『虹の彼方に』のメロディが聞こえてきた。情けない電子音。読んでいた本から目を上げると、ドアをはさんですじ向かいに座っていた女の人がハンドバッグから携帯を取りだすのが見えた。よりによって『虹の彼方に』を着メロにするとは。
携帯を耳に当て、「はい」と答えた次の瞬間、女の人の顔がぱっと華やいだ。旦那さん？恋人？それとも子供？連想がそこに行きついたとき、わたしの気持ちは少し沈んだ。
読みかけの本に戻ろうとしたとき、向かいに小学生くらいの男の子が座ってるのに気付いた。見覚えのある顔。
男の子はきれいな横顔をわたしに見せて、携帯の女の人を見ていた。女の人の頭上には「車内での携帯電話はご遠慮ください。他のお客様のご迷惑になります」のシールが。ルール違反が許せないのか？
視線に気付いたのか男の子はわたしの方を向いた。そしてわたしのことをじっと見た。わたしも男の子のことをじっと見つめた。その間三秒くらい。先に目を逸らしたのはわたし。
にらめっこじゃないっつーに。男の子は笑っていた。
「先日はどうも」
わたしは座ったまま呟くようにそう言ってわずかに頭を下げた。男の子は手を耳のところにやって、聞こえない、というそぶりをした。
仕方がないので、わたしは男の子の隣に出向いて「先日はどうも」と言い直した。
「どういたしまして、当然のことをしたまでです」
返ってきたのはわたしよりもずっと大人の言葉。ちょっとだけ萎縮。でもわたしのほうが年上なんだぞと自分のことを励ましながらなんとか言葉を繋ぐ。
「たぶん脳貧血というヤツだと思います。ときどきなるんです」
「そうですか。もしかしたら疲れがたまっていらっしゃるのではありませんか？」
「いいえ、たんに寝不足なんです」
「勉強がお忙しいのですか？」
・・・うぅむ。返す言葉に詰まる。本とかまんがとかを読んでるうちにいつのまにか夜が更けて気付いたらあたりが明るくなりかけてて慌ててベッドにもぐり込むけど二時間もしないうちに起床、なんてわたしの生態を説明するのはちょっと。というわけで「ええまあ」とかお茶を濁す。
「どうか気をつけてくださいね」
本当に気遣ってくれるような言葉の調子に、良心だかなんだか知らないけど心のどこかがちくりと痛む。そしてわたしはお礼の言葉を述べる。
「はい、ありがとうございます」
先週の木曜日。
掃除当番のない日はいつもいま乗ってる各駅停車で帰る習慣になっている。というか、電車が十五分に一本くらいしか来ないので、五分前後の誤差で学校を後にすると、たいていこれに乗ることになってしまうのだった。
で、もう少し先の駅で急行に乗り換えると十分くらい早く家に着く。早く帰りたい日はそうするし、今日みたいに読みたい本がある日は乗り換えずに各駅停車でゆっくり読書。
先週の木曜日は体育がなかったにも関わらず妙に疲れていて、少しでも早く家に帰りたかった。というわけで急行に乗り換えパターンを採用、ホームで電車を待っていたところ突然めまいに襲われ、もう少しで進入してきた急行の鼻先に転落するところだった。
それを助けてくれたのがこの男の子。どうやって助けられたのかはまったく覚えてない。というか最初から知らない。とにかく気付いたらホームに座り込んでいた。駅の人が「この子が助けてくれたんだよ。よくお礼を言っておきなさい」と教えてくれなかったら、助けられたことさえ知らずじまいだったろう。
「あなたには何かお礼をしないとね」
わたしはろくに挨拶もしないであのとき男の子と別れたことを後悔していた。だから今更だけどなにかお礼をしなくては、と思ったのだが、せいぜいファーストフードでご馳走するくらいのことしか思い付かなかった。それがあんまり子供じみたことに思えたので、
「ご好意に甘えてもいいですか？」と男の子が言い出したときは、嬉しかったというよりもほっとしていた。
「いいよ。どんなこと？」
「僕の話を聞いて欲しいんです」
「話？どんな話？」
「少し長くなりますが──舞さんの命に関わる話です」
わたしはなんともいえない嫌悪を感じた。というのも先週の木曜日にわたしは男の子に名前を明かしたりはしなかったから。ブレザーの内側の刺繍を見るくらいしかわたしの名前を知る方法はなかったはずだ。
「どうしてわたしの名前を知ってるの？ブレザーの刺繍を見たんでしょ」
「違います。とんでもないです」
男の子は両手を振って否定した。
「職務上の権限によって舞さんのことを調べさせて頂きました」
「職務上の権限？」
「そうです、職務上の権限で調べました。正確な言い方ではありませんが、僕は国家公務員みたいなものなのです」
「子供なのに？」
「そうです、子供なのに、です。僕のような能力を持っている人間は少ないのです」
「能力？」
「それはあとで説明します」
よくわからないけど、ものすごく胡散くさいことだけは確かだった。あっちの世界にイッちゃってる子なのか、それとも壷とかの可愛いセールスマンなのか。
でも、わたしの命に関わる、ってのがすごく気になった。どういうことだろう？占いとかそういうのでわたしの運命がどうにかなるとかいうのだろうか？
少し考えて、結局男の子の話を聞くことにした。ここは公共交通機関の中、いざとなったら助けを求めることだってできるだろうし、この華奢な男の子が相手なら腕力でも勝てそうな気がした。走って逃げるのはもっと確実だろう。
つまり好奇心に負けたのだ。好奇心は猫を殺す、というのに。
「話を聞くけど、ひとつだけ条件がある」
「どんなことですか？」
「あなたの名前を教えて」
名前さえ知らない相手と話をするのはどうしても嫌だったのだ。
「わかりました。悠です。悠久、の悠という字を書きます」
「苗字は？」
「それは勘弁してください」
「まあいいや。で、話っていうのは？」
「はい・・・」
男の子──悠くんが最初に確認したのは、わたしの懐中時計が今どこにあるか、ということだった。
「あれは壊れたので駅前の時計屋に修理に出してる。今日帰りに取りに行く予定」
「そうですか。では、後で僕をその時計店に連れていってくださいませんか？」
「その前に事情を説明して」
「そうですね。まず、僕の職務の内容なんですが・・・
長い年月を経て『魂』を持つに至った物──道具とか機械とか──が暴走するのを防ぐことが僕の仕事です。かつてはそういう『魂』を持つに至った道具や物は『つくもがみ』と呼ばれ、妖怪のようなものだと考えられていました。今ではそれらが物理的、あるいは化学的現象であることがわかってきました。まだよくわからない部分も多いのですが、『つくもがみ』を消去する方法はすでに数多く確立されています」
「なんのことだかさっぱりわからない」
「つまり、舞さんの懐中時計が『魂』を持ってしまっていて、それが舞さんに害を及ぼそうとしたんです」
「別に何の変哲もない、古い懐中時計だよ、あれは」
「でも先週舞さんを線路に突き落としかけたのは、あの懐中時計なんです。この装置に異常が記録されていました」
悠くんは腕時計をはずして見せてくれたが、それは血圧計とか気圧計のごてごて付いた時計とどこがどう違うのか、わたしにはわからなかった。
「これはGPSと磁気記録計を組み合わせたものなのですが、つまり僕のいる場所と、その場所における磁気が記録される装置なんです。もちろん時刻も同時に記録されます。
帰ってから分析器に掛けたところ、『つくもがみ』特有の磁気が記録されていたことが確認されました。それは地磁気や電車のモーターから出される磁気と比べたら本当に僅かなものですが、独特のパターンを持っているので、ノイズに埋もれることなく検出できるのです」
・・・どうやら悠くんはいろんな本を読みすぎてすっかりあっちの世界へイッてしまった子のようだった。わたしはほとんど慈悲の心から、かわいそうな悠くんの話をひととおり聴いてあげることにしたのだった。形だけでも。
でもわたしだって悠くんの仲間みたいなものだった。さっきまで読んでいたのはジェイムズ・ティプトリー・ジュニアという人の書いた『たったひとつの冴えたやりかた』という本で、『虹の彼方に』のメロディが聞こえてくるまですっかりその世界に耽溺していたのだった。
この本には三つの話が収められていて、そのいちばん最初の話が本の名前と同じ『たったひとつの冴えたやりかた』だ（もっとも本の原題は"The Stary Rift"というのだけど）。主人公コーティー・キャスはわたしとおない年の十六歳。誕生日にはスペース・クーペを両親からもらった。うらやましい。でもわたしは十六歳の誕生日にお父さんから懐中時計をもらった。百年くらい前にスイスだかどこだかで作られたもので、シンプルな銀色の時計。友達に見せたらジジくさいと言われたけどわたし的にはとても気に入ってる。ブレザーのポケットから時計を出して蓋を開けて時刻を確認。これを片手でできるようになるまで訓練した。ひまじん。時計には長い組紐を付けてスカートにクリップで止めている。友達はそれを見てまたジジくさいというけど気に入ってるから気にならない。
そういえば先週線路に転落しそうになったとき、ちょうどその時計を見ていたのだった。家に帰って時計が動かなくなってるのに気付いて、翌日修理に出したのだけど、もしかしたらホームに座り込んだときにどこかにぶつけたのかもしれなかった。
駅前の時計屋さんは三十半ばくらいの女の人がやっている。すごくかっこいい人。懐中時計を持って行って直りそうですかと聞いたら、ちょっと見せてとわたしの掌からそっと時計を手に取り、いたわるように眺めてから「いい時計ね」とにっこり笑った。
「うちに代々伝わる時計なんだそうです」
「そう、大切な時計なのね。ちょっと待ってて、今中を見てみるから」
時計屋さんはその場で蓋を開け、ルーペで中を覗きこんだ。
「ふーん、なるほどね・・・」
時計屋さんはカウンターの上に布を敷き、その上に時計を載せて針みたいなドライバーで歯車を指して説明してくれた。
「ねえ、この歯車が見える？この部分が欠けているのがわかるかな」
そういってわたしにルーペを手渡す。
「はい」
「でね、この時計の部品はなかなか手に入らないの。探しては見るけど。もし手に入らないときはこの歯車を作り直すか欠けた歯を埋めるしかないの。欠けてるのは一枚だけだから、多分歯を埋めてやるだけで済むと思うんだけどね。他の仕事もあるから少し時間がかかるかもしれないけどいいかな？」
「はい、構いません」
「あと、お金も多少余分にかかるかもしれないけど大丈夫かな？」
「父に出してもらうから平気です」
「はははは、なるほどね。それじゃあ修理ができたら連絡するから。ここに名前と電話番号を書いて」
わたしがそんなことを考えたり思い出したりしている間、悠くんは世界がたくさんあるとかの難しいわけのわからないことをしゃべり続けていた。でもそういう世界に取り憑かれているにしてはつまらなそうなしゃべり方だった。
降りる駅まであと二つ、というところで悠くんの話は終わった。
「つまらなかったでしょう？ごめんなさい」
「そんな、気にしなくていいよ」
「僕もこんな話をするのは嫌なんです。どう考えたってまともに受け入れられる話じゃないし。でも規則なんです。異世界で人に接するとき、最初に必ずこの説明をしなくちゃならないんです。僕の上司はこの規則のばかばかしさをよくわかってくれているんですが、規則を作る連中にはそんなこと思いも及ばないのでしょうね」
よくわからないけど、妄想にしろ何にしろ、いろいろ大変なことがあるらしかった。悠くんを時計屋さんに連れていくのはちょっと不安だけど、まあ、命の恩人だし。