きつねつき
（壱）
俗に両国三千両という。
江戸一番の繁華な街である両国界隈では昼間の商いでまず千両が、日が暮れてからの舟遊びで大川にまた千両、陸の上では船宿や茶屋でもう千両の金が動くというのだ。
夏の間はまさしくその言葉の通りであった。
が、秋風が立ち、虫の声が喧しくなると大川に舟を仕立てて夕涼みを決め込んでいた道楽者の姿もさすがにもう見えない。この気候にそんなことをするのは本物の酔狂である。朝夕はもう肌寒く、単衣では心許なく感じられるほどである。目にはしかとは見えないが、すぐそこまで冬がやってきているのだ。
しかし夕暮れ、すすきが風に揺らいでいるのを見るといかにも風情がある。そこで今時分には風流を気取る道楽者がそぞろ歩くことになるのである。遊び好きには春夏秋冬、晴天曇天無関係ということか。
だが日本橋の通称「反物長屋」という裏店の住人である重蔵はそんな風情をかえりみる余裕もなく、ただ一心不乱に走っていた。
重蔵は小柄だが、がっしりとした体つきの大工である。普段は粋で鯔背で洒落者な江戸っ子を気取っている重蔵の鬢は乱れ、新調したばかりの草履は左の足にしかない。
だが今の重蔵にはそんなことに構う余裕はない。
喘ぎながら重蔵が両国橋を駆け渡った、その時。
「おーい、重蔵さん、どうしたんですぅ」
重蔵へ、何とも緊張感を欠いた男の声がかかった。
両国広小路、声をかけたのはくるくると丸めた幟を肩に担いだ痩せた浪人だった。古い熨之目小袖と鼠袴はよれよれだったが、きっちりと身につけていて、垢じみたところが少しもない。
「重蔵さんってば」
通り過ぎようとした重蔵の背中にもう一度呼ばわると、やっと走ってきた男は足をゆるめた。
「・・・は、はあ、伊吹のだん、な・・・」
乱れに乱れた苦しい息で重蔵はそう言った。言いながらがくんと膝の力が抜ける。まだ若いその浪人、伊吹三郎太は慌てて幟を放り出し、重蔵を支えた。
三郎太は大工の重蔵と同じ反物長屋の住人で、ガマの油売りをして生計を立てていた。年も近く独り身の二人は時折、一緒に酒を飲んだりもする。
「す、すいやせ、ん」
「一体どうしたんです？何かあったんですか？」
「そ、それが・・でもその前に水が欲しい・・」
重蔵と三郎太はちょっと路地に入った飯屋の縄のれんを潜った。さかみ屋という屋号の飯屋は夜遊びに繰り出そうと言う放蕩者がまず腹ごしらえに寄る店なのでそんなに高くはないのである。
冷や酒を立て続けに四杯ほど飲み干して、やっと重蔵は落ちついたようだった。
「で、何がどうしたんです？」
「それが旦那、狐なんですよ」
「きつね？」
「うちの棟梁のおじょうさんに狐が憑いたんでさぁ」
重蔵は神妙な顔をして三郎太の耳元に囁いた。
深川木場近くに大工の棟梁・万治は一人娘のおゆうと二人で暮らしていた。女房はおゆうが子供の頃に流行病でぽっくりいった。場所柄、仕事柄、女の肌身を女房以外に知らないわけではもちろんなかったが、万治は後添いは貰わずにやってきた。
身の回りのことはおゆうがやってくれるから不自由はなかったし、何より、娘と二人の暮らしが気に入っていたからだ。
しかし、万治も六十を越えた。
ふと娘を見ると、嫁にもいかないでいた一人娘は三十を目の前にした大年増になっていた。亡き女房似のどっしりした体つきのわりに幼くみえるのは所帯を持っていない気楽さからだろう。おゆうにしても父親のそばにいると居心地がよいのだ。
さすがに万治、これではいけないと思った。孫を抱いてみたいと思ったのもある。
ともかく、半年ほど前のある日、突然に万治はおゆうに言った。
「おい、おまえにも好いた男の一人くらいはいるだろう、今からでも遅くはねぇや。嫁に行け」
おゆうは突然の父親の言葉に唖然とした。あまりに驚いたので、ぬか漬けを仕込もうと持ち上げていた漬け物石を危うく足の上に落とすところだった。
「何を急に言い出すのさ、お父っつぁん」
「うるせぇ、おらぁ孫を抱きたくなったんだ。よし、おまえに心当たりがねぇってんならおれが探す。なに、簡単なことだ。おれの後を継ぎてぇって大工はいくらでもいらぁな」
宵越しの金は持たないのが信条の江戸っ子、深川木場の大工の棟梁。「思い立ったが吉日」というのはこういう手合いを指す。
その言葉通り、万治はその日のうちにおゆうの婿候補を二人連れて戻ってきた。
その二人を伊太郎と惣太という。
いずれも大工で、若いときから万治が目をかけ仕込み、なにかれと世話をしてきた男達だ。おゆうもよく知っている。伊太郎はおゆうより三つ上で二年前に女房を亡くしていたし、惣太は一つ年下だ。
「さあ、おめぇの好きな方を選びゃがれ」
選びゃがれ、と言われて選べる訳もない。犬や猫のことではないのだ。
おゆうは呆気にとられて三人の顔をかわるがわるに見比べた。むかむかと腹の底から怒りが込みあがってくる。
何と無神経な男達なのか。
自分をなんだと思っているのだろう。
確かに好いた男がいるわけではないが、だからといって誰でもいいわけがない。男に飢えた大年増だと思っているのか。
それならそれで考えがある。
しばらくして。おゆうがやっと口を開いた。
「・・・わかったよ、お父っつぁん」
そして大きく溜息をついた。
「おう、で、どっちにする？伊太郎か？惣太か？」
「・・・話は最後まできいとくれ」
おゆうは言いながら大徳利を出してきて、どんぶり茶わんになみなみとついだ。
それを一息に飲み干す。あまりの飲みっぷりに男共は目を見張った。
おゆうにしてみれば、こんなふざけた話に素面でつき合いきれないというところだろう。ふっくらとしたもち肌があっと言う間に薄桃色になった。
「あたしだって大工の棟梁、万治の娘だ。ひとり前の腕のいい大工の女房になりたいさ」
「どっちもこのおれの太鼓判付きだ」
万治がうんうん頷いて言った。
おゆう、無言で父親を睨み付ける。
「だから、こうしようじゃないか。伊太郎さんと惣太さんで家を一軒建てておくれよ。半分づつさ。それをみせてもらおうじゃないか。普請のお金はお父っつぁんもちだ。文句はないよね？」
「開き直った女というものは、実に恐ろしいものでさぁね。男三人に啖呵をきってびくともしねぇんだから」
と、重蔵は三郎太に言った。
さかみ屋の、それほど広くはない店の中はそろそろ込み始めている。客は秋の夜長に遊びに繰り出す若い連中が多い。
「亀戸の入会地のあたりに土地がありましてね、棟梁が若い頃に手に入れたとかで。そこに家を建てることになったんですよ」
話を聞きながら三郎太は豆腐の田楽に箸をつけた。さかみ屋の豆腐田楽は三郎太の好物のひとつである。箸の先で器用に切りわけて小口に切った白葱と一緒に焼いた味噌をつけて食う。
「おれも手伝ったんですよ。で、今日がそのお披露目だったんでさぁ」
「ほう」
「いよいよ伊太郎さんと惣太のどっちにするか、おゆうさんが引導わたそうって時に、突然」
「きつねが憑いたってわけか・・」
重蔵は頷いた。
「そりゃあもう、暴れる暴れる。女とはおもえねぇ馬鹿力で、襖も障子も何枚も重ねて真二つに手裂きにしたんですぜ？目は血走って、涎をたらして髷はめちゃめちゃ。恐ろしいなんてもんじゃなかった」
重蔵は思い出したのか、肩を竦めた。箸をおき、三郎太は不意に重蔵の手を取った。そっと重ねるようにである。
「だ、旦那？あっしはそのテの方面は・・」
重蔵の声が裏返る。
「話を続けてくれ」
重蔵は戸惑った。しかし三郎太がまじめな顔をしているので逆らうのにも気が咎める。そこで仕方なく話を続けることにした。
「・・・急に暴れ出したから最初は何がなんだかさっぱりわからなかったんですがね・・。その場にいた皆でおゆうさんを縛りつけたんですよ」
「・・三人、四人・・全部で六人いたんだね？みんな大工さん？」
「へ、へぇ」
重蔵はそれこそ狐に摘まれたような顔をして三郎太を見た。三郎太は瞬きもせず、じっ猪口に残った酒を見つめている。
「ところが何度縛り上げてもすぐに縄がするすると解けるんですよ。大の男が六人がかりで押さえつけてるのに、ちょいとでも気を抜くとはねとばされちまう」
「・・それで柱で腰を打ったんだね」
「・・・・旦那」
重蔵は三郎太に取られていない方の手で腰をさすった。腰を打ったことはまだ言ってはいない。重蔵は三郎太が恐ろしくなってきた。
重蔵にはわからないことだったが、三郎太の目には酒の面に重蔵の見た光景が見えていた。幻視の術である。
「重蔵さん」
三郎太に促されて、重蔵は話を続けた。
「・・誰かが『きつねが憑いたんだ』って叫びましてね、慌てて竈の神棚から御神酒を取ってきておゆうさんにふりかけたんですよ。そうしたらぎゃあと叫んでからうずくまったんで・・」
「縛りなおして神棚のお札を張った、と。なるほど。応急としては上出来じゃないですか」
「はぁ・・縛ってからは暴れなくなりましたが、ずっと唸り声をあげてましてね、目もこう、つりあがってままで・・恐くって、もう」
たまらず飛び出したんでさぁ、と言った。
「・・・うん」
三郎太は正気を失い、紅い目を光らせた年増の女を見た。後ろ手に、太い柱に縛りつけられている。縛り目にはどこかの社のお札が張ってあるようだった。
三郎太は重蔵の手を放し、懐手で考え込んだ。
「重蔵さん、これはどうも厄介なものが憑いたようですよ。明日、私をそのおゆうさんのところに連れていって貰えますか？」
「伊吹の旦那・・・？」
重蔵は飲み友達で、薄い壁一枚隔てて寝起きしている若い浪人の顔をまじまじと見つめた。いつになく、まじめな目をした油売り浪人はそんなことにはお構いなしにじっと考え込んでいた。