きつねつき
（弐）
翌朝。
明け六つの鐘を待って重蔵と三郎太は反物長屋を出た。もちろん行く先は亀戸の万治の新しい家である。
三郎太は紺の着流しに無紋の長羽織姿だ。普段の熨之目の袴だといかにも痩せ枯れ浪人という雰囲気になるのだが、こうしてみるとそこそこに気品のようなものがあるから不思議だ。
重蔵はしみじみと三郎太を見た。
「旦那もそうやってると、そこそこいい男じゃないですかい？」
「そうですか？」
道中、重蔵はおゆうときつねの事を考えないようにどうでもいいような話をしつづけた。
「・・で、猫が恐い武蔵屋の旦那の寝間には『ねずみ返し』ならぬ『猫返し』を取り付けたってわけで」
「ご苦労なことだね、でもねずみと猫と、返し方が違うものなのかい？」
「いえ、大きさがちょいと違うだけでさぁ。つまりこっちの丸儲け」
三郎太もうわさ話や世太話につきあう。普段の重蔵は洒落者を気取っている分、話題も豊富で話もうまい。三郎太は重蔵には大工よりも噺家や幇間のほうが向いているのではないかと思うこともある。
二人は竪川沿いに進み、亀戸村までやってきた。
「・・着きましたよ、ここです」
重蔵が一軒の真新しい家の前で立ち止まった。
さんがわらで葺いた屋根は御府内では珍しくはないが、このあたりまで来ると少し目をひく。中二階の小戸ながら、さすがに棟梁万治が太鼓判を押す大工が腕を競っただけあって、しっかりとした普請である。
三郎太は母屋と同じくさんがわらで葺いた小さな門戸口から目をすがめてその家を見た。
「うん、これはなかなか良い土地だ。陽の気が満ちているように感じる」
「旦那、地相を観るんですかい？」
「うん」
「どうします？中には多分、棟梁もいらっしゃると思いますが・・」
「いや、あとでいいですよ。ちょっと家のまわりを見せて貰いたいから」
「そうですかい」
と、二人が万治の家の裏側へ回り込もうと門戸口を出て角を曲がりかけた時、旅姿の僧がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
三郎太はじっとその僧を見た。
深めの菅笠で顔はしかとは見えないが若い僧だ。身につけた墨染めの衣と粗末な袈裟、手甲と脚絆はくたびれきっているが、背中もしゃんと伸びているし足どりもしっかりしている。
こちらに向かってくる僧を立ち止まって見ている三郎太を訝しんで重蔵が三郎太を見上げた。
僧はひたひたとこちらへ歩いてきて。
二人とすれ違った。
すれ違いざま、僧が声もなく笑った。
嘲笑。
そうとしか表現のしようのない笑いだった。
僧はそのまま、万治の家へ入っていった。その背中を完全に見送って重蔵は三郎太に言った。
「今の坊主、旦那に喧嘩を売っていきやしたね」
「・・・・」
三郎太は困った顔で頷いた。
「参ったなぁ。面倒なことにならなければいいけど」
僧の消えた方をしばらく見つめて小さな声で呟く。
それから丹念に重蔵の家のまわりを見て回った。
入会地に近い、というよりも隣接していた。心持ち周りの土地よりも高くなっているような気がする。
「重蔵さん、見て下さい」
「何です？」
三郎太は万治の家の真裏のあたりで立ち止まって重蔵を呼んだ。
「ほら、これ。石垣の跡のように見えませんか？」
「そうですねぇ。ふん」
重蔵はその場に座り込み、手のひらで石を払った。と、きれいに組まれた石垣が現れた。
「ここには何か、建物があったんですか？」
「さぁて。家を建てかけたときにゃサラ地でしたぜ」
三郎太は考え込んでしまった。
「伊吹の旦那、どうかしやしたかい？」
三郎太は答えず、懐から短冊程度の大きさの紙と銀の針を取り出した。針はかなり大きく、畳針程はある。
そしてぶつぶつと口の中で呟きながら人差し指と中指に挟んでいた紙を弾き飛ばした。紙はまるで何かに引かれるように石垣にくっついた。その上に銀の針を刺す。
三郎太は万治の家の周囲を歩き、所々で同じように紙を針で固定していった。
「これは何のまじないなんですかい？」
「とりあえず、結界を張っておいた方がいいかなと思ったんですよ」
「はぁ」
重蔵には結界という言葉の意味が今一つわからなかったが、何かのまじない事であるということは理解できた。
「重蔵さん、それからこれを」
「へい？」
三郎太は袂を探り、小さな鏡を取り出した。かなり古いものらしく、裏側は少し緑青がかっているが綺麗に磨かれた銅鏡だった。
「・・変わった形ですね、鏡ですかい？」
「五芳星を型どった魔除けです。なんだか危ないことになりそうな気がするんですよ。重蔵さん、ここはとてつもない場所だ・・」
重蔵は黙ってそれを受け取った。小さな星形の鏡と三郎太を見比べる。
「一体、旦那は」
何者なんですかい？と、口にしかけたとき、三郎太は万治の家を見て言った。
「・・どうやら始まったようですね・・」
大工の棟梁万治は訪ねてきた若い僧を出迎えた。
僧は菅笠を取り、深々と頭を下げる。
切れ長の双眸は黒々として。凛とした光を湛えていた。すっきりと通った鼻筋も、引き締まった口元も、役者の方が似つかわしいような気がする。ただ青々と剃りあげられた頭だけが僧侶らしい。
「拙僧は阿波国極楽山文覚寺より栄禄寺へ使いに参っております慈音と申しまする。栄禄寺の巽基和尚よりこちらさまがお困りと伺いました」
澄んだ鈴の音のような声で言った。
栄禄寺というのは深川にある小さな寺である。そこの和尚と万治とは若い頃からの知り合いだった。将棋仲間である。
万治はぽかんと口を開けてその若い僧を見上げた。
「万治殿？」
慈音と名乗った若い僧に呼びかけられて万治ははっと我に返った。
「よ、ようこそお出で下されやした。昨日の今日で、こんなに早くにみていただけるたぁ、有り難いことでごぜぇやす。ささ、こちらへお上がり下さいまし」
見とれていたことを悟られたくないかのように万治はまくしたて、慈音の菅笠を受け取った。
「・・きつねに憑かれたという娘御はどちらに？」
「へ、へぇ・・」
万治はしどろもどろになった。慈音に見られるだけで手足が萎える気がする。鉄火な江戸っ子らしくもないことである。
昨日、皆でうなり声をあげ続けるおゆうを縛り上げてから万治は栄禄寺へ走った。ともかく誰かに何とかすがらなければ、自分自身がどうにかなりそうだったのだ。
巽基和尚は万治の話を聞くなり、
「万治殿、ならば打ってつけの者がこの寺に逗留しておりますよ。まだ若い修行中の僧ですが、そういうことには類希なものでしてな」
と、気安く答えてくれた。
この一言がどれほど万治には有り難かったか。
その言葉通り、今朝になって慈音が現れたのである。慈音はまだ何にもしていないのに、万治はすでに救われたような心持ちになっている。何しろ、恐いもの知らずの自分をわけもなく威圧するような僧である。きっと何とかしてくれるはずである。
一方の慈音は菩薩のような柔和な微笑みを浮かべてはいたが内心、かなり苛ついていた。
（先程の男、術師だった。間違いない・・。この私を呼びつけておきながら他の術師も呼んでいるとは、何という無礼であろうか。しかし大した力のある者ではなかった）
万治は慈音の心のうちの呟きも知らず、大きな溜息をついた。
「・・土蔵でもあれば良かったんですがね、ええ。こちらへ・・」
万治は慈音を一番奥の座敷へ通した。
娘の異変にすっかり滅入ってしまい、心なし小さくなった万治の背中について慈音は悠然と座敷へ入っていく。
薄暗い部屋の中には三人いる。一人は言うまでもない。柱にくくりつけられた女はおゆうだ。それから三十がらみの男が二人。慈音は知らないが伊太郎と惣太である。行きがかり上、重蔵のように万治を見捨てて逃げるわけにもいかず、こうして一晩中おゆうを見張っていたのだ。
慈音は形の良い眉をひそめた。
そこには『気』が溢れていた。胸に押しつけられる強烈な力。押しつぶされるようなかんじだ。
「うむ」
我知らず、慈音は呻いた。
「慈音様？」
「・・いや、何でもありませぬ」
一瞬、脳裏に不吉な影がよぎった。が、気のせいだと決めつける。それを認めるには慈音はまだ、若すぎた。
「人に取り憑く狐狸や悪霊というものはそれほど力のあるものではありませぬ。そのあたりをさまようものが何かの拍子に心へ入り、体を乗っ取ってしまうのです」
「へへえ」
「大抵はその場に染み着いた『気』が力を貸し、心の弱っている者に入り込むのです。おゆう殿にも隙があったのでしょう」
慈音は静かな声で言いながら、おゆうを見た。
やがて、慈音による調伏が始まった。
南に組まれた壇に三角形をした調伏炉を焚く。ふうんと香が座敷に満ちた。壇と慈音の間には縛られたおゆうがぐったりと横たわっている。
それに向かい、趺坐した慈音は刀印で空中に九字を切った。
「のうまくさんまんだ・ばさらだんせん・だまからしゃだそわたや・うんたらたかんまん」
内縛印、剣印。
「なうまく・さまんだばざらだん・かん」
大工達は慈音から少し下がってかしこまって座っていた。固唾を呑んで慈音の肩越し、おゆうを見守る。
段々に慈音の唱える真言が勢いを増してくる。
応えるようにその場に静かな力が沸き起こり溢れ出すのを万治達もぼんやりと感じることができた。そわそわと落ちつかない気分になってきたからだ。
「おん・きりきり おん・きりきり」
不動金縛法。
五大明王のひとりにして、怨敵調伏の力の最も強いとされる不動明王の力を借り、災いをなす悪霊などの動きを封じ込めてしまう修法である。
慈音はこの不動金縛法を得意としていた。
「びぎなんうんたらた・かんまん！」
一際高く、慈音の声があがった。
おゆうの体が一尺ばかり跳ね上がる。
「ああっ！」
「静かになされよっ！」
一喝して、慈音は両の手で忙しく様々な印形を結びながら真言を唱え続ける。時折、大きな声を出す度におゆうは体をのけぞらせ、跳ねた。しかしどんなに体が不自然に跳ねても、おゆうは目を閉じたままだ。
そのおゆうに向かい、片膝を立てた慈音は気合いを込めて真言を大音声で呼ばわった。
「だまからしゃだそわたや・うんたらたかんまん！」
「こうっ！」
表情のないまま、おゆうの口から化鳥のような叫び声が迸る。そしてさらにあり得ないことにおゆうの体は宙に浮いて止まった。
万治も他の二人もただ口をあんぐり開けてそれを見ていた。あまりのことに言葉を失ったように。
（・・おのれ、高々密教坊主の分際で妾の邪魔をするとは・・）
（何？）
（小賢しや）
浮いたまま、おゆうはもちろん正気ではない。
しかし慈音もまた、平静を失いかけていた。
不動金縛りにあっては仮に意識があったとしても声を出すことはできない。慈音の術にあった悪霊ならばなおのこと、『声なき声』で話しかけてくるなどあり得ない。
（おのれ如きに妾が縛れるものか）
と、おゆうの中に潜むものは笑った。笑ったと慈音は感じた。
（何者だ、おまえは！）
（おのれのようなものに名乗るものか）
その『声』を最後に声の主は気配を消した。
おゆうは支えられていた力から解放され、大きな音を立てて畳の上に落ちた。
「おゆう！」
一番先に我に返ったのは万治だった。転げるようにおゆうのそばへより、娘を抱き抱えた。おゆうは穏やかな表情でゆっくりと呼吸していた。普通に眠っているのと変わらない様子だ。
「お、おゆう、おゆう！」
「ああ、ん、お父っつぁん・・」
微かであったおゆうは目を開いた。すぐにまた眠りに落ちたが万治にはそれで十分だった。
「ああ有り難うごぜぇやした、有り難うごぜぇやす」
万治は男泣きに泣きながら慈音の前にひれ伏した。何度も何度も礼を繰り返し、しばらく泣きつづけた。