはずはないと高をくくったのである。国人達は武士とはいえ、半農反武ともいうべき輩である。由緒正しき武門に正面きって挑んで勝ち目はない。それに領国の経営の難しさに無知な農民が音を上げるのは時間の問題と思われたのだ。
ところが、である。由緒ある武家たちの思惑ほど、事態は単純ではなかった。
南山城の農民達は惣という寄合を単位によく国を治めたのである。『共和国』という言葉も思想もない時代である。何をするにも手探りでうまく行かないこともあったが、それでも貴族や貴族化した守護に治められていた頃よりもずっとましだった。
それに比べ、都人たちは堕落の極みにあった。桓武帝以来、五百年以上にも渡って栄えた京の都が将軍職を巡る戦のために虚しく灰燼に帰してから十二年がたつ。かつては多くの貴族達が軒を並べ、甍を競った小路も辻にも朽ちかけた死体と髑髏が転がっていた。
都を荒廃させた張本人である九代将軍足利義尚とその母・日野富子、管領畠山政長らの復興策も荒れ果てたその地には大して効き目はなかった。かつての栄華も雅の世界も、もはや失われたのだ。
ところが多くの都人は過ぎた春を懐かしみ、現実を見ようともせず廃墟の中にわずかに残った屋敷に篭り、遊興に耽るのみ。その端的な例が大御所となった足利八代将軍義政だ。足利幕府の黄金期を羨み、往時の将軍三代義満をまねて東山山荘（後の慈照寺）を建立したのはこの頃のことである。
華と詠われた都は死霊と悪鬼、現実から乖離した夢想の人々、そして私利私欲に魅入られた魑魅魍魎の住処となっていた。
国の根幹がそうなのである。荒廃が各地へ飛び火して何の不思議があろうか。
一向宗門徒達の一向一揆や、借財の棒引きを求める土一揆はましな方である。畠山氏のような守護や守護代同士の争いや主君と家臣、身内同士の戦が幕府の力の衰えとともにあとからあとから湧いてくる。
遠くない将来、この国は滅んでしまうのかも知れない。
それを思えば、と、白刃を鞘に収め、その男は庭に集う雀たちを見た。刃を見つめていた厳しいまなざしは嘘のように優しい表情に変わる。
庭に植えてある柿の木に残してあった熟し切った実が落ちている。雀や山鳩はそれを知ってこの庭に降りてくるのだ。
「次郎さま」
粗末な麻の着物は着てはいるが、美しい女が奥から出てきて男に呼びかけた。細身で背もある。細くよった紙縒りで一つに束ねてはいる黒髪は烏の濡れ羽、色白の肌によく映える。
山城国の国人、越谷次郎忠孝は眩しそうに妻を見た。
「あかね、どうした？」
「あい」
あかねは夫の傍らに座った。
逞しい美丈夫と若く美しい女はしばらくの間、黙っていた。
忠孝があかねを娶ったのは二年前のことである。
都から落ちてきた白拍子だった。
人柄もよければ腕も立つ忠孝の妻に白拍子あがりを迎えることについては村人たちもいい顔はしなかったが、反対もしなかった。忠孝は女の色香に迷い、道を誤るような愚か者ではないと皆が知っていたからである。
「次郎さま」
もう一度あかねが言った。さっきよりも小さな声である。
「どうしたのだ？」
「・・春には父上とおなりです」
忠孝の呼吸が止まった。浅黒い肌に相応しい濃い眉の下の大きな目をどんぐりのように丸くする。それから生唾を飲み込み、あかねのきゃしゃな手をごつごつした自分の手のひらで包んだ。
「でかした！」
「この間から少し、変だとは思うておりましたので、今日、見ていただきました。」
あかねはおぼこ娘のように頬を赤らめた。それが何ともかわいらしく、忠孝はあかねを抱き寄せた。その圧倒的な力にあらがいながらあかねは言う。
「まだ日が高こうございます」
「かまわん！」
あかねの甘やかな体臭が忠孝を誘う。
忠孝は束の間、戦のことを忘れ、妻の心地よい肌に酔った。
そんな夫婦を見つめる冷たい視線に忠孝は気づいてはいなかった。
その夜、三宅庄で一番大きな屋敷でもある越谷屋敷ではささやかな宴が催された。当然、忠孝の妻あかねの懐妊を祝ってのことである。
国人とはいえ越谷家はもとは源氏の流れをくむ家柄である。近隣の国人達に比べても武家としての色彩が濃いのも当然だった。今は郎党達を持つ国人は少ない。
「皆の衆、喜んでくれ。春には俺も人の子の親じゃ」
「よろしゅうございましたな、次郎さま」
「まこと、めでたい」
忠孝と共に三宅庄の惣を構成する村の大人衆も口々に言う。その言葉に忠孝の傍らのあかねが微笑する。
忠孝は自分自身が鍬を持ち、畑を作る。村の者と変わらない暮らしをしている。武家だ、侍だと威張ったところが微塵もない。そのあたりに村の者は安心し、信頼を寄せているのだろう。
加えて忠孝は腕が立つ。農作業で鍛えられた膂力と鋤や鍬を持ってはいても決して怠らない剣術の鍛錬は源氏の名に恥じないものだ。ただそれを誇示せず、夜盗や盗賊達から村を守るためにのみ力を振るうところが彼らしいのである。
越谷屋敷の郎党たちの中にはそんな忠孝のやり方に不満を持つ者もいた。
誰が見ても乱世となった今、刀を取り、立身を夢見るものもいるということである。越前の守護朝倉孝景ももとは国人だったのだ。それがまた、彼らを苛立たせる。
自分たちの惣領が侍よりも百姓を好むのが気に入らない。
その不満分子の急先鋒は忠孝の二歳下の弟、三郎忠明だ。彼はいつも、彼と同じく忠孝のやり方に反発している何人かの郎党とともに何をするでもなくぶらぶらしている。時には村の者に狼藉をはたらいたりもするので兄とは異なり、人望もない。
兄に劣らぬ立派な体格の忠明は宴の輪には加わらず、一人離れて茶碗酒である。忌々しげに見つめる険しい視線の先には上機嫌の兄の顔があった。
（今に見ておれ）
忠明は心の中で呟いた。そして薄笑いを口の端に浮かべる。
冥い笑いだった。
宴の夜から数日が過ぎて。
その日も忠孝は畑に出ていた。空が茜色に色づき、烏の鳴き声が響いている。
「兄上」
「三郎、どうした」
冬場に供え、大根や蕪を植えようと畑をおこしていた忠孝のところへ忠明がやってきた。ついぞなかったことである。忠明は畑仕事が大嫌いなのだ。
「お耳に入れたいことがあります。余人には聞かれたくないこと故」
「はて」
忠孝は弟の言葉に鍬をおいた。粗末な野良着の袖で額にうっすらとにじんだ汗を拭く。
「もう日が暮れる。ここを片づけ、ゆっくりと聞こう」
泥のこびりついた鍬をすぐ側の小川ですすぎ、藁できれいに水気をふき取る。慣れた手つきで農具を片づける兄を弟は冷ややかな目で見ていた。
（兄は侍ではない。この乱世に自分の力で道を開く才覚も勇気もない。ただの百姓だ）
「待たせたな、三郎」
「いえ」
兄弟は並んで歩き出した。
兄は野良着姿で脇差しさえ身に帯びてはいない。弟は都人を意識したこざっぱりとした袴姿である。朱鞘の太刀も都の流行りものだ。
「盗賊のねぐらを突き止めました」
突然、忠明が切り出した。
「何？」
戦に追われ、流人と化した元農民や国人達が徒党を組み盗賊となり、南山城を荒し回っていた。三宅庄とて例外ではなく、時折その被害にあっている。彼らは家を焼き女を犯し人を殺す。自分たちがかつて受けたのと同じ仕打ちをするのだ。いくら郎党を庄の出入口である柵に見張りにおいても数を頼む彼らにはこれを難なく破られている。
忠孝はかねてから盗賊達の被害を何とかしたいと考えていた。
「奴等を退治したい思いはおれも同じですよ、兄上。ですからおれなりに調べました」
「そうか」
忠孝はうれしそうに笑った。疑うということを知らない素朴な質の忠孝は弟のいうことを素直に信じた。
「北の根神山に奴等のねぐらがあります」
「根神山か・・・。なるほど、鬼のような盗賊ばらには似合いの場所だな」
忠孝はそう言い、少し考え込んだ。
三宅庄の北にある根神山はそれほど高い山ではないのだが、どこか気味の悪い空気の漂う山である。まず切り立った崖が人のはいるのを妨げる。鬱蒼と木々が茂り、日の光さえそこだけ避けているかのように、麓の村から見るといつも霞がかかって見える。その上、いや、だからこそというべきか、根神山には鬼が棲むという話まである。
「大手柄だな、三郎」
忠孝に言われ、忠明は微笑んだ。
「ありがとう存じます。幾人かの郎党に見張らせておりますが、日も暮れかけております故、いつ奴等が動き出すか知れたものではありません。一刻も早く奴等を討つことが肝要かと」
「しかし、支度も整えずに乗り込むのは無謀であろう」
「はは。ご安心下され、兄上。抜かりはございませぬ」
忠明がそういい、右手で前方を指した。あぜから少し広い道にでる交差の辻堂に越谷の郎党の一人がふろしき包みを持ってある。若いその郎党はいつも忠明と共にいる者たちの一人だった。
「他の者たちはすでに根神山の麓の落ち合い場所へ向かっておりましょう」
「まこと、抜かりはないようだな」
忠孝は少し驚いた。が、弟がそこまで村のことを案じ、手だてを打ったのかと思うと嬉しくなり、ただ目を細めるばかりである。
弟にいわれるままに辻堂で着物を改め、愛用の黒鞘の太刀を差す。相変わらずの蓬髪ではあるが堂々とした体躯に黒の袴姿はよく似合い、先程までの野良着の男と同じ人物とは思えない。鍬などは辻堂へ立て掛けて置くことにした。
「三郎、参ろう」
「こちらです」
越谷兄弟と若い郎党は連れだって根神山を目指した。
「しかし根神山とは・・。奴等も考えたな」
「我らもなかなか近づけませぬからな」
やがて日が沈んだ。
残輝が淡い紺色の空に残ってはいるが櫛形の月に宵の明星も輝いている。薄闇の頃、根神山が目前に迫る谷へ三人は出た。
「して、忠明、落ち合う場所とはどこなのだ？」
「ふふ」
忠明が女がするような含み笑いをもらした。忠孝が怪訝そうにそれを見た。
「何がおかしいのだ、三郎」
「おかしくなどありませんよ。ただ、嬉しいだけです」
「嬉しい？」
「はい」
忠明が立ち止まった。おもむろに右手を挙げる。
ひゅっと風を切り裂く音がした。咄嗟に忠孝は身をかわす。
その足下に矢が突き刺さった。
「何のまねだ」
さすがに動揺を隠しきれず、忠孝は弟に言った。
「ご覧の通りですよ、兄上。おれにはあんたが邪魔なんだ。だから死んでもらう」
こちらはあくまで冷静である。その言葉を待っていたかのように岩影や木の陰から十四、五人の男達が出てきた。たちまちに忠孝を囲む。何人かは忠孝にも見覚えのある越谷の郎党だったが、残りは驚いたことに盗賊とおぼしき男達だ。
「根神山に盗賊がいるのは本当のことなんですよ。ふふ。ただ、おれも奴等の仲間なんでね」
くくく、と喉の奥で忠明が笑う。朱鞘の太刀を抜いた。
「かかれっ！」
忠明の声に男達が一斉に抜刀する。
忠孝も太刀を掴み抜いた。
「！」
しかし抜けたのは柄だけだった。刀の目抜きがはずされ、刀身と柄が分離していたのだ。
「はははっ！いかな剣術の達人でも抜けなくてはどうすることもできまい！」
忠孝は舌打ちし、柄を捨て鞘を取った。
斬りかかった郎党の刃が二つ、三つと黒い鞘に食い込む。
忠孝はそれを振り払った。力ずくで払われた郎党達は平衡を崩し尻餅を付く。
ぼろに破れた鎧の残骸を身につけた盗賊の男達が四人、郎党にかわって忠孝へ跳びかかる。得物は槍、手斧に大刀と統一がない。
忠孝はそれを右へ左へかわし、得物を繰り出す男達の腕を黒鞘で打つ。手斧を持っていた男が手首を打たれ、うめき声を上げて得物を取り落とした。致命傷ではないがまともに受けたため骨が折れたのだろう。すかさず忠孝は手斧を拾う。
それを見て男達の顔色が変わった。
右手に黒鞘、左手に手斧の越谷の棟梁は腰を落とし、男達を睨み付ける。眼光は怒りに燃え立っていた。その姿勢には一分の隙もなく、迫力に気圧されそうになる。
忠孝は新たに手にした得物を振るい、たちまちのうちに四人の盗賊を血祭りに上げた。
「ひるむなっ！」
忠明に叱咤され、尻餅を付いた郎党達はもう一度忠孝へ向かっていった。己が屋敷の棟梁に一旦刃を向けたからには忠孝を殺すほか道はないのだ。
「鋭！」
ふろしきを抱え辻堂にいた若い郎党が気合いをいれ大上段に振りかぶった刀を忠孝の脳天めがけて打ち下ろす。
きん、と、刀の刃と手斧の刃がぶつかり火花が飛んだ。忠孝に真っ向から受けとめられたのだ。間髪を入れず忠孝の右手の鞘が若い郎党の脾腹を打ち据えた。若い郎党は短くうめきその場に昏倒した。
忠孝は背後に切っ先を感じた。槍と刀が同時に繰り出される。
忠孝は反転し紙一重でそれをかわした。しかし。
背中を忠明に向けたのが忠孝の不覚であった。
「た、忠明・・」
忠孝はゆっくりと振り返った。
弟の刀が兄の脇腹に深々と食い込んでいる。忠明は兄にも劣らぬ剣術の使い手である。わずかな隙を見逃さず斬りつけたのだ。弟はさらに力を込める。
忠明の手には兄の内蔵を切り裂く確かな手応えが、忠孝は自分の身体に食い込んだ冷たい刃とどくどくと流れ出る血潮の音がはっきりと感じられた。
忠孝は持っていた手斧と鞘を落とし、素手で刃を握った。両の手のひらがたちまち赤く染まる。
忠明は満足げな微笑みを浮かべ、ひきつる兄の顔を見た。手首を返し、腸をえぐるように刀を回す。忠孝は声一つあげず弟を見つめ返す。
四方から槍の穂先や他の刀が忠孝の身体に突き立てられた。内蔵をやられたためか口元に赤い血の糸がひいた。
目がかすむ。力が抜ける。
「初めて、あんたに勝てた」
忠孝は消えてゆく意識の中、そう言った弟の声を聞いた。
あとは闇の中だった。