きつねつき（四）

　それから三日。
　三郎太はいつものように朝の味噌汁を炊いていた。一人暮らしの貧乏浪人の朝餉は飯と味噌汁のみである。味噌汁に具が入るのは三日に一度と決めている。ちなみに今朝はその一度の日で、味噌汁にはちんまりと麩が浮いていた。
「やぁ、できたできた」
　誰に言うともなく、嬉しそうに三郎太は膳に飯碗と汁碗を並べた。
「いただきます」
「御免下さいませ」
　という二つの声が重なった。三郎太がハイと答えると静かに引き戸が開いた。
　そこに立っていたのは旅姿の若い僧だった。
「慈音殿」
　三郎太はとりあえず慈音を自分の部屋へ招き入れた。立ち話には寒い朝である。
　慈音はとりあえず、土間へ入った。
「私はこちらで構いませぬ」
「狭いところで申しわけありません。朝はお済みですか？」
　三郎太は自分のつましい膳を目で指しながら慈音に尋ねた。慈音は微笑んで首を振った。
「伊吹様、私は只今より寺へ戻って参ります」
「そうですか、確か阿波、でしたね」
「左様でございます。そしてもう一度、江戸へ参ります」
「え？」
　慈音は婉然と笑った。
「還俗して、伊吹様のお弟子になりまする」
「は？」
　若い僧の落ちつきに比べ、何とも素っ頓狂な声だった。
「伊吹三郎太惟竜様のお弟子になりまする」
　もう一度繰り返した。
「慈音様、それはまた何とも無茶なお話ですよ。私はあなたを弟子にできるような人間ではありません」
「いえ、もう決めました。できるだけ早くにこちらへ戻って参ります。まずは出立のご挨拶に参りました。御師様にもおかわりなきように」
　ひれ伏すように頭を下げ、慈音はさっさと出ていった。
　唖然。
　三郎太が戸口を出ると、長屋の門のところで慈音は振り返り、再び頭を下げた。
「行って参ります」
「行ってらっしゃい」
　思わず答えて、三郎太は口を被った。だがもう遅い。慈音は嬉しそうに微笑んで行ってしまった。
「・・・どうしよう・・大変なことになってしまったような気がする・・・」
　三郎太のつぶやきは虚しかった。

　後日談ではあるが。
　重蔵がひいきにして貰っている小間物問屋の武蔵屋で「きつねつき」が出たと大騒動になった。
「伊吹の旦那、頼みますよぉ」
　と、朝から晩まで頼み込む重蔵に負けて、三郎太は武蔵屋へ出向くことになった。
　きつねに憑かれたのは武蔵屋の若旦那、半太郎だ。
「お噂はかねがね重蔵から伺っております。どうか、先生、倅を見てやって下さいまし」
　泣きはらした目の武蔵屋夫婦に連れられて若旦那のいる離れへと三郎太は渋々とついていった。
　おゆうの時とは違って半太郎は無茶苦茶に暴れたりはしなかった。しかし頭に草履をのせたり、足の指で器用に耳を掻いたりと到底考えられないようなことをするということだった。あとは酒ばかり飲んでいるらしい。
「こーん」
「半太郎・・」
　あらぬ有り様の息子の姿に母親はよよと泣き崩れた。父親は大店の主らしく苦虫を噛み潰したような表情だったが、心中は母親と変わらないはずである。
「伊吹先生」
「・・・わかりました」
　三郎太は言うなり、つかつかと半太郎の前に立った。
　床の間に腰掛けた半太郎は帯も締めずに着物を羽織っているので下帯まで見えている。親でなくても情けなくなるような格好だ。
　半太郎は口をぽかんと開けて三郎太を見上げた。
　その時。
　三郎太の腰のものが一閃した。
　その場にいたものはしゅっという鞘走りの音と、ぱちんという刀の収まる音をほとんど同時に聞いたという。
「これでも落ちぬ憑き物ならば、その頭ごとすげ替えてさしあげましょう」
　言い捨てて、一同に軽く会釈。そして三郎太はさっさと出ていった。
　障子が閉まると、半太郎のもとどりがばらりと解けて髪がざんばらになった。見れば元結いが真二つに切られて落ちていた。
「ひ、ひぃいいい」
　奇声と紙一重の悲鳴をあげて、半太郎は腰を抜かした。
　聞くところによると、放蕩の行き着く先である賭場と遊郭での借金で首が回らなくなった半太郎は考えた末に「きつねつき」をかたったということだった。
　その後、半太郎は甲府の親戚の家に預けられたという。