きつねつき
（参）
「旦那！」
重蔵は叫んだ。
三郎太は抜く手もみせず、愛刀『弥三郎』を閃かせて地面に映った自分の影を差し貫いた。三郎太の先祖が鬼を斬った時に用いたという二尺三寸の妖刀は半ばまで埋まっている。
「・・・・思った通りの事になった・・・ようです」
三郎太は大きく目を見開き、刀を突き立てた一点を睨み付けている。歯を食いしばり、必死の形相だ。
三郎太と重蔵は万治の家の庭にいた。松や梅の木が植えられたばかりの庭はそこそこに広い。小春日和とも言えそうな柔らかな陽射しが注いでいて、一見、とてつもなくのどかな場所である。
その場で突然刀を抜くとは、重蔵でなくとも驚く。
しかし、昨日から重蔵、驚きっぱなしである。
「・・重蔵さん、さっきの若い僧が出てきたら、ここへ連れてきて下さい・・。お願いします」
そう言ったきり、三郎太は埋まった刀の柄を握りしめ仁王立ちしたまま目を閉じた。
「伊吹の旦那ぁ」
情けない声で呼んでも返事もない。じっと、まるで金縛りにでもあったように三郎太は動かなかい。
重蔵は恐ろしくなってきた。慌てて万治の家の表へ走り込んでいった。
「棟梁、棟梁！」
万治は手ぬぐいで涙を拭き鼻をかみながら出てきた。
「重蔵か、きいてくれ、おゆうの狐が落ちたんだ」
「冗談じゃねぇや、棟梁、坊主を呼んでおくんなさい、あの若い坊主！」
「馬鹿野郎、てめえ、慈音様を坊主呼ばわりするんじゃねぇや。慈音様はおゆうの狐を落としてくんなさったんだぞ！」
「何でもいいから早く！伊吹の旦那が動かなくなっちまったんですよ！」
どちらも気性の荒い男が互いに怒鳴りあう。双方が譲らないから喧しいなどと言うものではない。すると奥から当の本人、慈音が現れた。
「・・私に何かご用でしょうかな？」
「てめ・・ぇ」
猛り狂っていた重蔵でさえ思わず慈音に見とれてしまった。気合いを込めた調伏の直後であるせいか、少しやつれているように見える。しかし切れ長の目元の光は強い。
「てめぇ、何しやがった！とにかくこっちへ来て貰おうかい！」
怒鳴りながら重蔵は女のようにほっそりとした慈音の腕を掴み引っ張った。万治が止めるまもなく、慈音は足袋はだしのまま連れ出された。
「重蔵！この馬鹿！」
万治もそれに続く。
一歩外へ出て、慈音は凍りついた。
「この結界・・さっきの術者の仕業か？」
「お、応ともよ。伊吹の旦那だ」
慈音は怒りとも驚きともとれない複雑な表情で重蔵を見た。重蔵には結界の意味も慈音のその表情の訳わからなかったが、何となく、勝ったような気分になった。
慈音は目に見えない大きな網を感じていた。それは家の周囲に張り巡らされた銀の針によって止められた五芳星の結界だった。
慈音は大きく、包み込むように張り巡らされた結界に今の今まで気がつかないでいた自分に驚いていた。
「旦那、坊主を連れてきやした！」
先程とまったく同じ姿勢のままで三郎太は庭にいた。駆け寄りながらの重蔵の声に三郎太は半眼で口を開いた。まるで感情のない声だった。
「・・仏の慈悲、神の技、鬼の力であろうとも慢心しては無意味」
「・・・・・」
慈音は無言で唇を噛んだ。
さすがに慈音には三郎太の刀の差し貫いているものが何なのか、理解できた。
「その影に封じたか？」
「如何にも」
先程、慈音の術をかわし、おゆうから離れたもの。不敵に自分をあざ笑ったもの。それを三郎太は自らの影に閉じこめたのだ。
「・・御坊にはそのお力を貸して貰わねばなりません。御坊が払おうとしたものをよくご覧なさい」
三郎太はかっと両目を見開いた。勢いをつけて『弥三郎』を引き抜く。
穏やかな空が一転、真っ黒な雲に被われ、ごぉっという音が耳の奥一杯に広がった。
途端に圧倒的な力が慈音を包む。不意をうたれた慈音はその力にはねとばされた。側にあった松の木に叩きつけられる。
「慈音様！」
「重蔵さん、万治さん下がっていて下さい」
三郎太の迫力の言葉に大工達は後ずさった。雲行きの急激な変化と僧の様子に気圧されてしまって逃げ出すこともできない。
背中を強かに打ちつけた慈音は、意識が朦朧となっていた。ぐったりと首を落とし、体がずるずると崩れていく。
霞がかったように白濁した意識の中に先程と同じあざ笑いが聞こえてきた。
声の主は女のようだった。
（愚かなるかな。おのれは妾の敵ではない。おのれ相手ならば妾の勝ちじゃ）
（・・お前は一体何者なのだ？）
（・・・）
返事はなかった。
そのかわりに慈音は自分の中に声の主が入り込むのを感じた。
奇妙な感覚だった。
自分が自分であるという意識がある。そして自分の中に自分ではないものがいる。体を動かそうとしても小指一本動かすことができない。声を出すことも勿論不可能だった。
「・・あの女の体よりはまし、だのう。妾を追い出しにかかる力がないのか？」
静かな声で言いながら『慈音』はふわりと立ち上がった。開かれた目は紅く光っている。
「・・して陰陽師よ。妾にこの体を与えて一体どうするつもりじゃ」
「話をしましょう」
「話？」
『慈音』は大声で笑った。
「面白いことをいう」
「別に面白くなんてありませんよ。あなたは本当は何がしたかったんですか？人の体が欲しかった訳ではありますまい」
『慈音』はゆっくりと三郎太に近づいた。
「そうだといったら？」
「違う。あなたはこの土地に祠られていた地霊でしょう？災いをもたらすものではない」
「・・・」
『慈音』は紅い目で三郎太を見る。
「お前は何者だ」
「伊吹流十三代目退魔陰陽師、伊吹三郎太惟竜」
「伊吹とな・・はて、ずっと昔に同じような名を聞いたことがあるような気がする」
三郎太は微笑んだ。
「どうか、あなたの帰るべき場所へ戻って下さいませんか」
慈音は自由を失いながら二人のやりとりを聞いていた。自分から何かをすることはできなかったが、今の彼には声の主が望んでいることがはっきりとわかっていた。
（行き場を失ったのだ・・）
「帰る場所だと？戻れだと？妾にはそんなところなぞない」
怒りにまなじりを吊り上げ、『慈音』は吼えた。
「遠い昔、この地にいた妾を恐れた人間共が妾に祠を建てた。妾はそこに棲んだ。やがて人間共は妾のことを忘れ去った。忘れられた祠も戦で焼け、無くなった」
『慈音』は空を仰ぎ、目を閉じる。その眼裏には過ぎ去った情景が見えていた。慈音はその悲しみに押しつぶされそうに苦しくなった。慈音にも同じ景色が見えていたのだ。
一面の草原。すぐそこに海岸線が見える。
蝦夷や土蜘蛛と呼ばれていた人間たちは素朴な暮らしをしていたが、自分たち以外の生き物や神々を知っていた。それはとりもなおさず己自身をよく知っていたという事だ。
『慈音』は地を駈け、獲物を取りながら彼らと共に生き、そして死んだ狼だった。狼達は獰猛で恐ろしい存在だったために人間達の信仰の対象でもあった。
「祠なぞどうでもよい。妾はただ、静かにここに眠っていたのだ。何故にこのようなものを！」
『慈音』は万治を見る。
万治はその紅い目に射竦められた。
「やめてくれ！」
三郎太が叫ぶよりも早く、『慈音』は万治に牙を剥いた。人の体とは思えない程の早さで万治の方へ跳ねた。両手で万治の首を絞めるように掴む。
少し歪んだ獣の爪が万治の喉に食い込み、万治は苦しさにもがいた。
「てめぇ何しやがる！」
重蔵が『慈音』に飛び掛かった。
「邪魔をするな」
まるで蝿でも追い払うかのように『慈音』がうるさげに手を閃かせると、重蔵は見えない力に弾き飛ばされた。
「やめなさい」
三郎太が言った。
「やめぬ」
「万治さんの命を取って、どうしようと言うんです？その人が死ねばあなたの帰る場所が戻るとでもいうんですか」
その言葉に『慈音』は万治を締め付けていた両手から力を抜いた。そしてゆっくりと三郎太の方を振り向く。
万治は激しくせき込みながらその場に蹲った。重蔵が万治のところへ這っていき、棟梁を抱き起こす。かなり苦しそうではあったが、命に別条はないようだった。
「・・ならばどうしろというのだ、陰陽師よ・・」
今にも紅い目から涙が溢れだしそうな、悲しげな表情だった。うつろな足どりで三郎太の方へゆっくりと近づいて行く。三郎太は両の腕を広げ、『慈音』を胸に抱いた。
『慈音』は静かに目を閉じ、そのままそこに膝を折った。
「あなたのいるべき場所は最早、この地にはない。天へお帰りなさい・・」
「・・・ゆけるのであろうか・・・妾は随分と長く留まりすぎた・・・」
「私たちが力を貸しましょう」
「そなたと・・？」
「あなたの内に取り込まれた僧と、です」
『慈音』は三郎太を見上げた。三郎太を見ながら自分の内にいる慈音も見た。
慈音は静かに『慈音』を見ていた。
「・・その体を依童に選んだのは飾りではありませんよ。二人分の力を合わせれば・・きっと大丈夫です」
三郎太は『慈音』を見ながら一歩後ろへ下がった。印を結び、九字を切る。
「臨兵闘者開陳烈在然」
慈音もそれに唱和した。
（なうまく・さまんだぼだなん・あびらうんけん）
「ばん うん きりく たりく あく」
『慈音』は薄く唇を開いた。ああ、と安堵の溜息が漏れる。表情から険が消えて行く。
内と外からそそぎ込まれる清らかな力が『慈音』の体を軽くしてゆく。今にも、空へ浮かび上がることができそうな気がしてきた。
（おん・ばさらだと・ばん）
「天には天の理 地には地の理
星には星の理 人には人の理
妖かしには妖かしの理これあり
森羅万象を司る八百万の神々よ
我に力を貸し賜え」
（おん・ばさらだと・ばんなうまく・さまんだぼだなん・あびらうんけん！）
「色、受、想、行、識。五蘊消滅！」
眩い光が『慈音』と三郎太を包んだ。
慈音は見た。
白光の中に、それよりもなお白い一匹の狼が空へ駆け昇って行く姿を。その狼が一瞬だけ紅い眸を自分に向けたのを。
その眸は確かに「ありがとう」と言っていた。
気がつくと慈音は涙を流しながら三郎太を見上げていた。空はもとの通りに澄みきった青をしている。
遠くに鳥の声がする。
万治も重蔵も、目の前に繰り広げられた信じられない光景にただ呆然と座り込んでいる。
三郎太は泰然として。やさしく微笑んだ。
「皆さん、怪我はありませんか？」
すぐに答えられる者はなかったが、万治は喉をさすりながらうんうん頷き、重蔵は手に持った小さな鏡を三郎太に見せた。
三郎太が重蔵に渡していた五芳星の護符は真二つに割れていた。
結局、おゆうの縁談は破談になった。